カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の130件の記事

「書かされた」不動産鑑定評価書?

最近、仕事で見ることになった、不動産鑑定評価書に驚いた。それは併合鑑定評価の限定価格を求める不動産鑑定評価書であったが、対象地の正常価格ならびに隣接地の正常価格、併合後の一体地の正常価格を求めるのに際して、規準価格を求めた形跡がなく、また評価書の本文に一切その記載がなかったからだ。
地価公示法第8条には、不動産鑑定士等が正常価格を求める場合は、公示価格と規準しなければならないと定められているが、限定価格は正常価格ではないので、その点だけをとらえると公示価格との規準は必ずしも必要ないとも解することもできる。しかし、評価書本文に、「対象地の正常価格」と明記して、その価格を比準価格と土地残余法による収益価格とを求めることによって導いているのは、どうにも違和感がある。更地の鑑定評価において規準するべき規準価格はどこにいったのだろうか?
試しに近隣類似と思われる地価公示ポイントを二地点採用して、地域要因のみを比較する参考指標としての相続税路線価をあわせて表記すると以下のようになる。
          価格      (参考)相続税路線価    面積
 対象地       X円/㎡       3,600千円/㎡    Y㎡
 標準地A  1,150千円/㎡       1,090千円/㎡    81㎡
 標準地B  2,400千円/㎡       2,160千円/㎡   148㎡

この評価から、対象地の価格を1,500千円/㎡前後と導きだすのは、かなり影響力の強い個別的要因が作用していると考えるか、地域要因の参考指標として相続税路線価を採用したこと自体が、なんらかの理由で誤っているかのどちらか、またはその両方か、と普通は考えるのではないか。対象地の面積は、標準地Aの面積に満たない大きさであり、必ずしも許容容積率を最大限活用することが最有効使用とならないものではあるが、その地域における標準的画地と想定してもなんら違和感のない大きさであり、そのほか有力な個別的要因があるとは考えにくい。そうすると地域要因の参考指標として相続税路線価が採用可能であるという限りにおいて、どうにもつじつまがあわない。不動産鑑定評価基準に定める通常の手順に従って規準価格を求めると、対象地の試算価格は、規準価格が突出して高いという結果になることも想定される。これは規準価格がおかしいのか、比準価格や収益価格がおかしいのか、不動産鑑定士であれば再考に再考を重ねるべきところだろうと私は考える。
この鑑定評価書は、日本の鑑定事務所のうち、おそらくは十指にははいるであろう、ある準大手事務所が発行したもので、ふたりの不動産鑑定士が署名捺印している。そして、これまた日本を代表するある大手メーカー宛に発行されている。こんなことは想定でしかないが、隣地所有者である大手メーカーが、準大手鑑定事務所に依頼して、弊社保有の資産を安く譲り受けるために、限定価格の鑑定評価書を安く書かせようと圧力をかけ、準大手鑑定事務所は、地価公示法第8条に定める公示価格との規準が正常価格を求める場合に限定されていることを意図的に拡大解釈し、対象地や隣接地、併合後の一体地それぞれの正常価格を求める場合まで規準価格の算定が不要として、つじつまをあわせたのではなかろうか。不動産鑑定評価書の信頼が揺らいでいるといわれて久しいが、不動産鑑定士の先生方は、仮に日本を代表するビッククライアントからの依頼であっても、不動産鑑定評価基準の解釈を歪めるような鑑定評価に手を染めないように切に願う。

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ああ、三段腹

昨年末から、ずっと体重が増え続け、先週末ついに57KGを超えた。スポーツクラブで計る体脂肪率も23前後をいったりきたり。つい二年前18前後だったのがうそのよう。食生活が変わったわけでもなく、思い当たるのは今年三月に歯科矯正がほぼ完了したことぐらい。かみ合わせが良くなり、消化がよくなったことに伴って栄養の吸収が進んでしまったか。
ふとおなか周りをみると、立派な三段腹になってしまった。なんてことだ!カロリーを極力抑えるように、和食中心の食事を心がけても、しょせんはおとこ一人暮らし。無理があるということだろうか。テレビコマーシャルではないが、プールサイドで無理やりおなかを引っ込めている姿をリアルに想像してしまう。いまだかつて、こんなことは一度もなかったのに。とてもじゃないが、連れにこんなにみっともない「おなか」をみせられない。なんとかしなくては。
悲しいかな、週二回しっかり運動できるほど、仕事は少なくない。あまり夜遅く食べるよりは、早めに自宅に帰って自炊したほうが健康によいのでは、と思ってしまう。連れとのデートでも間食を抑えないといけないのだろうか?そうなのだろうな、きっと。糖尿病も怖いし、ここはしっかりカロリーコントロールが必要なのだろう。しかしどうしたものだろう。しっかり空腹感を感じる健康になった胃腸と、歳をとってカロリーを消費しなくなった(老朽化した)からだとをどうバランスすればいいのだろうか?
歯科矯正して太ったなんて、だれも言わないのだろう。けれども、他にも大勢いるような気がする。たまたま私は、中年太りする時期に重なっただけかもしれない。それにしても・・・せっかく歯科矯正で「見た目」が改善しても、おデブになってしまってはプラスマイナスゼロか、マイナスではないか。
自分の悲しい三段腹を眺めつつ、しっかり憂鬱になる。

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喫煙権?

ある野党の国会議員が、タバコ税の引き上げに関連して、嫌煙権と同時に喫煙権もあるのだから、増税には反対すると主張したそうだ。
確かに、喫煙権はあるのだろう。あえて乱暴な言い方をすれば、飲酒もギャンブルも程度の問題で、飲む権利打つ権利は、あるのかもしれない。他方、なぜそれらに課税するか、という社会通念上の理由は考えられているのだろうか。それは、「程度」をコントロールしようという社会全体の要請であって、税収のアップは創設したときのみ確実に増えるが、税率を上げても税の性格上、税収が増えるとは限らない。とすると、タバコ税の増税は、喫煙権をなんら否定するものではなく、本来の意図通り節煙や禁煙を誘発するだけではないか。憲法で保証する、健康で文化的な最低限の生活に喫煙権は、当然にはないように思うがどうだろうか。
おかしなことをいう政治家がいるものだ。政府または政治が、愛煙家やタバコ農家の意見を代弁するならわかるが、もう少しまともな議論をしてほしい。

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あったらいいな、こんな住宅ローン

あったらいいな、住宅ローン編。
失業しても六ヶ月間は所得補償保険で自動的にローンの返済がされる住宅ローン。
それでもだめなら、いま住んでいる家に賃貸で住み続けるオプションがある住宅ローン。
当然家は、取られちゃうけど放り出されるよりまし。
また住宅ローンを貸すときに、貸家前提のローン評価をしておけば、できそうな気がする。
また収入ができたら、ローンに戻してもらえればいい。ああ、それならいまでもできるかも。
基本的には家賃を払う借家なんだけど、十年住んだら買取オプションがある住宅へのローン。分譲賃貸で貸し出されている場合なんかは、「あり」なんじゃないか?原状回復費用を大家さんともめながら払うより、自己責任にもなるし、大家は大家で、わざわざ仲介にださなくても買い手が決まるから、手間いらず。どうでしょ?
親に所有権がある一戸建てまたはマンションに、こども夫婦が住む場合の、住宅ローンサービス。基本的にはこどもが払う家賃が、大家である親の年金になるんだけど、そのままやると所有権が移らない。そうではなくて、大家である親がローンの貸し手になって、こども夫婦がローンの借り手になる。実際の大きなお金はいらない。貸し手も借り手もいるのだけれども、ローンがきちんと返済されるかどうかを管理する人がいない。どこかの信託サービスでも乗り出してこないだろうか。けっこう需要あると思うけど。
「三年分ください!」みたいな、「こども部屋が必要な期間だけ、ください!」という権利がついた住宅と、それに伴う住宅ローン。住宅は貸し手の譲渡担保が設定されていて、たとえば15年たつと貸し手に所有権が移転する。そのとき改めて買い取りたければ、買い取ればいいし、引っ越ししたければすればいい。甘えのしみついた、働く意欲のない居候を追い出すにはいい策かも。これからはあなたの住み所はないから、勝手にやりなさい、とね。
ノンリコースの住宅ローン。いや失礼ながら、海の向こうでサブプライム問題が深刻化して家を追われる人が大勢いるというけれども、かれらは家を手放せば、あとの住宅ローンはチャラになる。この国ではそうはいかない。どうして?民事再生法も、個人の再起を図ることを目的に規定されているのに、どうも住宅ローンだけは、既存の金融機関の既得権益になっているみたい。失業するのは、ほんの少しは本人に責任があるかもしれないけれでも(人によるかも知れないけれども)、大部分は景気の低迷だったり経営者の経営の失敗だったり、必ずしも住宅ローンの借り手の責任じゃない。どうもノンリコースローンの住宅ローンをやらないのは、この国の金融機関はまだ「ヴェニスの商人」だからなんじゃなかろうか。辛辣に言えば、借り手の幸せなんかこれっぽちも考えていなくて、きちんと返済してくれるひとがよいお客さんで、すこしでも返済が滞るお客さんは、悪いお客さん、そういうお客さんのローンは、さっさとサービサーに引き取ってもらいましょう、とも聞こえる。個人に大きなリスクを背負わせたままの、住宅ローン政策は、もうやめたほうがいいんじゃないか?
そういえば住宅ローンは、地震で倒壊したとき全額ちゃらになるのだったろうか?昔は、地震保険の保険料があまりに高くて、一部しか補填されなかったはず。でもこれまでの災害では、国の一時金とか支給されて、それで終わりだったはず。罹災したひとは、倒壊して価値のなくなった家に対するローンだけでなく、新しく建てた家までローンを払わなきゃいけない。これこそ金融機関の横暴ではないか!それならいっそ、耐震性に優れた住宅に限っては地震で万が一損害を受けた時には、ローンがただになります、でも再建築するときはうちで借りてね、とするローンのほうがまだまし。抵当権外さなければ、ふつうはそうなるだろうけど、そういうローンがあるという話は聞いたことがない。ほんとにけつの穴がちいさい連中ばかりだな、金融機関の商品開発担当者は。
宝くじつき住宅ローンは、まえにもあったっけ?毎年何人かだけ、住宅ローンが免除される人がいたり、当選金額に応じて、住宅ローン期間が短縮されるとか。宝くじを独占販売しているM銀行なんて、そんなことやったら喜ばれるだろうに。(法律で制限されているかどうかは、知らない。)
テレビコマーシャルで、住宅ローンの宣伝はよくみるけれども、あまりぱっとしない。東京スター銀行の住宅ローンがちょっと秀逸なぐらいだろうか。まだまだ工夫の余地あり。あまり貪欲に他の金融機関の市場を争うと思っていないのかな?いいなあ、金融機関は。
ぼくら不動産屋は、少ない仲介手数料をめぐって、仁義なき戦いを今日も闘っているというのに。

