カテゴリー「映画・テレビ」の22件の記事

沈まぬ太陽

地元の映画館で、沈まぬ太陽を観た。
上映開始二日目ということもあり、場内はほぼ満席。客席は、中高年が目立つものの、20代30代もみられる。途中休憩をはさむ4時間弱(202分→3時間22分)の映画なんて、20年以上前に見た東京国際映画祭で上映されたノーカット版のラストエンペラー以来の長さだ。(219分→3時間39分)さぞトイレ休憩が大変なことになるだろうと、通路側にシートを確保して、自宅から水筒持参で映画館へ向かった。
主人公恩地元が労働組合委員長という設定が、すでに時代を感じる。それは僕らが生まれたころ、赤だ青だと、世論が割れていたころ。成田闘争や東大安田講堂の占拠明渡闘争など、「歴史」として認識している時代。そんな時代に、仲間のため、お客様のため、会社のため、闘ってきた恩地は、常に翻弄され続ける。筋を通し、まっすぐに生きる者への容赦のない攻撃。それは陰惨で執拗ないじめであり、社会と会社が、別物であることを如実に示す証拠。最近、JR西日本の福知山線脱線事故で、同じような光景が見られた。企業とは、大企業とは、かくも情けない、恥ずべき歴史を繰り返すのかと、悲しくなる。
生きることとは、闘うこと、その相手はその時々によって変わるものの、必ずしも社外とは限らない。ねたみも、そしりも、足の引っ張り合いも、残念がらどこの会社にも普通にあるのではないか。それが大きな力になったとき、人は保身に走り、事故原因を、事故究明を、自らの過失を隠そうとする。経営者も役職者も。そんなことを法は認めていないのに、変わらない。輸送機関も、食品会社も、金融機関も。
恩地の主張は痛いほどわかるが、それを貫く方法は、おそらく変わってきた。さしづめ私なら、どこかのサイトから事実をありのまま発信し続けるだろう。不正は不正、不当利得は不当利得、詐欺も脅迫も、犯罪だ。ただ、そもそも何が詐欺でなにが脅迫で、なにが不当利得か、なんてひろく社会が決めるもの。会社が決めるものじゃない。まして得意先や取引先との小さな社会だけが、社会じゃない。その意味では、世の中おかしなことが多すぎる。恩地は、ただひたすら黙って、自らの役割を受け入れる。一面でカッコよく、一面でものすごく不器用。すくなくと行天より実直ではあるが。
国民航空は、いま話題になっているナショナルフラッグがモデルだといわれている。その意味で、ナショナルフラッグをナショナルフラッグのまま、国民の税金で救済するのが本当にいいのかどうか、たとえば特定の企業に勤めていた退職者の企業年金を、広く国民の税金で負担させていいのかどうか、わからない。ただ破産にしろ民事再生にしろ、ADRにしろ、企業が企業として存続できなくなったとき、その責任は「なんとかするべき立場にあったひと」が広く負うべきではないだろうか、と私は思う。経営者だけが責任を負うのか、経営職層だけが責任を負うのか、もっと広いのか、わからない。けれども清算企業で清算業務をしていると、こうなる前になんとかならなかったのか、自分になにかできなかったのか、考える。それは社会に対する従業員、勤め人の役割なのだろうと思う。だからこそ、かの企業はいっそ法的整理に持ち込んでしまうことが必要なのかもしれない。かつてのJRと同様に、組合活動や政治のしわ寄せを受けたナショナルフラッグは、自力でどうにもならないなら、きちんとガラス張りにして説明責任を果たすべきだろう。借金がいくらあるのか、それが同業他社とくらべてどうなのか、企業努力は可能なのか、航空行政はどうだったのか、などなど考えるべき枠組みは数多いのに、それを政治が利用しているようでは、なるものもならなくなる。
映画でも描かれている、一方的なマスコミの報道体制。右と言えば右、左と言えば左。テレビも新聞も雑誌もインターネットニュースも、一旦コメント部分をすべて省いて、またわざと切り取られているかもしれない、見えない聞こえない報道に、目を向け耳を澄ませて、物事をみる習慣が必要だろう。学生時代、久米宏がニュース番組でコメントをはじめたことに、大変危機感を抱いていた友人がいた。彼は言っていた。ニュースはニュースとして事実を伝えなくてはいけない、コメントを伝えた瞬間にニュースはニュースでなくなり、プロパガンダになると。いまやプロパガンダまっさかり。マスコミはプロパガンダだらけといってもいいほど。特に政権交代によって、誰がなにを支持しているのか、はっきりわかったような気がする。悲しいことは、誰一人として色眼鏡のかかっていない報道をしていないこと。いや、色眼鏡をかけずには、報道ができないほど、この国の報道機関は抑え込まれている、腐ってしまったのかもしれない。もちろんすべての報道に携わる人を非難するつもりもなく、また事実を伝えようとする報道関係者が、一人でも多く、いまでもいることを切に願う。真実はいつも「藪の中」とならないように。
映画なのに、すがすがしさがない。山崎豊子氏の描く繊細な描写がエンターテインメントでない、記録映画のような欧米の映画のような、後味を残す。こういう映画をたくさんの人が観る。日本国民が、広くいろんなことを考えるようになる。国民の意思が、こういう形で形成されていくことに、強く期待したい。

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マネー資本主義

マネー資本主義第4回放送を見た。
大学時代に学問として学んだ金融論が、いつのまにかより高いリターンを求める欲望の化身として暴走する様を見せつけられた、この数年の動きが、よりによって9.11によって加速されていたとは。当時誰もが、歴然と眼前に広がる経済格差に、一度は振り返ったはずなのに。
なにがその経済的豊かさを産み出しているのか、日本の「失われた10年」はなぜ振り返られることはなかったのか?経済は、いやすべての資産価格は、その歴史で示されるとおり、上がりもし下がりもし、時に暴騰し暴落するにもかかわらず、「下がらない」とどうして言いきれたのか?経験していないこと、データに基づかないことは、立証できないがゆえに「真実ではない」と言えるのだろうか?
ひとは、どんな境遇に生まれ育っても、どんな状況にあっても、豊かな生活を望む、という仮定が経済学の出発点であったはずだ。それが理性や倫理とは異なるロジックであり、同列に比較してビジネスを行うことは、経済合理性において極めて困難だからこそ、法律があり自らコントロールするシステムを持ち、企業活動や投資家活動が行きすぎないようにしていたのが、近代の経済運営ではなかったか?いったいどこへ行ってしまったのか?
当たり前のことだが、金融工学がこのファイナンシャルクライシスをもたらしたわけではなく、モラルハザードだけが今回の原因でもないだろう。番組で触れていた、「マンハッタン計画」のように、テクノロジーがそのテクノロジーの提供者の意思とは離れて、ひとの欲望のためだけに用いられた時に、みずからの身をも滅ぼしかねない致命傷となる。しかもその経済活動ないし市場自体は、それを律する手段も役割ももたない。それはビジネスとは別のベクトルの力が必要だから。
明日、最終回の報道がなされるそうだ。ジェーン・ジェイコブス氏は、その著書「市場の倫理統治の倫理」日経ビジネス文庫刊で、すでに市場の暴走を市場自身が食い止めることはできない、と指摘している。また「壊れゆくアメリカ」日経BP社刊で、その基礎となる数々のシステムもまた、崩壊の危機にあると危惧している。僕らがすべきことは、市場と統治のバランスをとることであり、ひとが安心して明日を迎えることができるシステムや仕組みをつくること、またはリデザインすることではないか。そのためにはみんなが投資家や企業家でも、みんなが官僚や法律家でも困ることになる。世界が平和で、かつ豊かであるために、その豊かさは多様な豊かさが、相互に尊重されるように、サステイナブルで機会均等でありますように。なんだか過ぎてしまった七夕のお願いごとのような、そんなことを考えさせてくれた。

