沈まぬ太陽
地元の映画館で、沈まぬ太陽を観た。
上映開始二日目ということもあり、場内はほぼ満席。客席は、中高年が目立つものの、20代30代もみられる。途中休憩をはさむ4時間弱(202分→3時間22分)の映画なんて、20年以上前に見た東京国際映画祭で上映されたノーカット版のラストエンペラー以来の長さだ。(219分→3時間39分)さぞトイレ休憩が大変なことになるだろうと、通路側にシートを確保して、自宅から水筒持参で映画館へ向かった。
主人公恩地元が労働組合委員長という設定が、すでに時代を感じる。それは僕らが生まれたころ、赤だ青だと、世論が割れていたころ。成田闘争や東大安田講堂の占拠明渡闘争など、「歴史」として認識している時代。そんな時代に、仲間のため、お客様のため、会社のため、闘ってきた恩地は、常に翻弄され続ける。筋を通し、まっすぐに生きる者への容赦のない攻撃。それは陰惨で執拗ないじめであり、社会と会社が、別物であることを如実に示す証拠。最近、JR西日本の福知山線脱線事故で、同じような光景が見られた。企業とは、大企業とは、かくも情けない、恥ずべき歴史を繰り返すのかと、悲しくなる。
生きることとは、闘うこと、その相手はその時々によって変わるものの、必ずしも社外とは限らない。ねたみも、そしりも、足の引っ張り合いも、残念がらどこの会社にも普通にあるのではないか。それが大きな力になったとき、人は保身に走り、事故原因を、事故究明を、自らの過失を隠そうとする。経営者も役職者も。そんなことを法は認めていないのに、変わらない。輸送機関も、食品会社も、金融機関も。
恩地の主張は痛いほどわかるが、それを貫く方法は、おそらく変わってきた。さしづめ私なら、どこかのサイトから事実をありのまま発信し続けるだろう。不正は不正、不当利得は不当利得、詐欺も脅迫も、犯罪だ。ただ、そもそも何が詐欺でなにが脅迫で、なにが不当利得か、なんてひろく社会が決めるもの。会社が決めるものじゃない。まして得意先や取引先との小さな社会だけが、社会じゃない。その意味では、世の中おかしなことが多すぎる。恩地は、ただひたすら黙って、自らの役割を受け入れる。一面でカッコよく、一面でものすごく不器用。すくなくと行天より実直ではあるが。
国民航空は、いま話題になっているナショナルフラッグがモデルだといわれている。その意味で、ナショナルフラッグをナショナルフラッグのまま、国民の税金で救済するのが本当にいいのかどうか、たとえば特定の企業に勤めていた退職者の企業年金を、広く国民の税金で負担させていいのかどうか、わからない。ただ破産にしろ民事再生にしろ、ADRにしろ、企業が企業として存続できなくなったとき、その責任は「なんとかするべき立場にあったひと」が広く負うべきではないだろうか、と私は思う。経営者だけが責任を負うのか、経営職層だけが責任を負うのか、もっと広いのか、わからない。けれども清算企業で清算業務をしていると、こうなる前になんとかならなかったのか、自分になにかできなかったのか、考える。それは社会に対する従業員、勤め人の役割なのだろうと思う。だからこそ、かの企業はいっそ法的整理に持ち込んでしまうことが必要なのかもしれない。かつてのJRと同様に、組合活動や政治のしわ寄せを受けたナショナルフラッグは、自力でどうにもならないなら、きちんとガラス張りにして説明責任を果たすべきだろう。借金がいくらあるのか、それが同業他社とくらべてどうなのか、企業努力は可能なのか、航空行政はどうだったのか、などなど考えるべき枠組みは数多いのに、それを政治が利用しているようでは、なるものもならなくなる。
映画でも描かれている、一方的なマスコミの報道体制。右と言えば右、左と言えば左。テレビも新聞も雑誌もインターネットニュースも、一旦コメント部分をすべて省いて、またわざと切り取られているかもしれない、見えない聞こえない報道に、目を向け耳を澄ませて、物事をみる習慣が必要だろう。学生時代、久米宏がニュース番組でコメントをはじめたことに、大変危機感を抱いていた友人がいた。彼は言っていた。ニュースはニュースとして事実を伝えなくてはいけない、コメントを伝えた瞬間にニュースはニュースでなくなり、プロパガンダになると。いまやプロパガンダまっさかり。マスコミはプロパガンダだらけといってもいいほど。特に政権交代によって、誰がなにを支持しているのか、はっきりわかったような気がする。悲しいことは、誰一人として色眼鏡のかかっていない報道をしていないこと。いや、色眼鏡をかけずには、報道ができないほど、この国の報道機関は抑え込まれている、腐ってしまったのかもしれない。もちろんすべての報道に携わる人を非難するつもりもなく、また事実を伝えようとする報道関係者が、一人でも多く、いまでもいることを切に願う。真実はいつも「藪の中」とならないように。
映画なのに、すがすがしさがない。山崎豊子氏の描く繊細な描写がエンターテインメントでない、記録映画のような欧米の映画のような、後味を残す。こういう映画をたくさんの人が観る。日本国民が、広くいろんなことを考えるようになる。国民の意思が、こういう形で形成されていくことに、強く期待したい。


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