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思い出の場所

友人のブログを読んでいたら、前妻やこどもといった場所、遊んだ場所の記憶が忘れられないと書いている。そうだろうな、と思いつつ、つと私自身が前妻と過ごした日々が過去の温かい記憶になっていくことに、悲しみと喜びが混じったような不思議な感覚になる。
ひとは忘れることができるからこそ、辛い人生を生きていくことができるといった人がいる。またありがたいことに、時間は決して逆戻りしない。したがってつらい過去を再び繰り返さないように学習し、自らを変えていくことができる可能性をすべての人が持っている。あくまで可能性だから、同じ過ちを繰り返す人も少なからずいるだろう。だがチャンスはある。
連れと横浜をデートしていたら、赤レンガ倉庫で、ここで前のカレシとけんかして、帰りの車の中はずっと黙っていたの、と話していた。連れも私も、そういう意味ではあちこちに思い出をしまいこんでは、ときどき思い出している。長く生きるとはこういうことか。ほぼ永遠ともいえる年月を、その記憶をたどって生きることもできるのだろう。ただそれは、いろいろなシチュエーションによって異なるのではないか?過日話題になった「つみきのいえ」や、ディズニーがこの冬公開を予定している「カールじいさんの空飛ぶ家」など、長年連れ添った夫婦との死別は、思い出に生きるしかないのだろう。けれでも不思議なことに、女性は夫が亡くなってもピンピンしている。後追いして自ら命を絶つなんて、男が作り出した幻想なんじゃないか、というぐらい残された人生をしっかり生きている。その様子は、先日倒れて入院した母親が退院したのを誰よりも喜んだ、父親をみてもわかるような気がする。男性のほうが、くよくよしがち、言葉を選ばずに言えば女々しいのではなかろうか?程度はあるだろうが、女性はちっとも女々しくない。男子よ、涙を振り払え、涙は女子のためにこそあるぞ、と自戒の意味で「女々しい」という言葉があるように思える。
記憶は、困ったことに、つらいことは忘れても、楽しかったこと、愉快だったこと、幸福だった日々は、ずっと心に残ることになる。しかもそのとき嫌だったことはすっかり美化されて、なにもかもバラ色の過去だけが、彩り鮮やかに残される。男子よ、だめならさっさと次に行け、とそれが子孫を代々残すためには必要な教えのはずなのに、そうはならないのは、なぜだろう。淡い思い出は、時に生きることを辛くする。思い出の場所。なんだかちょっとせつない。

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なんとなく不安

ここ一週間ぐらい、特に理由のない不安に襲われている。一年後、何をしているんだろうと。

周りには、退職後再就職に相当の苦労を強いられている元同僚や知人友人があふれている。不動産屋なら、企業への再就職をあきらめて独立自営に踏み切った人も少なくない。では自分が、いまできるかと問われると、正直そんな自信はない。客観的に根拠が薄い、のではないか、と冷静に考えてみる。他方、それならどうするか、と迷う。悩む。悩む。悩む。
最近、清算中の本体から事業譲渡を受けて離れていった会社の経営が思わしくない、という情報が入ってくる。それも一社二社の話ではなく、あちこちだ。同じ不動産業を営んでいる以上、業界全体の景気が思わしくないのだから仕方ないのだろうが、せっかく事業計画を立てて、スポンサーに認められ、従業員を伴って事業譲渡を受けたのに、いまではスポンサーからは借金の返済やリストラを迫られるとは。なんとも暗い話である。
いずれも企業規模からいったら、中小零細企業でしかない。かつての上場企業の面影は、そこにはない。けれども従業員のなかには、かつて在職した安定企業の意識しかないのではないかと思うことがある。そして自分自身を振り返って、経営環境が極めて厳しい事業環境において自らリスクをとって事業を成功させていく気概が本当にあるのか、と自問自答する。そして憂鬱になる。
公共事業が縮小され、不動産デベロッパーの事業分野も将来的には縮小せざるをえないのかもしれない。他方、ありあまるといわれている住宅ストックが、耐震性の弱いものであったり、健康で文化的な生活を営む上で十分に寄与するとはいえないような立地や設備環境の住宅も残念ながら少なくない。洪水の危険や、火災の危険など、災害対策の面でも再開発を進める必要性はまだ高い地域がある。加えて高齢化社会を迎えるにあたっての、公共サービスをどのように充実させ、また効率化、低コスト化を図っていくのか、まちづくりにも応用するべき視点があるはずだ。そういう意味で、まだ出番があるはずの不動産開発業者が資金難や雇用不安を抱えているのは、どう考えるべきだろうか?
民主党政権はモラトリアムを実行に移すつもりらしい。おそらく弊害があるのを承知の上で、対症療法を行おうとしているのだろう。一有権者として、理性ではなく感情でとらえるなら、「ありがたい」という心境になる。貨幣という、あやふやな価値のものを再配分の成果として受領できるのであれば、それが将来に悔恨を残すことになる借金になるかもしれないとしても、いま生活を立て直すために必要だとわかっていて、その再建方法が妥当だと客観的に認められるなら目をつぶってもいいのではないか、という気分になる。
こういうことを主張がぶれるというのだろう。わかっていて、それでも弱い気分から脱却できないでいる。まさに政府の思うつぼ、といったところか。しばし無言。景気が悪いということの実感を、失業や家を失う恐怖としてとらえると、とても他人事には考えなれない。テレビのチャンネルをひねるとでてくる、一般サラリーマンの姿すらうらやましくなる。

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好きになれないもの

一般病棟に移ったおふくろに、文庫本五冊の差し入れをしたら、内田樹氏の文庫本が一番喜ばれた。どうも普段手にする「楽ちんな」本が、おふくろと趣味が同じらしい。そのほかはどうも合わないのだろうけど。
ネットをかたかた見ていたら、これとは正反対に、なんとなく苦手なひとの記事がでていた。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090916-01/1.htm
どうしてだか、この方がテレビにでているとチャネルを変えてしまうぐらい、好きになれない。年齢が近いから?いやそんなことは後から知ったことで、大きな問題じゃない。離婚歴が二回もあるから?それも違うような気がする。記事が伝えているように、前向きさの押し売りがどうも好きになれない、というところだろうか。
しょせん人間なんて、怠け者だし、好き嫌いが激しいし、落ち込むこともねたむことも、あるわいな、だから人間なんじゃない?という考え方に対して、いつもいつもがんばって、さらに上を目指すのは、いいんだけれども、余裕ないよね。のんびり何もしない一日を過ごしたり、いい方悪いけど、まったく何の役にも立たないかもしれないけど、ただおしゃべりをしていたり、散歩していたり、そういう時間がときには必要だったり、そういう時間が一日のうちにも必ず必要な人もいるかもしれないし、そういう意味で、上昇志向の強すぎる人って疲れるんだよね。いっしょにいるのも、テレビで見ているのも。信念をもって取り組んでいるのと、ちょっと違う。小泉元首相のように、X-JAPANのファンです、と言ってくれるほうが、なんだかひととして安心する。リラックスするためにどうするか、とかじゃなくて、意図的にリラックスできなきゃ、そもそも緊張感のある仕事なんかできないでしょ。(ひとによるだろうけど)どうにも一面しかみせない、かっこいいひと、きれいなひと、かわいいひとは苦手。
同じ意味で松田聖子さんがいまでも苦手。本人に会ったことがあるわけでもなく、話したこともあるわけじゃない。けれども、あまりにも「作られたイメージ」が強すぎて、本人の姿がいったいどこにあるのか、まったくわからないから、苦手。アイドルってそういうものなのかもしれないけれども、そのなかでも、イメージを強力に売り込んできたからか、どうも拒絶反応をしめしてしまう。苦手なんだなあ。
瀬戸内寂聴さん。苦手だなあ。なんだか苦手。好き勝手してきました、苦労してきました、だから今の自分があるんです、それで?もしかしたら深ーい教えがそこにはあるのかもしれない。まして仏門に入る皆様がきらいなわけじゃない。けれども、どうにも素直に話を聞けない自分がいて、それは上記二人に通じるなにかを感じてしまう。(ごめんなさい)
好き嫌いは、その時々で変るものだが、どうもこのなんというか、うさんくささを感じてしまうなにかは、ずっとかわらず好きになれない。そうね、うそくささ、ぶりっ子がきらいなんだろうね。若くても年取っていても、賢くてもかわいくても。
人間ってもっと下品で、きたないものじゃなかったっけ?浮気もするし、さぼるし。無駄遣いもするし、掃除もなまけるし。億ションのモデルルームをみているような、そんな暮らしを「見せるひと」は、やっぱり好きになれないし、なにより信用できないよね。野田恵のような落差が、僕は好きだなあ。

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おふくろ緊急入院

おふくろが緊急入院した。親父から携帯に連絡があり、動揺しているだろうに、懸命に落ち着いて対応しようとしている。親父らしい。
もしかすると、もしものことがあるかもしれない。ふと頭を最悪の事態がよぎる。が、同時に、ああいい人生だったろうな、と客観的に思える。おふくろは、ひと一倍苦労したろうけど、それなりに満足した毎日を送っていただろうし、人生を楽しんでいる。心残りがもしあるとすると、わたしの育児記録を世の中に出版物として送り出せなかった、有名人の母として苦労話ができなかったことぐらいではないか。
そりゃあ、母が緊急入院したと言われて、心配していない訳ではない。会社をでて、そのまま病院に向かおうとしたが、集中治療室にいるので面会謝絶だと聞いて、ただ待つしかないのだから。
万が一のことがあったら、さぞ悲しいんだろうな。母とは、無条件の愛を無制限に与えてくれる、唯一無比の存在だから。またもっといろいろお礼、お返しできたのに、できなくなるのだから。でもその日はいつかくるはずで、両親の年齢を考えると、いつきてもおかしくない。そういうものだと思わなきゃいけないんだろうな。
今日も明日も、一生懸命生きよう。

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それ、役に立つの?