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劇場版ハゲタカ

公開初日に「ハゲタカ」を観た。テレビや映画と小説とでは、一部設定が異なるようだが、貪欲な資本主義に群がるファンドマネーの描き方は、相変わらずえげつなく、しかし欲望に正直だ。監督が将来を嘱望される、NHKプロデューサーというのもうなづける。青い目でも、褐色の肌でも、世界中がグリードイズグッドの原則で動いているのだから、特に日本人をホワイトナイトと描く必要もなく、特定の国や地域を敵視する必要もない。資本主義がナショナリズムと結び付くほうが、恐ろしいことになると歴史は教えてくれる。だからNHK作品なのだろう。この映画が例えば中国で受け入れられるとは、残念ながら思えない。アメリカでも無理かもしれない。ヨーロッパ特にイングランドやドイツで、どんな反響があるだろうか。またインドやUAEなど中東はどうだろう。「あぶく銭」と言い切ってしまう鷲津の台詞は痛快だが、ファンドマネーであるが故に、ファンドマネージャーは自らの良心や好き嫌いにかかわらず、ビッグマネーを追いかけざるをえない。成功報酬があるから、ひとはアクションする。それは例えばソーシャルビジネスの世界とは、相入れない。それを綺麗に描きすぎているのか、映画だからわざと鷲津の真意を「綺麗に」みせたのか。
サブプライムショックが映画のように、だれかが行き過ぎた資本主義にビジネスチャンスを見出だして仕掛けたなら、たいしたものだ。このマーケットで天文学的な利益をえているだろう。他方、大方の見方のように、自壊だとすれば受益者はいない。しかし、本当に自壊なんだろうか?
芝野が好きか嫌いかは別にして、経営陣をテーマにした映画をしばらく観なかった。夢を忘れた日本人に、なにかを伝えようと意図しているのだろう。その意図は伝わるだろうとわたしは思う。

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スラムドッグミリオンエア

スラムドッグミリオンエアを観てきた。
アカデミー賞にノミネートされるにふさわしい、ハリウッド映画のようなサクセスストーリー、勧善懲悪なヒーローストーリーだった。娯楽映画として観に行ったので、映画の質やテーマについてとやかく言うつもりはなかった。しかし、一年半前実際に現地を見てきた経済発展著しいムンバイの街と、その裏側にある、貧民生活者とが同時に存在するなんともアンバランスな様子が描き出されていて、つい娯楽映画としてではなく、実際のインド経済として見てしまう。おそらくはアメリカからかかってくるコールセンターの様子、「本当のアメリカの姿を見せてあげる」と言いながら、車の窃盗についての冤罪で警官に痛めつけられたこどもに100ドル札を手渡す(おそらくはアメリカからの)外国人観光客、貧民街のこどもを搾取する悪人どもの姿など、さもありそうな情景がインド映画の手法で描かれている。
そのアメリカは、希望の国であり、経済発展のお手本として無条件に幸福の象徴として描かれる。唯一皮肉にとらえるのは、兄の死に際だけ。バスタブに敷き詰められたドル紙幣の中での死。金じゃない永遠の愛をテーマにしつつも、「あしたからどうやって生活していくの?」という現実的な問いをラティカは発している。愛では食えない、とわかっている。それを主人公ジャマールは、知恵と叡智で乗り越えていく。それは見事だ。
きれいすぎるほど、きれいに作られたサクセスストーリーが、フィクションのはずなのに、リアルな「きれいでない現実」がきちんと背景化されていて、純粋に娯楽として楽しむことを理性が止めている。こんな幸運はあるものじゃないとわかっているのに、でも「僕はアンラッキーで、きみは幸運だった」と盲目にさせられた少年に言わせている。それが余計に、絶望から希望を見出させる「リアリティ」につながっている。
映画中に表現されている絶対的貧困は、スラムドッグミリオンエアが救うものではない。脈々と息づくカースト制度が、いまもインド経済に影を落としているのではないか。富めるものと貧しいもの、その落差が大きいければ社会は不安定化しやすい。それを維持可能にするための仕組みは、所得再配分に代表される社会保障制度であったり、機会均等のサクセスストーリーだったり。新興国インドでは、所得再配分の社会保障制度より、機会均等のサクセスストーリーのほうが「受ける」ということだろうか?
かの国、アメリカはサブプライムローンをめぐって自ら資本主義の迷宮に迷い込んだ。新興国インドは、そのあとを追うのだろうか。それとも独自の道を進むのだろうか?プライスのない国、インドではなにか別の力が、その資本主義に加わりそうな、そんな気がする。

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北京ヴァイオリン

友人に勧められて、「北京ヴァイオリン」をDVDで観た。「なにもコメントしません。泣けるよ」という紹介の通り、この映画は、透き通っていてきれいで、そして泣ける。昔見た「菊次郎の夏」ぐらい、胸をうつ。

成功とは、親子の絆とは、音楽とは、ひとの歓びとは、ひととして無くしてはならないものとは、・・・2002年の中国といえば経済発展にわく、活気あふれる成功の街だったに違いないだろう。そしてそこに、忘れられた「田舎」を重ね合わせる。チェン・カンコー監督がいろいろなことを考えながら、この作品を仕上げたことがよく伝わる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が、またいい。五番だったろうか、いちばん最初の彼女の十八番だった。チャイコフスキーは「白鳥の湖」をはじめ、バレエ音楽もたくさん残していて、そのせいか時々聴くのが辛くなる。思い出が多すぎるのだろう。封印。映画では、そんな個人の感傷などおかまいなし。感情的な旋律のチャイコフスキーが、頬を伝う涙を誘う。ああ、いい映画だよね。もう一度観ようかな。

特に芸術家は、昔からスポンサーがいるからこそ、その生計が成り立っていた。自分の持つ技術や技能で、生計を立てるといっても、そこには人間の感情を読む、豊かな感性があって、そのセンスが開花される。それゆえに誰にでもなれる商売では決してない。努力と才能がそろって、初めて認められる。
いわゆる専門職業家が、どこまで似通っているのかわからないが、お客さんのこころをつかんでなんぼ、であることは同じかもしれない。
「なによ、偉そうに!」となんども登場人物が立場を変え、相手を変え、捨て台詞を発するが、この言葉こそが資本主義という競争社会で生きていくために、誰もが直面する「嫉妬」であり「やきもち」であり「僻み」の現れなのかもしれない。もし競争などない平等な社会があるのなら、偉そうにする必要がないし、第一「権威」が存在しないのだろうから。
成功することは、認められること、認められることは、たくさんお金を稼ぐことができること、お金をたくさん稼ぐことに最も近いのは、才能でも努力でもなく、そのレールにきちんと乗ること。主人公の父親がしたことは、昨日テレビでたまたま観た、松下幸之助の成功物語とは全く様相を異にしている。
すでに日本も中国も、いや世界のあちこちで、「あきらめ」が蔓延している。機会の不均等に対する不満がくすぶっている。オバマ大統領の言う機会均等の国アメリカでさえ、職のある人と職を失う人の格差が広がっている。そろそろ「価値観見直し」の時期なんじゃありませんか?

バブル世代の私が言うことじゃありませんが、そんな感想を抱きました。

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誰も守れない&誰も守ってくれない

映画「誰も守ってくれない」を観て、先ほど特別テレビドラマ「誰も守れない」を観た。犯罪被害者家族の保護と犯罪加害者家族の保護、異なる二つの視点が、非常に重い問題提起を与えている。
映画も、特別テレビドラマも、まもなくスタートしようとしている裁判員制度を考える上で、重要な問題点となるかもしれない。世の中にミステリー小説やドラマがあふれ、実際に被害者自身が何らかの別の犯罪を犯しているケースや、犯罪加害者の親族が犯罪に加担しているケースもあるのだろうが、全くの無実の市民を「被疑者」として、すなわち冤罪としてつるしあげてしまう、そういうリスクを市民社会は常に抱えている。裁判員制度が始まることが、このような不幸な事態を助長しないことをこころから願いたい。

ネット社会の怖さは、「踊る大捜査線~レインボーブリッジを封鎖せよ」でも君塚氏は描いている。それが携帯サイトという、こどもまで巻き込む危ない手段となり、秋葉原で多数の被害にあった方々に対して携帯カメラを向けたひとたちのように、こころない対応をするインスタントパパラッチたちが、二次的な被害者を増やしていく。これだけ情報技術が進んでいるのであれば、そういった興味本位の、覗き趣味的な「加害者」こそを取り締まれないものなのだろうか。難しいのは、報道の自由、表現の自由と、どのように両立させるのか、必ずしも明確ではない。ものごとをあちらの面、こちらの面と見比べて、はじめて真実が浮かび上がる。ぼくらは、「思いこみ」を捨てない限り、中世の魔女狩りと同じ不幸な歴史を繰り返してしまいかねない。「安易に裁いてはいけない」と歴史は教えている。

民主主義を否定するつもりはない。しかし多数意見が正しいとは限らない。また社会の維持のために法の裁きが必要だとしても、法の裁き、すなわち正義の世界しかなければ、愛の世界、許し認め合う社会は成立できない。両方の基準を持つからこそ、ひとの社会が成立している。両方の基準が必要だと分かっているから、どちらかに偏らないように作用と反作用の動きが起こる。正義は万能ではない。それを残念ながら、知らない人、わかっていない人、忘れてしまった人が増えてはいないだろうか。じぶんの正義の基準が絶対に正しいと無条件に信じていないだろうか?冷静に考えてみれば、じぶんの考えが間違っているかもしれない、と気づくかもしれないのに、デジタルの世界で、じぶんの意見を相対的に見る視点を失い、絶対的な、そこにいつまでも変わらずにあるものとみなすことで、ひととしてのしなやかさを失い、ひととしての自由を自ら捨ててはいないだろうか。

「被害者の家族は、加害者の家族にも死んで償えと思っている。」心情としては、理解できても、ひとの社会である以上、それを口に出してはならない。また第三者がそれを煽ってもならない。それはモラルの低下した衆愚政治でしかなくなってしまう。民度の低い、あまりにも思いやりに欠ける、ムラ社会の論理や集団心理に飲み込まれてしまっている。そうではない。叡智を持って、二度とこのような不幸な事件を起こさないように予防していくことが、ひとなのではなかろうか。

「踊る大捜査線」シリーズをパクッたような、背景、シナリオ、製作意図が透けて見えるのは、ビジネスである以上、やむをえない、か。

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篤姫 最終回

NHK大河ドラマの「篤姫」が最終回を迎えた。このところ視聴率がウナギ登りで、最終回は30%越えではないかとネットのニュースで聞いている。多くの人の心をとらえる何かを、うったえているのだろう。
宮尾登美子さんの原作も素晴らしいが、このドラマの脚本は、よく練られていると思う。小松帯刀を幼馴染にするという設定、実は暗愚を演じていると設定した徳川家定、「勝を呼べ!」と何度耳にしたことか、維新後の徳川家を支えた勝海舟の描き方、皇女和宮をして「嫉妬していました」と言わせるなど、枚挙にいとまがないほど、家族ドラマに仕上げている。折しも経済は、前代未聞の不況がまさに訪れようとしている。この国が得意とする技術が、どこの国にも輸出できない、いわば手本のない時代が突然やってきた。維新前夜の不穏な空気に似ている。さらに言えば、戦争前夜、と表現したほうがいいだろうか。誰しもこの先に不安を覚える中、倒れゆく徳川幕府を内から見つめ、そして混乱なく江戸城を開城し、余生を子の育成にあたる篤姫の姿は、たくましく、また共感を呼ぶのだろう。
離婚率が低下したという。統計の誤差かもしれない、と言われてもいるが、不況の中、あえて不安定な生活を選ぶ必要もない。他方、「おひとりさまの老後」に対して、あえて挑戦する中高年の男女も多く存在する。オトコが、オンナが、ではなく、ひとが個人が幸せになるために、集合体である家族や組織が、徐々にではあるが変質している。その流れの中で、「篤姫」はひとつのモデルを示した、ということだろうか。
ドラマを通じて思うのは、やはり人材登用がとても重要だということ。ひとの痛みを知り、ひとの苦しみをしり、ひとのもつ弱さを知り、しかしひとつの天命を成し遂げていく、その過程は、、そのひとがそのなすべきポジションにいてなされるものであり、大奥を束ねた天障院篤姫は、島津斉彬あっての人生だったはずだ。蜘蛛の糸は網目のように張り巡らされ、維新の実力者たちは、その中にあってあるものは志半ばで潰え、あるものはその天命を全うしていく。これもまた、自らの所業といえば所業なのだろうか。
ひとは忘れる生き物であり、これほどブームを巻き起こした篤姫ブームも、残念ながら来年春ごろには忘れ去られているのかもしれない。しかしながら、NHKが数々生み出してきた秀作ドラマの一つとして、ひとびとの記憶に残るならそれで十分だろう。久しぶりにNHKの底力をみたような、そんな気がする。