「下流志向」内田樹著を読んで、驚いた。いまどきの小学生が、ひらがなや算数の九九、アルファベットを習うのに、「それって役に立つの?」と教師に質問するという。もし私が教壇に立っていて、そんな質問をこどもからされたら、唖然としてしばらく声が出ないだろう。質問に答えようとするだろうか?いや、黙って教壇を降りてしまうかも。誰だ、こんなわけのわからないこどもを学校に寄越したのは!と怒りながら。
役に立つかどうか、わからないけれども、知りたいから学ぶ、未知のものを既知のものにしたいから学ぶ、より広い視野ものの考えかた、先人の知恵を学びたいから学ぶなどなど、理由はいくらでもある。そもそもNGOや国連の広報などでは、学びたいのに学べないこどもたちが大勢いるというのに、学ぶ喜びをいまようやく感じることができる子どもたちがいるというのに、その権利をもっているにすぎないこどもたちが、「ねえ、それって学ぶといいことがあるの?役に立つの?」などと口に出していいはずがない。ましてひらがなや九九がわかならくて、いったい何が役に立つというのだろう?学ぶことを放棄することは、自らの判断で「選択することができる能力」を身につけてからするべきことであって、少なくとも義務教育の間は、戦争もなく内戦もなく、飢えに苦しむことも住まいに困ることもなく、十分に豊かな国に生まれ育ったことに感謝することはあっても、それを勘違いして、教育という苦痛を我慢するための対価などと考えることが許されるはずがない。
そりゃ教育の質に対して、こどもを預ける側の親の立場から注文をつけることも、クレームを発することもあるだろう。それはあって当然。他方、そのことと子ども自身が学ぶ内容を選択できるという話は全く別。まして教育を、他の経済行為と同様に対価性のあるなにがしかのサービスと捉えることによる弊害は少なくない。ややこしいのは、予備校や専門学校が行う教育と、大学や高校が行う教育の質が異なるので、そこを取り出して対価性の有無を議論すると、並行線になる。すべての知識や知恵を、金銭的に計測可能な(唯一の)尺度で統一しようとすることに無理がある、というほうが、より正確かもしれない。
企業活動においても、たとえばコンプライアンスやガバナンス、メンタルヘルス、組織論、リーダーシップ、イノベーション、リストラクチャリング、リエンジニアリングなど、間接的に利益や売上の向上を目指していても、それが直接的には評価のしづらいものにも関わらず、企業活動において無視できないほど大きな役割を果たすものはいくらでもある。トップセールスマンや、アイディアマンだけでは企業は成り立たない。企業とはひとの集団であり、ひとの集団である以上、様々な問題が起こり、様々な企業人を雇うからこそ、苦難への対処が可能になる場合がある。それは単に優秀な人ばかりを雇用すればいいというものではない。組織として活動するのに最適な人員配置、採用計画をすることこそが、企業の命題のはずである。どうもそれがわかっていないようだ。
内田氏のいう、社会人になってからの昇進放棄は、少し説明不足のような気がする。もし昇進放棄の結果について、正確な情報、正確な将来予測ができるほど判断能力があるならば、昇進放棄の選択をしてもかまわないだろう。ただしそんなことができるには、社会人経験を十年二十年積まなければわからないのではないか?もしかしたら定年まで勤め上げても、わからないかもしれない。少なくとも、私自身は「わからない。」年齢を重ねるごとに、企業の、または社会が年長者に求める社会的役割は変化していく。その変化する期待役割を何らかの形で(自営にしろ、企業勤務にしろ)担うことで、ひとは社会生活をおくる権利を得、社会から認知されるのではないか?だから結果として、「昇進の機会を放棄して退職するなんてありえない!」になるのだろう。ただ生き方の選択として、必要以上のものを求めない、という考え方をするひとが増えている。若い世代にくるまが売れなくなったというのもその一端だろう。その反作用で、必要以上の稼ぎを求めない、したがってそれに伴うリスクも責任も引き受けたくない、というひともいるに違いない。ただ惜しむらくは、その考え方をする人に、他者との共存を念頭に置いた配慮はないように思える。昇進して、よりたくさんもらえるようになった収入を、たとえば失職して仕事がない他者と分かち合うという発想はないだろう。より広い家に移り住んだ時に、その家の一部を貸そうなんて発想もないのではないか。(借家なら、そもそもできない場合もあるだろうけど)いつのまにか、助け合いの精神が失われて、「自分の世界」だけにひきこもっているのは残念でならない。
いざというときに助けてくれる友人を大事にすることが、なによりも大事。必ずしも大勢である必要はないが、何人かいるほうが心強い。その何人かを得るために、みずからも他者のなにがしかの役に立つことが求められ、だからこそ留保条件のない学びや働きが必要なのだろうと、わたしは思う。もしもじぶんのこどもが、「それって役に立つの?」と聞いてきたら、その瞬間にこどもに一切のプレゼントをやめるだろう。「学ぶ気のない、将来に期待が持てないこどものために、どうしてわたしが期待しなきゃいけないのか、余計な金銭的負担をしなきゃいけないのか、と疑問を付して。」

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裁判員制度に思う

今日、街角で裁判員制度に反対するキャンペーンを行っているのを見かけた。彼らが言うには、「裁判員制度は悪法です。裁判官がきちんと正しい判断をすればすむことなのに、その責任を放棄して一般国民に責任を転嫁しています。」という。はて、そもそも裁判員制度が導入された背景には、1)裁判官の下す判断が、一般国民が感じる一般的な倫理基準、価値基準からあまりにも懸け離れたものになっている例が散見される。2)一般国民もまたその当事者にならない限り、裁判そのものに無関心である。3)海外には米国の陪審員制度など一般国民の民意を裁判結果に反映させる制度が存在する。4)我が国においても、戦後50年を経て民主主義教育が浸透しており、一般国民を裁判に参加させる土壌は整っているのではないか5)裁判官は専門職であり、国民の一般感情を反映させるにはコストがかかりすぎる。などの議論がたぶんあったのだろう。これに対して、「裁判官がきちんと正しい判断をすればよい」というのは、どうにも理解に苦しむ。
職業専門家としての裁判官は、(おそらく)司法試験に合格するために法律を懸命に勉強したのみならず、日々判決を出すために裁判資料を読み、過去の判例を見比べ、今日の実情に照らして、どのような判決を下すのが適切か悩み精進してきただろうし、いまもすれは変わらないことだろう。他方、世情、というか民意というものは、時代背景や社会情勢によって異なる倫理体系間の優先順位や、具体的な公平の考え方など変化しているはずであり、それは過去の判例や和解には現れてこない。したがって、いくら勉強しても得られるものではなく、むしろ様々な職業活動、社会環境においてこそ、培われるものだろう。
いまの裁判員制度を必ずしも肯定するものではないが、さはさりなん、制度疲労を起こしている裁判制度をどのように作り替えるかは、もう少し建設的な議論を展開してもいいのではないか?たかが街角のキャンペーンであるが、どうにも思慮が浅いというか、浅はかさを感じてしまった。

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期日前投票

今日、期日前投票に行った。
だらだらと続く選挙報道に見厭きてしまったので、さっさと投票してしまいたかった。

言葉は悪いが、前回の衆議院議員選挙に続いて、今回も「お祭り」選挙になりそうだ。すっかり弱ってしまった自由民主党に民主党ほか野党連合が政権交代をかけて勝負を挑む。そのこと自体に異論はない。おおいにやってほしいものだ。
気になるのは、そのたびに入れ替わる若い候補者たちのプロフィール。コイズミチルドレンと呼ばれた、衆議院議員一期生のなかには、、あまり社会経験のない本当に若い世代が数多くいた。百戦錬磨の議員さん方の中で、議員として存在意義を示すのは大変だったろう。それが今回の選挙には立候補すらしない人もいるという。では議員の経験は、将来なにに生かされるのだろう?
今回の立候補者のプロフィールもたいそうご立派で、非の打ちどころがない方々が政党名簿にあらたに名前を加えておられます。かつて市議会や県議会の議員を経験された方々や、官僚出身の方々。専門職のみなさんやエリートサラリーマンからの華麗なる転職など・・・。それであなたは、どんなふうになにをどうしようとしているんですか?マスコミや広報誌、選挙広告から読み取れるのはマニフェストや政党の政策集であって、立候補しているその人の主張に関する情報は意外と少ないように思える。
そういえば、誰でも議員になれる、という話を聞いたことがある。被選挙権の話ではない。議員という職業を選択する感覚で、たとえば松下村塾などの門下生になり、議員秘書を経て、市議会議員、県議会議員へと「就職」する人がいるという。そういう意味で、きちんと段取りして訓練すれば誰でもなれる、というのだ。あれ、そういうものだっけ?と疑問に思う。そういえば僕らがまだ学生だったころは、すでに何とか委員とか生徒会の役員には、なり手が少なかった。誰かが面倒なことを引き受けて、たとえば学園祭の予算をきちんと回してくれればそれでいい、というノンポリシーな同級生、学生が大勢いた。その延長線上で議員なんか誰がなってくれてもかまわない、税金や公共料金が値上がりせず、きちんと社会保障が運営されて、警察や消防、救急がサービスしてくれればそれでいい、という意識がもし蔓延していたら・・・そう思うと少しだけこの国の未来が不安になる。
連れと選挙の話をしたら、成人して以来彼女は投票したことがないという。投票しても意味がないから、と。残念ながら、それは一理ある。若者世代の人口が少ないがゆえに、より人口が多い老人世代の投票結果が反映されやすいためだ。その一方で、老人世代の作った政策を、まるで自分の政策のように読み替えて政党入りし、さも「若者の意見を代弁します」という顔で、議員に「就職する」ひとがいるというのはいかがなものだろう?
みながみな、そんな選択をして議員を目指しているわけではなく、またそうであってほしくない。しかし、一期生の議員が「再就職」できずに、使い捨てされる政党の現状は、なんだか不思議な気がする。議員は、生活のバックアップが自らの力でできる人しか、なってはいけないのだろうか?議員の仕事って何だろう?たくさん議員がいることは、議会制民主主義を実現するために、必要なことなのだろうか?世代間の政策に対するニーズの違いを、投票結果のウェイトづけに反映させる仕組みは作れないのだろうか?
いろいろな思いを胸に、期日前投票を済ませてきた。前回、都議選の折りに入場整理していたきれいな女性に会えなかったのは、残念である。

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替え歌 しろいくすり

http://www.youtube.com/watch?v=GggPu6L8iRY

一部ネットでうわさになっている替え歌を、当初アップされていたという「にこにこ動画」ではなく、ユーチューブで見つけた。なるほど、エグいうえにブラックユーモアだ。折しも芸能人の麻薬使用に関する逮捕が連続している中で、こんなに簡単にパロディーができてしまうなんて、あらかじめ準備されていたようで少し悲しくなる。