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おくりびと

「おくりびと」を観た。死をみとるひと、そういう職業は冠婚葬祭の中でも、あまり評価されているとは残念ながら言えないかも知れない。ひとはいずれ死ぬのに、である。死は忌み嫌うものであり、日々の生活から遠い、特殊な世界にあるものと思いたがっている、ということだろうか。しかしながら死は確実に身近に存在する。それは両親かもしれないし、恩師かもしれないし、上司かもしれない。長く生きれば、生物学的には残存生存確率が低くなるのだろう。だからこそ、弔いをきちんと行うことが、ひとという文明を手にした人間の行いなのだろう。

ひとの死にざまはさまざまである。ピンピンコロリを実践する人もいれば、病と闘い壮絶な死を迎える人もいる。残念ながら自殺を選ぶ人もいれば、不幸な事故で亡くなる人もいる。人の死は、そのひとを愛していたすべての人にとって、深い悲しみを与える。だからこそ、尊厳が必要であり、納棺師という職業があるのだろう。ひとがひととして生まれて、ひととして亡くなる、ということは、ひととして扱われる、ひととして文化文明の中で一生をとげることに等しい。ひととして。

残念なことは、そこに蔑みが存在しがちなこと。山崎勉演じる納棺業の社長は、長年どんなふうに世間の目と折り合いをつけてきたのだろう。広末涼子演じる妻は、夫の職業を心から受け入れることはできたのだろうか?納棺師という職業を、社会に必要な立派な職業だと、こどもに言える覚悟はできたのだろうか。それぞれの胸の内に、、なぜ主人公がこの職業を選んだのか、その社会的意義を実感、会得していく過程を残していく、そういう映画だった。日本人もやるなあ。こういう映画を撮れるんだから。

蛇足だが、映画の製作を製作委員会方式で行うことを批判する報道を見かけた。コンテンツ制作者に多くの分配を、という意図だろうが、それは本質をみていないような気がする。映画は、いまや個人が個人で製作できる時代になっている。ネットという公開手段ができたからである。だからこそ、映画配給会社もテレビ局も芸能プロダクションも、新聞・雑誌はもとより駅前の大型看板、テレビのバラエティ番組などあらゆる手段を使って、売れている俳優をつかって、とにかく新しいコンテンツを作ろうとする。いわば「こっちを向いて」と消費者やファンに「押し売り」する。マルチスクリーンの映画館が都心部や郊外に乱立し、ひとを集める装置と化した映画館は、客を呼ぶことを第一に、とにかく新しい映画を提供し続けることにのみ、その存在価値が求められている。つまりビジネスニーズが、たくさんの映画を世に送り出している(乱暴な推察かもしれないが)。このサブ効果として、たくさんのテーマが取り上げられ、「闇のこどもたち」のような社会問題提起的内容が映画化されたり、本編のようなすぐれた作品が世に送り出されることになる。「しゃべれどもしゃべれども」も、世が世なら映画化されるような作品ではなかったかもしれない。それが映画化されてよりたくさんのひとの目に触れるようになることが、製作委員会方式の最大のメリットではなかろうか。

つくづく思う。日本は十分に豊かになった。ただバランスはあまりよろしくないかもしれない。こころに余裕をもって、他人の痛みをじぶんの痛みのように感じることができるような、そういう日本人のこころを大事にしたいと思う。そしてそれは国際社会でも通じるはずの、ひととしての尊厳であるはずだから。

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ホームレス中学生

気がついたら、この文章で100コマ目になるそうだ。よく書いたなあ。またよく書くことがあるなあ、それも厭きずに。ちょっと自分をほめてみたくなる。
先日映画館で「ホームレス中学生」をみた。「PSアイラブユー」とどちらを観るか、悩んでこっちにした。ラブストーリーが嫌いなんじゃない、なぜだか本屋で山積みされている原作が気になっていたから。
まだ中高生のこどもに向って「それではみなさん、それぞれ大変だとは思いますが、がんばって生きてください。解散!」と叫ぶお父さん。異論はあるだろうが、わたしは家族道連れに自殺を図る父さんより、ずっと前向きでこども思いの父親だろうと思う。そりゃ無責任かもしれない、しかし借金取りに追われて、借金返済の片棒をこどもに負わされるよりは、よほどましな選択かもしれない。なにせ日本というくにの借金取りは、事業で失敗しようが失業しようが、個人に請求するのが当たり前だと思っているから。連帯保証を平気でとるし、へたすりゃ連帯債務まで要求する。事業にスポンサーするという意識はない。だから借入人の生活は、とことん追い込まれる。余談だがアメリカの住宅ローンは、ノンリコースローンが基本だそうな。借金して返せなくなっても、家さえ手放せば残債を手取り収入から返済しなくていいと。実際確かめたわけではないが、もしもその通りなら、日本で住宅ローンの返済に苦しむ債務者よりアメリカで家を取り上げられた債務者のほうが、気楽かもしれない。また働いて買えばいいのだから。(日本でもノンリコースで住宅ローン貸してくれないかな~)
ところでこのくには、ホームレスにやさしいだろうか?好きでホームレスになったわけでもないだろうに、昨今のニュースは、厳しい話ばかり耳にする。職を失うとか家を失うとか、誰しも直面するかもしれない悲劇なのに。「Big Issue」を売るホームレスらしき人の姿が目に浮かぶ。こどもだから支援されるのか、それは違うだろう。社会保障の一環として、当たり前のこととして助け合うのがひとなんじゃなかろうか?そういえば障がい者自立支援法に反対するひとの集会をテレビで知った。自立を支援するために、くには全額補助をやめた、ということらしいが、それこそ本末転倒ではなかろうか?もともと自立するのに十分な所得を得ることができる環境が整っているなら、その理屈も理解できよう。残念ながら実際はそうではない。雇用義務がある事業所でさえ、実際には雇用が進んでいない。みえない壁がそこには横たわっている。どうして支えあうことができないんだろう?
ホームレス中学生、大変な青少年期だったと思うが、よかったよかったで終わるには、ちょっと苦い後味が残る。それがコイズミさんの「お土産」なのかどうかは別にして。