ネットニュースというものは、いろいろなことを伝えるものだ。この原曲が主題歌となった連続テレビドラマの演出家から、逮捕された芸能人に対して、熱いラブコールがあったよう。確かに演出家のドラマに何回か主演している。それがどういうわけか、元夫と結婚することになり、その元夫の誘いで麻薬の世界に入ってしまったらしい。この演出家にとって、なによりもショックなできごとだったことだろう。無理やりにでも、その結婚をやめさせれば、こんなことにならなかったのではないか。いまごろ、そんな自問自答をしているかもしれない。
数多くの人気テレビドラマを手掛け、一部には問題作といわれながらも、活躍を続けるこの演出家の方には、是非「空白の六日間」を題材とした、フィクションを製作してもらいたい。かつて心からいとしいと想った相手が、つまらないおとこの導きで地の底へと堕ちてしまう現実を、しっかりと見据えて、社会への警鐘を鳴らしてほしい。大事なことは、こどもを残して親だけが自らの快楽に溺れてしまった事実を、どのようにひとりひとりが受け入れるか、どう生かすかではないか。
舞台が芸能界である必要はない。ごく普通の、どこにでもある家庭が、ささいなことから壊れていきかねない、砂上の楼閣であることからスタートしても、十分に設定が可能だろう。残念ながら、それだけ豊かになり、他方先の見えない不確実な、しかも希望も見えない社会を作り上げてしまったのだから。

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もうすぐ初盆

もうすぐ初盆を迎える。ひとではなく、私が勤めている企業の初盆。役員はすでに退任し、豪勢な役員室もいまは主を失い、原状回復を待つ他の空き部屋と同様の状態。およそすべての部屋はガランとして、人気のない図書館のよう。そこで最盛期の十分の一にも満たない、残された残務処理班が働いている。
先日ふと神棚を見上げると、榊が枯れ果てていた。さすがに榊は共益債権としてあらたな支出はできないためだろう。第一、「商売繁盛」と書かれたお札に向かって、民事再生手続きを進める企業の社員がなにを願うのか。さはさりなん、神様のおわします神棚に、しかも近づく初盆に枯れた榊ではあまりにも失礼なので、自腹で榊を購入して取り替えてみた。
いまごろ元の役員はなにを思っているのだろう。また元の同僚皆様はなにを思っているのだろう。元同僚の中には、夢も希望も見失ってしまったかのような、様子や言葉を聞くことがたまにある。苦しい環境で、思うように収入も得られないのでは、しかたない面もあるだろう。ただ、経営破たんの原因を「外」に求めるだけでは、なんの前進も改善もないのではないかと、改めて思う。
昨日、後輩が訪ねてきて、久しぶりに夕飯をいっしょに食べた。彼は経営コンサル会社で働いているという。彼が、そのコンサル会社の経営戦略、競争戦略を語り、企業の戦略アドバイスにとどまらず、その導入、ならびにオペレーションまで関与しようとしていると聞いて、この会社でなにが起こったか、自説を話したくなった。
ちょうど私が入社したころから、この会社は利益や売上の成長のスピードと、組織の成長スピードがかみ合わなくなっていた。それを補うため、のべ三社のコンサル会社が経営ないし人材育成に関与したように思う。他方、それがうまくいったかといえば、そうではなかったといわざるを得ない。なにより中間管理職レベルで、組織を横断する情報共有が全くなされなかった。その意味では同期入社でネットワークがつながっている若手社員のほうが、いま会社全体でなにがおこっているか、正確な情報を共有していた。全く情けない話だが、これでは会社がおかしくなるのも無理はない。もともと組織化されていなかった、個人商店の集まりを、組織化しようとしていろいろと努力してみたが、結局のところ会社の成長に個人の成長が追い付かず、それがタコつぼ化を助長した、と説明した。そしてひとの組織を変えるのは、外部からの圧力だけでは進まず、内部の協力者、理解者、キーマンが重要であることも。
たぶん、この会社は二年前ないし一年半前の選択を誤らなければ、こんな事態にはなっていなかったに違いない。しかし過去の誤った選択は、選択されるべくして選択された、と言わざるをえない。そういう意味で、初盆は自分自身にも過失がある苦い時間になりそうだ。きちんと弔うためには、「なにか」をきちんと消化する必要があるのだろう。

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最劣後はタダ?

仕事でこんなことがあった。テール期間を迎えているあるSPCの匿名組合出資を「タダ」で譲ってほしいという。
案件の概要はこうだ。資金調達は、アモチ条件付きのローンと優先匿名組合出資および劣後匿名組合出資で構成されている。ローンの当初設定期限を一年も経過しており、売却活動も思わしくないことから、レンダーがロールオーバーを検討しているという。当然、バリューが下がっているので、一部繰り上げ返済をロールオーバーの条件にしようとしている。案件は特殊な収益不動産であり、十数年のちには収益を生まなくなる。しかし、いまは遅れることなく、また賃料減額されることなく順調に収益を生み続けている。テール期間に入り、収益の配当は金銭消費貸借契約に従い停止されているものの、これまでは毎年相当程度の配当を受けている。
こちらは民事再生企業だから、匿名組合出資を譲り受けていただけるのはありがたい話である。ただし、「タダ」なのか、と考えるとどうしても合点がいかない。デフォルトして終わりなら、タダでも仕方あるまい。しかし収益を生み出し続けている収益不動産を証券化対象資産とする匿名組合出資は、ロールオーバーにより新たに収益を生み出す可能性はないとはっきり言い切れるだろうか?ひょっとしたら、配当金額は将来減るかもしれない。いままでの配当を前提とした価格算定は成り立たないかもしれない。他方、ローンが減額されたうえに金利が同じであれば、SPCの毎期損益計算はプラスになるはずである。すなわち劣後TK出資といえども配当を受けられる可能性が高くなる。将来、配当を受けられる可能性がある資産を「タダ」で手放せば、監督委員のみならず、他の債権者からの誹りを免れえない。
おかしなことに、このアセットマネジメントを受託している会社の代表が、このロジックを全く理解してくれない。第三者売却なら劣後TKの価値は、本当に「タダ」かもしれない。それはマーケットに左右されるからである。他方、特殊な収益不動産であるがゆえに、収益はほぼ確実に生まれる。ただしそれは原価の回収を含む収益なので、注意が必要だ。分配される期限が決まっている収益は、マーケットプライスがなくても、理論値での売買も可能となる。(賃料収入などの条件が変わらないことが前提だが。)なのになぜゼロなのか?理解に苦しむ。

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民主党マニフェストにびっくり

友人に教えられて民主党政策集INDEX2009をみて、びっくりした。
http://www.dpj.or.jp/news/?num=16667

なんと「一つの業者が売り手と買い手の両方から手数料を取る両手取引を原則禁止とします。」と書いてある。(41ページ)これによって、どれだけ多くの不動産仲介会社が倒産の危機に直面するか、この方々は理解しているのだろうか?また大手不動産会社の決算でも、収益不動産の売却による収益増加が、不動産仲介部門の不振で食われてしまって、実際には減益だったり微増だったりする事実を知っているのだろうか?
ネットで検索すると、多くの不動産業者がこの事実に気がつき始めたようだ。ふと気になって根拠条文を調べてみると、宅地建物取引業法第46条は、媒介報酬について「国土交通大臣の定めるところによる」としており、「宅地建物取引業者が宅地または建物の売買等に関して受けることができる報酬の額を定める件」という昭和45年10月23日付建設省告示1552にて「依頼者の一方につき、それぞれ」となっている。ということは、国土交通大臣が告示すると、民主党の言うように「覆る」ことになりそうだ。
そもそも両手取引を規制しなかったのは、たとえば、一般の住宅市場のように同一の不動産業者に、売り手と買い手がそれぞれついてしまうことがしばしば起こるので、いわゆるプロの市場では「自発的に」片手取引になるだろうことを期待して、それぞれから仲介手数料を受領することを容認したと解釈することもできる。しかも法律は「以内とする」と規定しており、実際に仲介手数料を3%未満で仲介する不動産業者は出現している。それが一般化しないのは、業界の「既得権」を温存しているだけであり、また極めて地域限定的、排他的な業界風土そのものにあるといってさえいいだろう。したがって、民主党の政策集にある、両手を片手に、は現在の業界の問題を複雑にするばかりであり、民主党の意図する中古不動産取引の活性化に資するとは、とても思えない。むしろ不動産業者間でお互いの情報を交換し合う、「不必要な情報交換」「顧客の交換」が発生して、必ずしも顧客の望む物件が手にはいるとは限らなくなる恐れも発生するのではないか。その意味では、いままで国土交通省が推進してきた、取引情報の透明化、公開化のほうが国民生活における不動産取引にはるかに資することになると、私は思う。
さらに、あえていえば不特定多数の投資家を対象とする商品の運用を目的とする、不動産の取得に際しては、宅地建物取引主任者の責任を重加算するべきではないか、と思うことがある。残念ながら宅地建物取引業を長く営んでいても、越境物や適式な境界確認の意義を理解していない、おそまつな取引主任者を何人もみてきた。ストラクチャーもの特有の表明保証義務やリスク認識についても、同様である。不動産証券化協会が主体となって、不動産証券化マスター制度をスタートし、業界全体の知識向上、モラル向上に努めているが、残念ながら業界全体に影響を与える動きにはなっていないようだ。しょせん、「担当者」のレベルがあがるだけで、経営者や意思決定者の意識が変わらないことが、一つの要因のように思えてならない。それが「胡散臭い」と思われる不動産業の実態のひとつであり、高額の仲介手数料をめぐる「モラルなき戦い」を生んでいる。そういう意味では、不動産業者全体の監督機関を、国土交通省単独から金融庁との共管にするほうが、よほどましであるし、その意味で、たとえばすでに国土交通省と金融庁の共管になっている、不動産証券化マスター制度の公的位置づけを早期に明確化するべきだろう。
つくづく民主党政策の「底の浅さ」を見てしまった。現在の与党が手放しにいいとは思えないが、こんな程度の政策しかつくれない政党に政権をまかせていいのかと、思いたくなる。ほかにも変な政策がないかどうか、少し読み込んでみたい。