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ニュースキャスター 第二回

先週、あまりの痛々しさに堪えかねずコメントを書いてしまった「ニュースキャスター」を今週も観てしまった。先週で慣れたのか、ウケが取れなくても、話がつまらなくても、流せるようになってしまった。つまり期待度が下がった状態で観ると、普通の番組になった。無理しない番組にした、そんな印象だ。
無理しない番組構成、無理しない面白さ、無理しないコメント、無理しない情報・・・で、なんなのだろう?第一回目の反響を受けて、番組スタッフは、視聴者のニーズを何だと判断したのだろう?やっぱりよく伝わらない。意図がよくわからない。おそらく日本の芸能界でトップと思われるたけしをもってして、番組スタッフがうまく伝えられていない、その消化不良の部分はなんなのだろう?ディレクションのなさ?それともばかばかしさの欠如?お祭り騒ぎの不足?いずれもブロードキャスターとの比較でしかないから、視聴者であるこちら側の問題なのかもしれないが。
番組の継続が決まって、とりあえず安堵したと思われるコメントを残したたけし。そのブラックなコメントをあえて無視した、ほかの出演者。でも、どうしても半年持つかどうか、私は不安でならない。これがテレビの抱える問題なのだろうか?
最近、意図的にテレビをつけず、本を読んでいる。するとテレビを見なくても生活ができることに気づいてしまう。困るのはカラオケで歌う歌が古いものに固定されるぐらい。もとよりスポーツ観戦に興味がないから、オリンピックもプロ野球もJリーグも観ない。したがって長い時間連続してテレビを観ることがない。あるのは見たい番組のみを選択してみることだけ。極論すると、地デジによりテレビが見れなくなっても、困らないかもしれない。ちょっと困るぐらいで。
番組スタッフに、いましばらく自問自答を続けてほしい。なぜブロードキャスターをやめて、ニュースキャスターをはじめたのか、このニュースキャスターをどうしていきたいのか。たぶん、来週も気になってみてしまうだろうけど。

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ニュースキャスター

いつものようにブロードキャスターにチャネルを合わせたら、ビートたけしと安住アナが、キャスターをする別番組へと変わっていた。なにげなく最後までみてしまった。構成がブロードキャスターに似ていることからすると、「キャスター」が変わっただけで、スタッフは全く同じなのかも知れない。なぜ福留さんが降板したのかよくわからないが、それよりなぜビートたけしと安住アナなんだろうか?なによりも、目新しさというか、番組制作スタッフが意図していたであろう、新しい何か、がないような気がしてならない。
そもそも、週末のニュース番組はキャスターの選定が難しいのかもしれない。週刊誌ネタのような芸能ニュースから、スポーツ、政治、経済まで、わかりやすく、親しみやすく、かつ、新鮮で、面白く伝える、というコンセプトが、キャスター選びの難しさに横たわっているように思えてならない。なら、やめればいいのに、と思いつつ、私のようにチャネルを回す視聴者もいて、テレビ番組の制作者の苦労は想像に難くない。
TBSもビートたけしも安住アナも、どちらかといえば、好きな局であり人物なのだが、今日の放送は、観ていて痛かった。こういうことを「痛い」といういうんだろう、と思う。自分が期待されている役割が、あまりにも「あいまい」で、かつ瞬時に視聴者の反応がでるものだから、よほど覚悟して引き受けないと、「つらい」仕事なのかもしれない。「来週、ここにいるメンバーが総入れ替えだったりして」と、エンディングしていたが、これは番組のあり方を問うべきであって、キャスターの問題ではないのではなかろうか?
日テレのバンキシャのように、これと決めたスタンスをずっと続ける局もある。時間帯によって視聴者の階層や反応も異なるのだろうが、番組スタッフが、なにを意図してニュースキャスターをスタートさせたのか、そのスタートに込めた想いは、きちんと練られていたのかどうか、とても残念ながら疑いたくなる。これでは降板したブロードキャスターのキャスターも、ニュースキャスターのキャスターも、かわいそうだ。難しいことを依頼しているのだから、すぐれた「脚本家」がいないと。また扱っているものが「なまもの」なのだから、それをひとひねり、ふたひねり、とっさにできるほどの器用なひとは、そうそういないことを、そろそろ理解したほうがいいのではないだろうか?長年のブロードキャスター視聴者として、来週の放送に期待したい。

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闇のこどもたち

今日は急に休暇となったので、昼までごろごろしていたのだが、思い立って「闇のこどもたち」を観にいった。昔からルポルタージュやドキュメンタリーが好きだったが、今回のテーマは重い。ペドフィリアというのだったろうか、幼児性買春や臓器売買を扱っており、こういう問題を映画という形で国際世論に訴えることができるようになったことが、舞台となったタイの成長であり、製作&上映している日本の成長なのだろうか。

その昔、学生時代に安旅行したタイのバンコクは、安宿にいたからだろうか、半裸の外国人女性から麻薬と思わしきたばこ状のものを普通にすすめられるほど、ガイコクだった。モラルと治安に守られた日本にいては、まったく理解できないぐらい、自分自身の強い意志と行動により、自分自身を守らなければならなかった。そしてその当時から、児童買春の問題があった。あれから約20年、スクリーンに描かれた見るもおぞましい世界は、残念ながらその当時となんら変わっていない。救われるのは、タイが経済力を備え、モラルを実行できる力をより強くもったこと、そして少なくない日本人が、国際世論からみておかしいことをおかしい、と声高に言えるようになったことだろう。

ひとは、社会的生活を営む以上、ルールを守らなければならない。ひとの命は、どのような文明、どのような集合体の中においても、等しく尊重させるべきものなのに、時としてその尊厳は踏みにじられる。怖いことに、意図しないうちに踏みにじってしまう恐れすらある。ビジネスの名のもとに?いえ、ひとの新たな欲望のために。自分のこどもの命を助けたい、それ自体は正当な権利に違いない。ではその命は、他の命に比べて尊いと言えるだろうか?あるひとと、あるひととの間に、命の重さの違いなんてあるんだろうか?

格差社会などと言われると、貧富の差がそのまま「生きる価値の差」などと間違って受け取られかねない。いまもむかしも、豊かな世帯は豊かであり、それなりの世帯はそれなりであったはずだ。違うのは、それなりの世帯でも未来への希望があったこと。「蟹工船」がベストセラーになるようなご時世で、豊かなものが豊かなものの義務を果たさない限り、世の中に希望は生まれないのかもしれない。それがノブレスオブリージュであり、高いモラルの実現なのだろう。ひとは、自らの欲望に忠実にいきる生き物であり、だからこそルールが必要なのだと思う。それが法律であり、モラルであり、尊厳なのだろう。

モラルは時にひとを苦しめる。欲望に勝たなければならないから。そしてルールを破るひとは決してゼロにはならない。なぜなら、それがひとの欲望だから。だからこそ、限りなくゼロにする努力をたえず続けなければならない。いつかゼロになることを願って。

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花より男子ファイナル

「花より男子ファイナル」を映画館で観た。ひとりなら、たぶん観ない。同じ相手と「砂時計」を観て以来の、純粋ラブストーリー。しかもどこかしらバブルのにおいを感じるのは、そういう現実世界の洗礼を浴びたからだろうか?

F4と呼ばれる美男子四人に囲まれた、ひとりの少女のシンデレラストーリー。ああ、このテーマは少女漫画では永遠のテーマなのね。このテーマから目覚めるのが早いほうが、現実の世界では幸せをつかみやすのにね、と気持ちがひねくれてしまう。

役者がかわいいとか、かっこいいとか、そういう憧れ的な感覚が私には昔からない。思えば特撮のヒーローものや、テレビゲームの主人公でさえ、感情移入したことがない。あるのは、現実の世界でリアルに、会ったり、おしゃべりしたり、いっしょに旅行したり、ということへの欲というか、幻想だけ。「そうなったらいいのにな」、と。急に大金持ちになったり、宝くじに当たったり、そういうことを考えない。だから骨董無形のラブストーリーは、ハリウッド映画と同様に楽しむしか方法がない。残念ながら、ヒーローやヒロインに心惹かれないのだから。そしてストーリーが単調なら、それは悲劇でしかない。展開が読める映画とか、臭すぎる展開とか、「いくらなんでもそれは」と言いたくなる。でも映画だからいえない。

連れも大満足ではなかったよう。「魔法にかけられて」ほど話がきれいでもなく、主人公の精神的成長を描いたわけでもなく、やっぱりかっこいいイケメン俳優とシンデレララブストーリーが見たい人が見る映画なのね、きっと。くやしいけど、F4は確かにかっこよかった。憧れはまったくないけどね。

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監査法人 第5回

とうとう次回が最終回なんですか。うーん、構成がうまいですねえ。今回はちょっと展開が急だったかな。ベンチャー企業の売上げかさ上げ。よく聞く話。不景気になったときの企業が銀行からの融資を止められないために、財務諸表を粉飾決算する。そういえばむかし、やったよなあ。融資担当者を養成する研修で、「きみたちは、この会社からの融資の申し出に応じるか否か。その理由はなぜか?」と100ページ以上にも渡る資料を渡されて、翌朝までに融資の起案書を仕上げる課題。徹夜で考えて、同じ研修の仲間通しでも意見が分かれて、貸すの貸さないの、財務諸表のここがおかしいだの、いやそれはあってるだの、今考えると懐かしい思い出。会計士は、それを仕事にしている。しかもクライアントからお金もらっているのに、時としてクライアントに不利な監査結果を突きつけるんだから、よほどモラルの強いひとでないと務まらないよなあ。

ひとは生まれながらにモラルにしたがって生きているなんて、だれも信じちゃいないはず。アンモラルまたはインモラルな存在だからこそ、社会を成立させる機能として、モラルが求められているだけ。だからモラルの代弁者みたいな存在が時として必要になる。会計士はそのひとつの職業かもしれない。ではモラルとは?この解釈が難しい言葉だけが独り歩きすると、これがまた困ったことになる。モラルは、時として組織の論理やパーソナルな経験によって曲げられかねない。ドラマでは監査法人の生き残りのため、粉飾決算を認めないというモラルが曲げられた。またトップに立つ者のそもそものモラルが低くては、組織全体が低モラルになりかねない。だから国家資格とか国の監督とか、そういう仕組みと一体なんだろうね。

監査法人は、モラルの代弁者である以上、時の権力、すなわち当局とのかかわりは深くならざるをえない。当局の意向が色濃く反映される。だからこそ、証券市場の番人になれる。その存在が仕組みそのものだから。そう考えると会計士って、国家公務員みたい。国を相手に、「それ粉飾決算です」、なんて地方自治体の第三セクターや特殊法人等の別段対でもないかぎり、いわないですよねえ。もしそんなことがあったらそれこそ、誰が会計士のライセンスしたらいいか、わからなくなる。職業が成立不能?になるのかな。

みどころ満載、最終回。いまからエンディングが楽しみです。

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監査法人

「監査法人 第4回」を観ました。前から気になっていたのに、実際に観るのは初めて。「ハゲタカ」といい、このドラマといい、いい素材に目をつけています。公認会計士という商売は、私自身はあまり縁がない。祖父が会計士をしていた、というぐらい。まいにちまいにち、会計帳簿とにらめっこなんて、もと銀行員の経験からしたら、考えたくない。他方、ドラマで扱っているように会計意見が企業の生死を左右することは、企業人としてはしごくよく実感している。こと不動産の証券化をめぐっては、SPCの連結・非連結をめぐって、ここ数年監査法人と激しい協議をしてきたはずであろう。いまはほとんどすべてのSPC事業を連結決算しているとしても、サブプライム問題のように、連結・非連結による投資家への情報開示については、古くて新しい問題だ。

不正会計、銀行員の立場で融資先の決算書にその事実が認められたら、融資の回収に動かざるをえない。監査法人でも同様のこと。たとえ報酬を企業から受け取っていても、適正意見だけを書いていては、証券市場の番人にはなりえない。株主はじめ企業の利益関係者のために「真実」を伝えなくてはならない。では「真実」とは?「公正」であり「客観的」であり、かつ「実務的」であること、だろうか?その真実は、誰かを幸せにするだろうか、真実は誰かを不幸から救うだろうか、真実は社会的福祉に寄与するだろうか、真実は公正妥当な判断基準に依拠しているだろうか・・・企業の命運を左右する立場であれば、嫌でも考えること。ドラマのセリフ、「監査も人が行うもの、監査法人が適正な監査をしてきたからこそ、今日の日本の発展があるのではないですか?」は一面の真実。すべてではないだろうけど。ではグローバルスタンダードは、「真実」ですか?エンロンもワールドコムも、このサブプライム問題も「真実」に関する情報の非対称性、非公開性により問題が拡大したと言えなくもない。他方、意図した隠蔽なのか(詐欺なのか)、たんなるミスなのか、は人が行うことだけに寛容な判断が必要なのかもしれない。「脱税」と報道されていても、税務当局との見解の相違によるもので、協議の結果納税しているケースもあるのではないだろうか?