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信用買い残高

先日、あまりにも割安に下落していた同業者の株を取得して、高値での売却をねらっていたら、どうも自分の予想通りに株価が変動して気になっている。
割安と判断したのは、配当利回りやPBRを見ての判断だが、それ以上に直近の10日ほどで株価が三分の一ほどに下がっていたこと、下がることに合理性があるとは思えなかったことが大きな要因。しかも信用買い残高が減少し始めている。信用買いをしている人がたくさんいる、ということはいずれ値崩れする可能性はあるものの、信用買いが減っていれば、早々に相場は反転するはず。実際、同じように考えた人が多かったらしく、その日は大商いだった。
その翌日から六営業日連続でストップ高を記録し、なんとも不思議な気分。しかも面白いことに信用買いの残高がほぼなくなったと思われる今日、ストップ高が止まった。同じ日にストップ高とストップ安を記録する、という大荒れの相場。いったい何が起こったんだ?
いまだに株式相場はよく理解できないが、信用取引があるおかげで、おかしな相場が時々出現するような気がする。信用取引が、ブレ幅を増幅させているため、あきらかにおかしい、ということさえ気がつけば、こんな取引が今後も成立しそうな気がする。しかしまた、なぜこんなことをするのだろう?
株式分割後でも株価は(分割修正後の株価にて)ほとんど変わらなかったのに、ある日突然大口の売却がでると、大幅に株価が下落する。流通株式数が少ない、ということはそういうことなのだろう。そして最安値のときには、その大口取引のほぼ十倍の株が動いた。それでも取引総額推定一億円。もし一人の人が持っていたと仮定すると、その後わずか二週間ほどで一億円が一億五千万になっている。これならデイトレードだけで大金持ちになれる。けど時価総額三十億程度の会社で一億円相当の株は、まあ売れないわなあ。売るのは手離れするときか、(金融機関などに)強制的に手離れさせられるとき。もし後者だとすると、会社自体に未来がないわなあ。(まさかそんなことはないと思うけど)
未来があると思っている、同業他社の株が乱高下するのを見るのは、少しばかり気の毒になる。さらにその乱高下を利用して小銭を稼ぐ自分に少しだけ後ろめたさを感じるが、その一方で職場の同僚には気づかれてしまったらしい。「なにか、いいことあったの?」と突っ込まれる。まあ、フェアバリューを知っている、ということがビジネスの基本だということにして、それ以上は考えないことにしよう。いくら考えてもつなぎ合わせる情報のハズルを持ち合わせていないのだから。

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林正義教授の記事に思う

平成21年7月15日付日本経済新聞の経済教室に掲載された、林正義教授の記事を読んだ。林正義教授は、専門である公共経済学の分野を中心に積極的に意見を公開されている活動的な方であり、以前から何回か意見を読ませていただいた。
しかしながら今回の記事は、どうにもすっきりしない。「社会保障財源として、固定資産税の活用検討を」とあったので、なにか勘違いではないかと考えたからだ。氏は、「固定資産税は地域的な偏在が小さい」と記事で伝えている。統計データは、確かにそうなっているだろう。しかし事実はだいぶ異なるのではないか、というのが私の持論である。
人口五万人にも満たない、ある地方都市で、その地方都市の経済力からは過剰と思われる床面積の多い事務所ビルを売却したときのことである。築年数はまだ十年あまり、再建築コストはゆうに一億円を超えると試算される。当然固定資産税も高い。しかしその街の経済力ではだれひとり使いきれるひとがいなかった。売却するためじりじりと売却価格を下げてゆくがそれでも一年半以上購入希望者は現れなかった。結局その物件は、地方都市の公共団体が購入した。建築費から比べても固定資産評価額から比べても、あきらかに格安な価格で、である。これはなにを意味するのだろう。
人口が減少している多くの地方都市では、住民税や法人住民税の減少等により、すでに固定資産税が税収の多くの割合を占めており、これを保つため固定資産評価額を引き下げない処置をとっているのではないか、と私は考える。優遇税率もない、税額の控除もなし、すでにある資産にはすべて課税する。そうしないと公共サービスを維持することもままならないのではないか。財源の豊かな、たとえば東京都は商業地の固定資産について負担調整率により課税標準額を小さくしている。豊かな地方都市は、固定資産税に頼ることなく、むしろ競争優位を確固たるものにするために、固定資産税を低く抑えたままにすることができるのだ。都市間競争にさらされる地方都市が、固定資産税率を引き上げることは自滅行為ですらある。他方、東京都もまた、国際間の都市間競争にさらされており、過度の固定資産税引き上げは、賃料の値上げを通じてグローバル企業の東京からの撤退を招きかねない。氏は、この背景をどのように考えているのか。
もし固定資産税の税制を改正するとしたならば、ポイントは大きくふたつあると考える。ひとつは大都市と地方都市との絶対的税収格差の問題をどのように解決するのが望ましいか、地方交付税とは別の枠組みで、地方自治体自体が考える局面に来ているのではないか、ということ。いまひとつは不動産の収益力格差を固定資産税課税に反映させるよう、所定の見直しを行うべきである、ということ。
ひとつめは、たとえば大都市の固定資産税課税には減免を行わず、徴収された税額の一部を地方自治における経常的な支出の補てん(公共病院の維持や学校教育の維持など)に限って支出することができるプール資金とすることで解決できる。これは国が関与する必要はない。地方自治が経営破たんしないための、互助ルールである。
ふたつめは、災害時の輸送交通手段を確保し、かつ災害被害の軽減ならびに都市の生産性を向上させ、または維持管理不能な余計な固定資産を早期に除却させる目的で、固定資産評価の原則を、地域の実情に即した収益力に基づく固定資産評価に統一し、この例外として小規模宅地の軽減ならびに中小中堅企業の生産設備、流通設備等に一定の減免を与えるべきである。現在の制度でも、大規模画地補正などの項目は存在するが、必ずしも適正な割合を反映するものではない。それは収益価格による評価が一般化したこの十年間の変化を税制が取り入れていないことに起因する。従前、取引事例に基づく価格評価が一般的であり、隣接する土地の評価が大きく異なるのは納税者の理解が得られない、という理由で収益価格による評価には踏み切れていないのかもしれない。しかし徴税の原則は、土地の収益性に基づくものであるべきであり、本来その土地の持つ収益性を低利用または未利用の状態を継続することにより、不当に低下させている場合は、再開発を促す意味でも固定資産税を大幅に引き上げるべきだろう。その結果物納が増えるのであれば、公募により再開発事業者を募ればよい。再開発が必要な土地には、それなりの政策が不可欠である。またそのようにして再開発された土地ないし建物には、一定期間の固定資産税減免というボーナスがあってもいい。高度利用をするべき土地には、それを推進すると同時に、「将来の税収」を産んでもらわなければ。
固定資産税は、景気変動の影響を受けにくい。言い換えればビルやアパートのオーナーは、入居率の低下や家賃の値下げにより、景気変動の影響をダイレクトに受けることになる。それでも他の資産に比べれば不動産経営は安定収入であるといわれている。いわば不動産収入は、来るべき高齢化社会を維持するために社会全体が共有するべき、貴重な収入である。ならば都市部の固定資産税収入を減額することなく、地方自治特に地方の社会保障を維持するために使うのは、大変意味のあることではないか。
氏が指摘する、さまざまな仕組みを簡素化することを否定するものではないが、それ以上にいま都市と地方が、どのような状態に置かれていて、どのような解決策が求められているか、それらに踏み込んで論考を進めてほしかったと感じている。

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Bargen Sale

These days many stores are in summer sale.
Some items are 50%off or 70% off.
What a nice price!,I thought.
But also Many People have no money for clothes,so am I.
So many stores contine bargen sale still now. 

Is it special? Do I realy need that clothes?I thought.
Yes! It's Special certainly. Another I said in mind.
Realy?I don't have enough money for life.You don't need it necessarily,do you?I thought.
Yes! Exactly I need.You never get this shirt such a nice price.Do you think so?
I agree.But...I say once more.Are you anxious to get it?
Yes of course!
Ok I will pay for you....

So I got some shirt in summer bargen.But still I didn't wear them.
Is it fever?Is it impulse purchase?I don't know.
Exactly saying,I never want to know it.
Just I believe it.is not impulse purchase.It's special for me. 

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不況と、ひとと

この週末にかつての同僚から、就職先が決まったと連絡があった。経営破たん後しばらく就職活動して、ようやくつかんだ職は、決して100%満足できるものではなにしても、家族を養うためにはまずまずの選択だったのだろう。月曜から出社すると喜んではいたものの、まだ就職先が決まっていない同僚たちへの、心配も共通の話題になる。就職をあきらめて、知り合いと会社を立ち上げる人も多い。ひとりふたりではなく、わたしの年齢以上の方は、二人に一人以上いわゆる「独立組」だ。とはいっても、それほど世の中は甘くはなく、仲介一本決めるにも、あっちに食いつき、こっちに食いつきと、節操のない必死の「営業活動」があちこちで行われている。OBの「営業活動」のために、清算業務にも多少の影響が出ている。媒介業務をめぐる仁義なき戦い。大手も中小も零細も関係なく、飯の種を求めて争っている。そんな状況だからこそ、不動産業に職があるはずもない。
先日、おねえさまと飲んだ時は、本当に心配になった。もう一年近く転職活動しても、口がない。「もうマンションも売って、実家に帰ろうかな」と弱気な発言が飛び出す。「このひと、むかし私にぞっこんだったんだ。歯の矯正も私に言われてはじめたんだよ」と、いままで話したことがない事実を話し出す。「ねえ、わたしと結婚してくれる?」と、これまた超弱気なお言葉。これが二年前なら喜んで受けただろう。いまは連れが大事。連れは、いまでもこっちに気があるのかないのか、いまいちはっきりしない、「不確実な関係」にも関わらず、彼女とは一生付き合っていくような気がしている。それに対して、ワインがお好きなおねえさまとワインが苦手な私との間に、なにかあろうはずがなく、仮になにかあっても、残念ながら継続できない。それをお互いにわかっていながら、惚れたはれた、と言っていたのは私が弱っていた証拠。そしていまは、おねえさまが弱っていらっしゃる。支えてあげたいが、男と女の一対一の関係まで支えられる自信もないし、その気もない。もう少し、おとなのお酒の飲み方を覚えていただけたら、考え直すかもしれないけれども。自分にかっこつけているうちは、酔った時の自分と、普段の自分との落差を埋めることも、たぶんできないでしょう。かっこいいひとと、かっこつけているひとの差は、こういう苦しい時に出るのかもしれません。

ひとに雇ってもらうのは、ビジネスリスクを背負わずに済むから楽ちん。しかも高額の給料をもらえるなら、それに越したことはない。しかし世の中全体が、個人でビジネスリスクを背負わないように動き始めたら?新しいビジネスは生まれず、社会全体がくすんだ、古ぼけたものになってしまうのではないか?大事なことは活力を失わないこと。そのためには無駄の排除や、効率化、イノベーションは大事だけれども、そのまえにチャレンジブルで、リカバリイ可能なビジネス環境をつくることこそが大事だろう。いくつになっても、自らの能力を売りにして、世の中に自らの必要性を問うことができるような、そんな個人スキルの時代が到来したからこそ、調整力、突破力などの評価しづらい能力の評価まで含めて、人材が流動化していかないと社会全体が硬直化しかねない。
その根本は、つまるところ知識や専門サービスにお金を払わない風潮そのものなのかもしれませんけどね。

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地価下落政策

ふと思う。地価の上昇は、経済成長の象徴だなんて、だれが言い出したんだろうか?
みかけ上の地価上昇は、物価上昇率や為替相場を勘案したときに、単にインフレーションの影響だったり、グローバルマネーの国際間移動だったりするかもしれない。もちろん街自体に人口が集中し、限られた資源である不動産に需要が集中すれば、当然の経済原理として地価は上昇するだろう。だが・・・地価の上昇によって、再開発利益をもくろむ事業者から明け渡し交渉を受けたり、固定資産税が上昇したり、隣接地と自らの土地において、自らが営む商売や利用方法との連続性がとぎれとぎれになって街並みがちぐはぐになったり、さまざまな理由によって住み慣れた街を離れざるをえなくなることもあるだろう。
デベロッパーの経済合理性だけをいえば、建物の高層化・耐震化・耐火構造化が進むことで、敷地の有効利用が図られ、また災害に強い、住みよい街が形成されるともいえる。再開発を可能にする経済合理性は、開発利益であり、その開発利益の多くは、経済成長に伴う(地価上昇を背景とする)売却益であったり、高額な家賃だったりする。しかしもう、大勢の人が気が付いていることだろう。似たような街並みが全国あちこちにつくり出され、あたかも全国展開を目指すテナント企業とデベロッパーの合弁事業のような大型ビルや商業施設が乱立してしまった。全国で、みな同じ商品やサービスを享受することができることは決して非難されるべきことではないが、それが地域の活性化や雇用創出、個性化に寄与しているか、といえば必ずしもそうとはいえない。むしろ創意工夫のなさばかりが、目立ってしまう。それは本来意図した開発ではなかったはずなのに、である。
そもそもの発端は、地価を上昇させようとする政策そのものなのではないか、と地方の割高な固定資産税をみるたびに思う。もう五年も前のこと、ある人口五万人程度の町の話だが、固定資産税の課税標準額が、実勢不動産価格よりも高かった。最初に調べた時は、自分が間違えたのだろうと思っていた。しかし地元の誰に聞いても、固定資産税課税標準額で取得しようとする買い手はいなかった。通常、固定資産税の課税標準額は、不動産鑑定評価でいう、「正常価格」の七割を目安に設定されているはずなのに、である。もちろん不動産の価格は、取引事例に基づく比準価格ですべて決まるわけではない。しかし「買い手」がいない、という現実は、その不動産がよほど特殊な事情を抱えていない限り、正常価格が異常である、という結論にならないだろうか。もしかすると地方自治の財源は、固定資産税に依存しすぎているのかもしれない。法人税や所得税といった、基幹税収をすべて国に押さえられ、地方自治の現場が唯一勝ち取ることができた税収が固定資産税・都市計画税なのかもしれない。そして税制の応能原則・応益原則に従い、高い価値の土地からは高い税収、低い価値の土地からは低い税収というロジックが組み立てられたのだろう。制度を作ったときはそれでよかったかもしれない。しかしいまは、全国に同じようなものが同じようなスピードで提供されるぐらい、我が国は豊かになった。また急速に高齢化がすすみ、低コストで質の高い福祉を提供するべき必要性に迫られている。そんなときに、高度経済成長モデルの、税制に地方自治が頼っていていいのだろうか?固定資産税や都市計画税を課税しない県や地域があってもいいのではないか。
産業誘致のため、という小さな地域を指しているのではない。もっと大きな次元でとらえたときに、たとえば富山市や青森市が試行するコンパクトシティを実現するための施策になるかもしれないし、子育て世代にマイホーム取得の夢を実現させるきっかけになるかもしれない。財源を縮小すれば、必然的に事業を絞り込まざるをえなくなる。期待を込めていえば、交差点の改修事業や歩道設置事業など、街の環境を良くするような事業に選択投資されるようになるだろう。
地価を下げよう。いままでだれも言わなかった政策を掲げたら、まったく異なる都市計画や地域発展計画、福祉政策、交通計画、産業政策などが生まれるのではないか。まったく異なるビジネスモデルが生まれ、新しい雇用や経済発展がはじまるかもしれない。考えるだけでもわくわくするではないか。どうしてやらないのだろう。どうして、与えられた制度のうえでしか、ものごとを考えることができなくなってしまっているのだろう。貰わない。そこからはじめれば、地方自治も元気になるのではないか。かつて東京都知事がホテル税をはじめたときのような、思い切った発想が地方を豊かに変えるのではないか。

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不動産業の明るい未来

六本木ヒルズで、久しぶりにセミナーを受けた。不動産投資&マネジメントを成功に導く「現場力」というタイトルで、パネラーがフリーディスカッションを行うもの。
いろいろ興味深い話はあったが、印象に残ったのは最後の質問。「いまひとりの学生がいたとして、不動産業への就職を薦めますか、それはなぜですか?」。
パネラーは思い思いに、不動産業の未来を語る。あるパネラーは、まだまだやるべきこと、ビジネスチャンスが無数にあるといい、あるパネラーは理論的ではない精神論だが、と前置きして、役に立つことをしているのに、胡散臭い業界と言われるのが悔しいから、この業界で仕事している、マーケットを変えていこうという意欲を持った若い人に入って来て欲しいと語り、かとおもえば、(正直に)、悪いことは言わない、公務員になりなさいというパネラーもいる。
どれも真実だろう。どんな業界にも悪習悪癖は溢れているのではないか。他方、不動産業は不動産金融市場の成長に伴って、ようやく明るい日差しを受けたばかり。マーケット情報が少しずつ開示されて、不動産投資が博打から「投資」になり始めたばかり。だからこそ無数のビジネスチャンスがあり、一方で無数の落とし穴がある。それを面白いと思えなければ、仕事はつまらないだろうからやめたほうがいい。
いい意味でも、悪い意味でも、不動産金融マーケットを存分に利用して、業界で一時名を馳せた会社に、たまたまこの時期に居合わせて、たまたま会社を畳む仕事を手伝っていると、この業界の特性がよくわかる。
ノンアセットビジネスに、メジャープレーヤーが集中するなら、逆張り投資もできるはず。アセットバリューって、なんですか?という本質的な問いに答えを見出だしたひと、あるいは答えの出し方がわかったひとが、次の波でキャピタルゲインを手にするはず。恐れてばかりいては、マーケットは成長しないし、大手の寡占化が進むだけ。中堅こそ、チャンスに溢れている。
わたしは、そう信じているし、だからこそ生涯の職業として、不動産業から離れることはないと思う。胡散臭い「不動産コンサルタント」にならないように、自らを戒めながら。
それにしても、いつになったら「不動産業=胡散臭い」から脱却できるのだろうか。倒産した会社で、会社整理の仕事をしていると、そこにいろいろなひとたちが、群がってくる。面白くもあり、残念でもあり。結局、儲かるってことでしょうかね?

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こんな携帯電話、なぜないの?

先日、ひとに教えてもらって家電量販店にauが日本ではじめて市場に投入したという、ソーラーパネル付携帯電話を見に行った。二か月ほど前、災害対策として携帯電話用の太陽電池付充電器を購入したが、この携帯電話ならその必要はなくなる。しかしふと考える。なぜいままでなかったのだろう?
ソーラーパネルの技術は昔からあったはずだ。そして私が購入した太陽電池付充電器は、日本製ではなく海外からの輸入品。太陽電池付携帯電話など、とっくのまえに製品化されていいはずだ。同じように、たとえば工事現場や漁師、農家など、振動やほこり、衝撃、水漏れなど過酷な環境下でも壊れにくい携帯電話ってみたことがない。こんなものがあったら、すぐに携帯が壊れて困る、という悩みをお持ちの方々は、とても喜ぶのではないか。また太陽電池付携帯電話ができるなら、振ることで充電する携帯電話があってもいいだろう。そうすれば運動にもなる。Wiiを買わなくても、携帯電話の充電をするために、多くのひとが毎日の習慣として、携帯電話を振るのではないか?最近は、足で踏まれることで発電する方法もあるときいた。それならば足で踏んで充電する携帯電話なんてどうだろう。ストレスフルな会社員(わたしも含めて?)が、「なんだ、こんちくしょう!」などと(上司の顔を思い浮かべながら)足で踏んづけているなんて、気持ちいいではないか。携帯からの電話一本で顧客からも上司からもこき使われる会社員には、「この携帯さえなければ・・・」という意味でも足で携帯をふんづける快感は、一度やったらやめられないのでは?
機能面では、たとえば持主の気分を読み取る、「空気を読む携帯」なんかあったら楽しいだろう。携帯を握る手の表面の温度変化やひとの体からでる微量の電圧の変化などを「読み取る」ことで着信音が変わるとか。「いま電話出たくないだろうけど、出てもらえないだろうか?」とか「ほら、元気がでそうなメールだよ」とか、それが音声でなく、気分にあわせて着信音が変わるとか、音量が大きくなったり小さくなったりとか。
外部の気圧変化や温度変化を読み取って、必要であろう情報(集中豪雨情報、近くで傘が調達できそうな場所、もっとも近い駅の入り口など)をあらかじめ携帯にニュースとして配信するサービスなどは、いますぐにでもできそうなのに、「総合的な」サービスには至っていない。いまいち。そうでなくても携帯電話のWEB検索スピードの遅さは、いらいらを通り越してあきれてしまう。パソコンの光速度に慣れすぎたせいか。
携帯電話の番号がわかれば、自動的に携帯電話にメール送信ができるようにならないだろうか?携帯電話番号と携帯メールアドレスが別物で、どちらか片方しか教えたくない、知られたくないニーズがあるのは理解しているが、どちらか片方しか知らないことによる不便は、意外と大きい。特に相手が乗物に乗っており、メールは送受信できても電話できないとき、たまたま携帯電話番号しか知らないと大変不便だ。逆に携帯メールだけしか知らないと、文字でニュアンスを伝えにくい時に不便する。せっかくポケットベルの時代から進化しているのに。赤外線通信が付いている携帯電話でも、赤外線通信がうまくいかずに、手入力で携帯番号やメールアドレスを入力することがたまにある。これは結構不便。
ペースメーカーをつけている人の近くにくると自動的に電源が切れる仕組みなど、ちょっとの改良でできそうな気がする。一定以上離れれば、また起動するようにすればシルバーシート近辺に限らず、ペースメーカー利用者が安心して公共交通機関を利用できるようになるだろう。同じ発想で、公共交通機関内での通話をすべて一定時間内に限定するシステムもつくれるのではないか。バスジャックなど特殊なケースに備えて、非常ボタンが押されれば自動的に通話制限が解除される仕組みにしておけば、困ることはないのでは?
携帯電話がそのままパソコンの通信手段としてパソコンに接続できる(LANやASDLのように使える)仕組みも残念ながら耳にしたことがない。接続する器械があればできそうなのだが・・・(PHSのときはあったようなきがするのだが)そういえば携帯電話がマンションのカギになるような仕組みってあるのだろうか?SUICAでコインロッカーが使えるのだから、あと少しの工夫で携帯電話がカギになることもできるのだろう。そうすればクルマのキーや、会社の引き出しなども管理できてしまうのではないか?レンタカーもできそうですね。(レンタカーはすでに実用化済みだったような・・・)
このほか体調管理してくれる携帯電話や、持主の精神状態から(秘書の代わりのように)勝手に留守電モードになってくれる携帯電話、長電話を勝手に終わらせてくれる、時間節約志向の人向けの携帯電話、相手の母国語をリアルタイムで翻訳してくれる通訳付き携帯電話など、考えればきりがないぐらい。
そもそも必要な機能をカスタマイズして注文を受けてくれる、オーダーメイド携帯電話はなぜないのだろう?いまある機能のうち、一部だけ使いたい人はいるだろうに。大量生産大量消費を前提にする携帯電話生産は、すくなくともこの国では終わりにしてもいいのではないか?