第5回、第6回で、なにを伝えようとしているのだろう?「企業はひと、監査法人もひと」だろうか?それとも「真理」とは、「正義」とは、だろうか?ビジネスとは、だろうか?いずれにせよ、安易な展開にしないで、魅せるドラマにしたたて欲しいと願う。公認会計士は、自らの良心に従ってこそ、会計監査制度が成り立つのだから。

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砂時計

映画「砂時計」を観た。

ううっ。しょっぱなから、重いぞ、この展開。と思ったのもつかの間、ストーリーの深さについ引き込まれてしまった。母の自害という辛い過去に悩みながら、懸命に生きる姿は共感を覚える。二人の男性に支えられながら生きる様は、どこかでみたような。?そうか、「生徒諸君」だったかな?少女コミックだけあって、男性の私から見ると、ありえないだろう、その展開、という面もある。遠距離恋愛が、いかに体力と気力の要るものかは、経験者ゆえによくわかる。しかしなあ、16年?14年だっけ?待たないのよなあ、普通。田舎だから(失礼)許される設定なのかも知れないけれども、それにしても無理がなかろうか?現実は、容赦なく二人を飲み込んでいくんじゃなかろうか?その意味では、「東京ラブストーリー」のほうが、より現実味があるような。まあ、いいのか、漫画の世界だから。

それにしても、あの大きな砂時計。一度観てみたくなった。「仁摩サンドミュージアム」に現物があるらしい。www.sandmuseum.jp

松江から、クルマで100分走るという。最寄り駅は仁万。山陰本線とはいえ、いわゆるローカル線。これでも昔はてっちゃんだったと、つい時刻表をながめて、ああやっぱり一時間に二本の列車なのね、と田舎を想像する。そんなところにもし住んでいたら、どんな生活をしているだろうか。こんな変わり者では、生きにくいだろうなあ、と勝手に想像する。あちこちうわさ立てられて、つねに品行方正か、もしくは変わり者か、どちらかの烙印を押されるような、狭い地域社会で生きていけるほど、強い自己はもってないなあ。田舎で野菜作ったり山菜取ったりすることは、あこがれるけれども、それはそれ、これはこれ。やっぱり都会にしか住めないだろうなあ。

「過去が未来になったよ」言ってみたいなあ。過去は容赦なく、長い足跡を刻んでいく。気がつくと今日も、過去になろうとしている。毎日、後悔しないように後悔しないように、生きているけれども、それがともに生きている人と、時間軸を共有しているとは限らない。時々思うことがある。まもなく40になろうとしていることに、あせっているのではないか、と。アラウンド40というドラマが放映されているらしい。私は観ていないが、過去が未来になるなら、もっといえば、過去が未来へとつながるならば、もう少し期待できるような展開にならないだろうか、プライベートが。現実は、漫画と違うのです。もっとドラマチックで、もっと素敵なものです、本当に。

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フィクサー

映画をひさしぶりにひとりで観た。地元の映画館で上映開始5分前に滑り込み。結構たくさんの観客がいた。ジョージクルーニーという役者の渋さもさることながら、監督がこの映画で描こうとしている、なにかが気になっていた。

先日購入した広辞苑第六版の定義では、フィクサーとは「(公正でないやり方で)陰で仲介・調停することで報酬を受ける黒幕的人物」という。そして不動産産業界には、フィクサーといわれる人たちがたくさんいる。映画では、それを「揉み消し屋」と表現していた。うーん、もみ消し屋か。広辞苑の表現もネガティブな表現なんだけど、実際はどうなんだろう?それがずっと気になっていた。もみ消す以上、タブネゴシエーションが必要なわけで、ときにそれが公正でないやり方といわれるわけで、本当に公正でないのかどうかは、事件になってみないとわからないのだろうなあ、と勝手に推測する。

映画のストーリー展開は、エンターテイメントの映画として面白かったが、先日の「それでもボクはやっていない」のような、決してハッピーエンドでない、でも観た人のココロになにかが残るような、そういう描き方もあったんじゃないか、と思わされた。いわく人生には理不尽なことがいっぱいあって、しかも理不尽なことがビジネスになるからこそ、ひとのココロが病んでいく、傷ついていくのがゲンジツなのではないか、と。先日観たディズニーの「魔法にかけられて」でさえ、ストーリーのとっかかりは、どっぷり頭の先まで、ゲンジツに浸かっている。魔法使いの言葉にあるとおり、おとぎのくにからもっとも遠い場所が、NYのゲンジツだとしたら、ゲンジツはゲンジツなんじゃなかろうか?だから必殺仕事人やクロサギがヒットするのじゃなかろうか?日本人の描くゲンジツが、ハリウッドの描くゲンジツと違うのかな?

話は変わるが、どのようなビジネスにおいても、タフネゴシエーションができるひとの評価は高い。そしてタフネゴシエーションをするひとは、ココロが強い。ココロが強いということは、その分ひとに優しくできるということでもある。するかしないかは、別として。逆にココロが弱ければ、そこを狙われる。そこをネタにココロの強い人に支配されたり、揺さぶられたりすることもある。それは古今東西どこにいっても同じ。そしてそれは、ビッグマネーに擦り寄ってくる。だから映画の舞台は、弁護士事務所なんだろうなあ。

ファンドマネージャーや、不動産の投資責任者、プロジェクト責任者も、そういう意味では「標的」なんだろうなあ。ビックマネーが動くところ、ビジネスにならないはずがない。抱えきれないストレスを抱えて、ときにビジネスが良心の呵責を越えていても、自らの守るべきものとのバランスで、ビジネスとしての選択を迫られる。それって幸せなのかな?数千万の報酬、数億円数百億円の資産を、仮に抱えていても、ココロが弱ければ、そこをつけいれられてしまう。なんて怖いんだろう。

そのすきまにフィクサーという職業が生まれる。ひとが弱い存在である以上、消えることのない職業なのかもしれない。ルールは誰がなにを目的として定めたのか、そもそも公正とはないか、法治国家とは、正論とは、ビジネスとは、真実とは、ひとの生きるべき道とは・・・つくづく寝つきのわるい映画を観てしまった。

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それでもボクはやっていない

痴漢の冤罪事件。いまから八年ほど前、その当時はニフティのパソコン通信上で、「疑わしきは、罰せず」の是非を議論していた。予想されたことだが、議論はどこまでもかみ合わず、被害者の救済と冤罪の防止は全く別の問題にもかかわらず、論点を読み違える書き手や、現在ネット上で起こっている、いわゆる「揚げ足取り」的な発言をする書き手もいて、議論を投げかけた側として、大変残念な思いをした。

この作品は、公開されたときに映画館で観たかった。裁判官という職業は、周防監督が役者に言わせているとおり、与えられた資料と証言に基づき、有罪か無罪かの判断をするに過ぎないのかも知れない。それは裁判官もひとであり、悪意に基づく数々の事案を適切に判決しながら、ひとの道徳とはいかにもろいものであるか、ひとを疑いの目でみざるをえない最前線にいることから、起こってしまうことなのかもしれない。しかし、別の裁判官役の役者にいわせているとおり、「推定無罪」の原則は、無実の自分が有罪とされたときを考えれば、すぐにわかることである。本当に無罪なのか、本当に有罪なのか、それをあきらかにすることが犯罪操作の目的であるはずなのに、そこには組織の問題や、組織の利害関係、組織に所属する個人の利害関係が密接にかかわっており、残念ながらバイアスがかかっているのかもしれない。認めたくないことではあるが、推定有罪がまかりとおっているのであれば、それは法治国家とはとてもいえない。だからこそ、問題提起が不可欠なのだ。