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マスクの値段

豚インフルエンザ騒ぎのおかげで、あちこちの薬局でマスクが売切れになっている。かくいうわたしも、開店早々の薬局で一箱六十組もマスクが入っているお得用セットをつい買ってしまった。オイルショックの折り、トイレットペーパーがなくなると大騒ぎになったと聞くが、こんな状況だったのだろうか?
開店早々の薬局で、そのお得用マスクの箱をひとりで五箱も買っている御婦人がいた。そのためか、わたしがレジに並んで決済する頃には、棚からマスクがなくなっていた。
そしてしばらくその薬局でも、マスク売切れが続いていたが、昨日ふと棚を覗くとマスクがたくさん並んでいる。おやっと思い、よくみると工事現場などで粉塵吸い込み予防に使われる、超高性能マスクがそこにあり、当然お値段も五枚か十枚入りで二千五百円近くするなど高額商品だった。そして棚にあるということは、開店から店を覗くまで、売切れなかったということ。誰も一枚250円もするマスクを急いで買おうとしなかったのだ。
改めて思う。マスクの市場価格が、インフルエンザ予防に割安だと多くのひとが判断する値段だったから、店頭からマスクが消えるぐらいマスクが売れただけで、騒動が終わってしまえば数年分のマスク在庫を抱えることになるか、もしくはネットでマスク販売がプチブームになるのではないか?ちなみにマスク売切れが続くわたしの住むまちで、朝の通勤時間にマスクして通勤するひとは少ない。帰宅時に到っては、ほとんどいない。こどもがいる環境なら、多少異なるのかもしれないが、パンデミックとはとても思えない。
厚生労働省の発表では、今回のインフルエンザは弱毒性であり、冷静な対応を呼び掛けている。弱毒性だからよかったのであって、行政レベルでは次回の発生に備えて、マスクやうがい薬などの流通、配付にはなんらかの手当がいるかもしれない。個人レベルでは、なにより慌てないことだろう。二週間分の食糧備蓄呼び掛けに、「できるかい、そんなこと!」と開き直っていたが、まじめに考えなければならないだろう。

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男の子牧場

サイバーエージェントが運営する、男の子牧場という、身近な未婚男性を女性同志が紹介しあうサイトが閉鎖されることになったそうだ。このサイトでは、最近の男性が草食系と言われることから、紹介する男性を馬や牛のアバターで表現し、それらを牧場を摸した背景に置いた。それが「ひとを家畜扱いしている」などの批判を呼び、閉鎖することになったのだという。
批判の声はわかるが、そもそもどうして「男の子牧場」だけがサイトになったのだろう。片や肉食系女子と言われているのだから、セットで「女の子サバンナ」や「女の子アマゾン」がもし提案、アップされていたら、この問題の所在がより明確になっていたのではないか?それとも肉食系女子を相手に、そんな提案は出来なかったということか。失礼な言い方をすれば、そんな想像力もないお粗末な方々なんですね、とも言いたくなる。
そんなこと、ジョークとして許したら、という意見もあるだろう。しかしこのサイトは、男子本人ではなく女子の「他薦」でアップされる。自らの預かり知らぬところで、勝手に家畜扱いされていたら、気分悪いではないか。逆に自らの知らないところで猛獣扱いされたら、気分悪いだろうし。
こうやって事例を積み重ねながら、ネット時代の「マナー」が形成されるのだろうか。批判されない限り、自らの言動を改めない風潮は、プチバブル崩壊とともに、なくなってほしいもんだ。

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バテバテなハイキング

GWも後半は雨らしいので、今日はたまりにたまった、お守りを白紙に包んで、厄年のお祓いを受けた神社に奉納しに出かけることにした。
接続のバスが遅れるのは、いつものこと、石段を登り神社の境内につくと札所があって、そこに所狭しとお札やお守りが置いてある。昨日ユニクロのでーるで買ったナップザックからお守りの束を取り出し、重ならないように丁寧にひとつひとつ置いていく。(このとき家から持ってきたまんじゅう二個の紙包みも間違えておいてしまったようだが、そのときは全く気付かなかった。)すっかりならべて、社務所に行き、お神酒がほしい、と伝えたところ酒税法の関係で神社ではお酒を販売できないという。ああ、なるほど、お祓いをすればお神酒はもらえるが、そうでなければ酒類販売になるから免許がいるんですね。神事なので、ぜひ免許取ってください、と言いたかったが、言っても仕方ないので、社務所を後にした。
今日は、このあとしばらく山歩きして、終点に着いたら温泉の予定。「がんばるぞ!」と勢いはいいが、体はかなり鈍っている。ふとももが痛いなあ、などと思いながら山道を登っていく。
最近は、山道ですれ違う時に挨拶しないのだろうか。こどものころ父から、山ですれ違った時は、「こんにちは」とか「おさきにどうぞ」とか「いい天気ですね」とか、挨拶するものだと言われて育てられた。山道も人影がまばらになると、声をかければ必ず返ってくるが、親子連れがハイキングしている様子の何組かは、こちらが声をかけても、無視して通り過ぎて行った。こうして山歩きのルールも風化していくのだろうか。
山道は予想よりもはるかに厳しかった。岩にしがみついて登ったり、整備されたくさりを頼りによじ登ったり。わたしが小学校六年生の頃、父がわたしを連れて約八時間の山歩きをしてくれたが、そのときの年齢にもう私はなっているのに、同じ体力がないようで、情けなくなる。ちいさなこどもが元気よく、追い越していく。まあ、いいか。
新緑がきれいだった。落ち葉がそのまま山道に残されているところがあるかと思えば、岩肌そのままむき出しの山道もあり、新緑が生い茂っている低木があるかと思えば、背の高い常緑の杉が威容を誇っているエリアもあった。
家で握ってきたおにぎりがおいしい。そうだ、ウェットティッシュを忘れてきた。まあいいか。おにぎりおいしいし。記念撮影に忙しいひとも多いが、ここは風景より食欲。染み出した汗がTシャツからこぼれおちるぐらい運動したら、そりゃごはんもおいしいわ。
帰り道は、相変わらず容赦ない。木の根が入り組んだ急な傾斜をゆっくりと下っていく。上り坂になるたびに、ひざがきしむ。どうやら豆ができているようで、足先が痛いがそんなことにかまっていられない。ただひたすら、温泉にゆっくりつかることを想像して、とにかく前に進もう。
足もとに街並みが見えてきたものの、行く先には急な下り階段。なんともハードな道だこと。それでも眺めは最高だったし、立ち寄りした日帰り温泉も、入場まで若干待たされたものの最高でした。
またいくかもしれないし、いかないかもしれない。そんなGWの一日。

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ある友人に思う

私の友人が離婚して、おそらく一年になろうとしている。かわいい女の子がいて、家に遊びに行くと私にもなついてきて、インド土産に買ってきた動物の積み木パズルよく一緒に遊んだものだ。古い友人なので、同い年の奥さん(もう離婚してしまったが)ともよくいろいろな話をした。不思議だったのは、いつもいつもいがみ合っている夫婦だった。そこ、喧嘩するところじゃないから、とつっこみを入れたくなるぐらい、よく口喧嘩していた。奥さんにも言い分があり、私の友人に非があることもあれば、奥さんの思い込みもあって、どちらかが一方的に悪いとはいえないような不思議な関係だった。
その夫婦が離婚して、しかも子供の面会権をめぐって調停しているという。何度となく調停をしているというから、さぞ疲れることだろう。わたしも一度だけ高等裁判所へ調停に行ったことがあるが、それはそれは気分が悪かった。できることなら、もう二度と自分自身のことでは裁判所などに行きたくない。家族のことは、訴訟とか調停とか、法制度による解決になじまないのではないかと、自分でも戸籍法に定める法制度のために調停をしていながら、つと思う。
彼が調停を続けていられる、その源泉はなんだろう。僕は、自分のこどもがいなから、こどもと引き離されるつらさは、言葉では理解できても、実際どのように解決するのがいいのか、冷静に整理できるほど考えられない。ただ過ぎゆく時が、古き良き日を「思い出」に変えてくれるのを待っている。ときどき「ああ、こんな楽しいことがあったなあ」と思い出すが、「いやいや、これからだって楽しいことがきっとあるさ」と思い直せる。つらい過去は変えられないが、楽しい未来は作り出すことができる。しょうがないじゃん、もう壊れちゃったんだから。もしかしたら20年後とかに別れた妻が戻ってくるかもしれないけど、そのときはお互いお年寄りだから、惚れたはれたの関係よりずっと豊潤な大人の関係が築けるかもしれないし。こどもに会いたいのは親のエゴであって、こどもは例えば母子家庭で娘が育っても、十年か二十年かすれば、母親が間違っているとか父親はやっぱりひどかったんだとか、じぶんで考えられるようになるでしょう。もしかしたら元妻のこどもも、そんなふうにしてすっかりお年寄りになった僕に会いに来るかもしれないし、来ないかもしれないし。どうして僕の友人は、そんなふうに「許して」あげられないのだろう。どちらが正しいのか、こと家族の問題に関しては、その両親に育てられたこどもしか、わからないのだから。あるいは決められないのだから。
先日、妹が結婚式の席で、両親への感謝の言葉が書ききれないほどたくさんあった、と言っていました。親は、育てたこどもに感謝されて、巣立って行って、そして送りだして、そして親という仕事を終えるのでしょう。たとえ途中で、不幸にして離婚したり死別したりしても、こどもはその思いをずっと胸に秘めて、生きていくんじゃないでしょうか。連れの母親はもう他界してこの世にいないけれども、彼女の中にしっかりと生きておられますし。親は、もっとこどもを尊重して、こどもの声に耳を傾けるべきじゃないでしょうか。まだ幼ければ、じっと成長するまで待つことも必要でしょうし。いつかきっと、あなたがどんなにこどものことを思っていたか、こども自身が知るときがくるでしょうから。