裁判員制度が、もうすぐスタートすると聞いている。もしかすると自分が裁判員になるかもしれない。そのとき自分自身は、推定無罪の原則を貫けるだろうか?有罪か無罪かを、「判断」してしまっては、推定無罪にはならないかもしれない。これはビジネスではない。倫理であり、道徳であり、人間社会を維持するための法理である。ひとが安心して暮らせるための、長い長い文明の歴史を背景とする知恵の結晶である。仮に裁判官が「組織の人」であるならば、外部取締役である「裁判員」が、その意思決定を「修正」しなければならない。きわめて重い役割ともいえる。

裁判員制度への参加は、国民の義務なのだろう。どんな組織をつくっても、組織の論理、組織の仕組みから、個人が完全に自由に意見し、判断することは、とても困難なはずである。実際には、それは組織の中で大きな軋轢を生むことが多い。だからこそ社外取締役を設けたり、経営コンサルタントという仕事が成立したり、するのだろう。同質化した組織は強くもあり弱くもある。「それでもボクはやっていない」いつまでも真実を伝えるココロを失わないように、良心に従って生きていけるように、生きにくい世の中を生きてゆきたい。

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のだめカンタービレSP(1)

「のだめ」のために、会社から時計を気にしながら帰ってきてしまった。こんなことをするドラマは、「北の国から」以来である。好きな方には申し訳ないが、俳優や女優が好きなわけではない。我が家のテレビでは、音響もそれほど期待できるわけではない。むしろ、のだめに描かれている、独特の世界観がどうも肌に合っている。おたくちっくな千秋に野田惠という組み合わせがとてもほほえましく、また自分の仕事がまるでオーケストラの指揮をしているような、集中力と構築力を要求されるポジションだけに、「オーケストラと仲良くしなさい」とか「音と遊びなさい」というセリフを、自らの立場に置き換えてしばしば聞いている。のだめみたいな、パートナーがいれば幸せだなあ、と思いつつ、それもまた出会いであり人生なにが起こるかわかりません、とも考える。どうしてこれが少女マンガなんだ?と疑問に思う。私も含め、世の中の男性は、時にこどものようにまっすぐに(時にマニアックに)、目指すものに突き進んでいき、周りを見失うことすらある。それをわかっていて、コミカルに、しかしかっこよく描いているのが、すごい。

私論ですが、女性は、自分の愛する男性が王子様でないと知ったときに、少女から女性に変わると思っています。そういう意味では、のだめは、最初から女性として描かれている。少女ではない。九州の「おんな」として描かれている。だからかっこよくもある。ありのまま。素のまま。背伸びしないし、かといってぶりっこでもない。だから好き。自分の特技をもって、自分のフィールドで自分を表現しつつ、でも千秋をライバルとして、またベストパートナーとして認めている。こんないい関係がほかにあるだろうか?

単純に好いた惚れた、のコミックではない。お互いが成長を遂げながら、前に進んでいく。漫画だといってしまえばそれまでだが、こういう関係を築く努力をするカップルがいてもいいのではないだろうか?わたしは、できればパートナーと、千秋とのだめのような関係を築きたい。といってもパートナー探すほうが先か。

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踊る大捜査線

やっぱりつい観てしまいました。踊る大捜査線スペシャル「レインボーブリッジを封鎖せよ」。どこかでこのドラマは、すぐれた組織論を表している、と書いていましたが、何度見ても、不器用でかつ冷静な室井検事正にあこがれてしまいます。リーダーとは、かくあるべき、状況を的確に判断し、部下を100%信頼し、起こった事実に対してきちんと責任をとる。当たり前であるはずのこれらのことが、実はあまりできていない。部下を持つような年齢、職位、立場になって、はじめてわかるこの重責。あんなに優秀ではないかもしれないし、的確な判断力は、もてないかもしれないけれども、あんなふうになりたいと、やっぱり感情移入してしまう。だから「レインボー~」の次は、私の中では「容疑者室井慎次」なんだなあ。

現場より警察官僚トップの組織人事に興味をもってしまう。筧利夫演じる新城警視正や真矢みき演じる沖田警視正など、複線が深くて、政治ドラマとして面白い。それは「華麗なる一族」にも通じていると思う。

「容疑者室井慎次」では、灰島弁護士に興味があったが、やはりスピンアウト作品がその後公開された。残念ながら、まだそのスピンアウト作品をみていない。

そうか、この脚本書いている君塚良一さんて、「ずっとあなたが好きだった」とか「バブルへGO!タイムマシンはドラム式」をつくった人なんだ。そりゃドラマ作るの、うまいよね。「ずっとあなたかが好きだった」なんて、なつかしいなあ。最初に社会人になったとき、社内旅行でこのドラマの寸劇を披露して、支店長賞もらったっけ。別に役者になることを目指したわけではないけれども、そのころから右脳全開の自覚はあったよなあ。どんなに頑張ったって、左脳が発達しているひとほどには、論理構成うまくできないもの。そのかわり直感と、包括的解決力は、あるはずなんだけど(?)、発揮されてないよなあ。

室井さん、かっこいいなあ。どうしたら室井さんのようになれるんだろう?

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しゃべれどもしゃべれども

『しゃべれどもしゃべれども』をみた。

ハートウォーミングないいお話。へこんでいる私にはちょうどよかった。ハッピーエンドだし。伝えたいことが伝わらない、ひとってそんなにうまくコミュニケーションできるものじゃないよね、という本質がちゃんと伝わってきて、ちょっとうれしかった。

そういえば落語は久しぶり。末広亭も上野演芸場も浅草もいったけど、職が変わったら行かなくなってしまった。付き合う女性が変わったから、といえばそうなんだろうな。私って単純。もともと江戸文化が大好きなのにね。

着物がすき。実際にはゆかたしか持っていないけど、きちんと一式買ってきて、帯の結び方まで練習して、一年に一回は袖通すようにしている。ちいさなこだわり。ゆかたでデートできるって楽しいだろうな。いかんいかん、妄想はここまで。

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バベル

GWに、『バベル』を観にいった。

感想:「日本人には受けないだろうなあ」

目線がヨーロッパ的というか、グローバルというか。人と人とのコミュニケーションという非常にデリケートで本質的なテーマに対して、それぞれの置かれた異なる環境からみせるあたり、映画の持てる力をあらためてみせられた気がする。これはすごい。

たとえ言葉が通じてもコミュニケーションってすごく難しいのに、言葉が通じない、もしくは通じにくい環境にあれば、それは悲劇かもしれない。どうしてわかりあえないのか、どうして相手のことを思いやれないのか、どうしてビジネスのことしか考えないのか、どうして、どうして、どうして・・・、というメッセージをこの映画は私に残した。ひとは、目の前にいまいる人を、同じ人と認識する力さえ、ややもすると失いかけているのだろうか。身の回りを振り返ると、それはそれでせつなくて悲しくて、単にことばではなく、「つたえる」ことが大事とあらためて考えさせられた。

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