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六本木の公園で酔っ払いが叫ぶ

テレビや新聞、ネットニュースが同じ話題を一斉に報じていると、いつも違和感を感じるが、今回もどうしてまた騒ぎ立てるのだろうと思う。一昨日の夜、六本木の公園で、酔っぱらいが素っ裸になって叫んだ話だ。それであちこちのマスコミが一面トップで扱ってくれるなら、まねする人が出てもおかしくないのではないか。実際には社会面にちょこっと載るか載らないか。テレビに至っては話題にもしないだろう。
しかも酔っぱらいの家を家宅捜索する?ほんとに?そんな捜査がまかり通るなら、深酔いしてすぐ記憶が飛ぶご仁たちは、よほど怖い事件だと感じていることだろう。酔っ払って意味不明なことばを発して暴れるなんて、褒められたことじゃないけど、よくある話。国家権力ってこんなに簡単に国民の生活に介入していいのかしらん?
そりゃ迷惑を被った人は、大勢いるでしょう。有名人は、それなりのモラルがなければ、スポンサーがつかなくなってしまう。今も昔も、芸能人にとってスポンサーが命だろうし、だからこそいろいろなことを「自重」しなさい、といわれるのだろうし、その昔「普通の女の子に戻ります」なんてセリフが生まれたのだろう。けれども今回の事件はパパラッチの報道に似て、本当に視聴者や読者の関心なのか、疑いたくなる。たかだか酔っぱらいが起こした事件でしょ?誰もけがしていないし、警官が取り押さえて保護して、酔いがさめたら説教して釈放すれば済む話でしょ?なんでそうしないのだろう?
もし家宅捜索で薬物が出てきたら、それは大問題。けれども今回は押収されていないという。別の事件で、家宅捜索して薬物が出てきたのとは様子が異なる。そりゃ警官だって、有名人が深夜、ありえないような騒ぎを起こしたら、正気じゃない→薬物使用の疑いありと推測するのは理解できるが、それと実際に捜査するのとは、ちょっと違うのではないか?
別の有名人が、「私は女性だから外で脱がないけれども、(飲みすぎには)気をつけなきゃいけませんね」という趣旨の発言をして、これもリリースされているが、もしそんなことが起こったら、そっちのほうが夕刊紙をはじめとして男性誌がこぞって大騒ぎだろう。逆にいえば、今回素っ裸になった現場に一般人がいなかった(らしい)ことは不幸中の幸いかもしれない。とりあえず名誉は守られている、ということなのだろうから。
世間には、いろいろな酒癖の人がいるが、記憶が飛ぶ人にはくれぐれも用心したい。巻き込まれるから。相手がきれいな、素敵な女性なら巻き込まれてみたい、と思うかもしれないけど。

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めくそ、はなくそを笑う

めずらしく二日続けて友人と飲みに行った。不況の折、どうしても話はしんみりしがちであるが、それ以上に限られたビジネスチャンスにきわめて多くの同業者が群がっている様子が明らかになり、本当にそんなことに集中して飯が食えると思っているの?と感じてしまった。
猫も杓子も、といえば馬鹿の一つ覚えみたいになってしまうが、倒産した会社にハイエナのように群がって、金融機関が担保価値の切り下げをするのを待っている。当たり前のことだが、マーケット価値以上に貸し込みしてしまった金融機関は早く損切りして、次のビジネスチャンスに向けて再スタートを切ったほうが得策なのだろうが、必ずしもそうでないケースが目立っている。この業界には、「転売屋」と呼ばれる鞘抜きを専門に行う不動産業者がいる。所有者や担保権者が、真の不動産価値を知らないことをいいことに、たたき売りされた不動産を仕入れ、それをあっという間にエンドユーザーやエンド投資家へ転売する人たちだ。少し前まで、(上昇局面で)極めて羽振りが良かった人たちが、今度はハイエナよろしく、倒産会社に群がって、たたき売りされるエサを待っている。こんな業者にみすみす利益をくれてやるほど、金融機関も馬鹿ではあるまい。いや、そこまで馬鹿であってほしくない。
転売は、なにひとつあらたな価値を生まない。そこにあるのは情報格差だけ。同じ不動産にいくつもの値段がついて流通する状況は、当たり前といえば当たり前。欲しいと思う人にとっては、いくらだしてもほしいものになるだろうし、投資目的なら資金調達能力や期待利益率次第で、割引率に差が出てしまう。そんな当たり前のことが、一部の金融機関融資担当者にはわかっていないらしい。価値のあるものも、ないものも一緒の担保価値変動をすると思いたがっている。いや、そのほうが上司や審査担当部署に説明しやすいからかもしれない。失敗は失敗で認めたほうが、次のビジネスチャンスをえやすいだろうに、金融機関には、あまりこの発想はなさそうだ。
目を転じれば、このくには世界最速で高齢化が進んでいるといわれているのに、相変わらずあちこちで再開発の大合唱。地方自治体の首長が、高速道路いらない、新幹線駅いらない、借金を地方に押し付けるな、と言い始めているのに、その地方都市で駅前区画整理事業や再開発事業を、「計画経済のように」粛々と行っている。そして出来上がった再開発ビルには閑古鳥が鳴いているものすらある。この国でディベロッパーと呼ばれる仕事がたくさんあったのは、人口が増えていて、経済のパイがどんどん大きくなるという拡大成長マクロ経済があったからこそ成り立っているのであって、移民は受け入れません、少子化対策には及び腰です、景気対策のため箱ものをじゃんじゃん作りましょう、借金は次世代が払ってくれます、という状態で誰がその作られた箱ものを使うのだろう?マンションでもオフィスでもリテールでも、少子高齢化が進めばスクラップアンドビルドなどと「贅沢」なことを言っていられなくなるのではないか?あるものを使いまわして使う。そうなるのではないか。
税金は、国民が生み出す付加価値の総量に依存しているものだから、生み出す付加価値の総量が減ってしまえば、減収にならざるをえない。デベロッパーは、そういう危機感を持っていただろうか?第二次ベビーブーム世代がマイホームを取得してしまうと、その後の世代では売上がじり貧になる。それは人口統計をみればあきらか。にもかかわらず、営々とモノづくりを続けているディベロッパーは、時代おくれかもしれない。
ディベロッパーは決してメーカになってはいけないと強く思う。プロデューサーであり、アレンジャーとして、経済合理性を追求するプレーヤーとして景気がいい時に登場するパートタイムな業種でなければならない。しかもその登場場面は、経済が成熟すればするほど、社会が硬直的になればなるほど減っていくのではないか。なぜなら壊すことの経済合理性が日に日に合わなくなるはずだから。
不動産業に身をおいて、しかもディベロッパーに身をおいて学んだことが、「この業界には未来がないかもしれない」とは、どうにもシニカルだ。大手ディベロッパーに、まちづくりの担い手として意気揚々と就職していく新人さんたちには、ひょっとしたらどこ吹く風なのかもしれない。それでもかまわないが、では自分たちが作っているものが、社会全体にとって50年後100年後も有意義な存在価値を有していると自信を持って言えるかどうか、冷静に考えてみてほしい。未来において、かつての江戸や大坂のような、ひとのくらしが息づくまちの、一部を形作っているかどうか、考えてみてほしい。もしかしたら違う選択肢があるのにもかかわらず、「いま」のために違う選択をしていないだろうか。
ディベロッパーは、ようやく淘汰の時期を迎えたのではないかと、ひとり思う。

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不動産はどこまで値下がりするの?

会社で、週刊誌の見出しを指さしながら、「いったいどこまで不動産は値下がりするんでしょうかね」と後輩に聞かれ、「そりゃ買える人が現れるまで続くでしょ。たとえばマンションなら、一戸3,500万円とか4,200万円で買えるようになったら、首都圏でかつ通勤圏なら買わないかい?収益ビルでも利回り10%とれるなら、買わないかい?いまはローンがつかないから、レバレッジが効かなくて不動産価格が暴落しているけど、普通にローンがつくようになりさえすれば、5~7%、8%で不動産が売れるようになると僕は思うよ。」と答えた。
実際、そうなんだろうと思っている。首都圏で利回り10%で立地が良くて・・・などという現状認識をもった首都圏以外の不動産投資家をたまに耳にする。ちょっと常識があれば、そういう物件もあるけれども、たいていは競争力に乏しい問題物件の場合が多い。もしくはシングルテナントで用途が特殊なものとか。転用が利かない不動産は、その分のリスクウェイトが加算されて利回りが高くなる。にしても、高額投資商品としての不動産が、しかも債券や株に比べて流動性の劣る不動産が流通するためには、不動産の証券化や流動化が必要であり、かつリスクに見合ったリターンがなければならない。それをすべてインカムリターンで賄うのは至難の業としても、少なくとも縮小経済下でさえも安定した賃料収入が見込まれるような競争力のある不動産は、他の投資商品との代替性において、値段がつくはずだ。あとはローンがつかないがゆえに、価格が下がっているだけ。不動産投資家特有の資金調達構造がわかっていれば、値下がりしたからと言って不動産融資を絞るほど単純な融資戦略を取らないはずだが、そこは金融機関特有の「基準」があって、その基準のもとに不良債権が査定される仕組みになっているから、仕方ないのだろう。そもそもアモチ(期限内分割弁済条件)を組んで融資するべきものまで、バルーン方式で期限一括弁済融資をしてきたから、傷口が深くなっている。また不動産価格が他の金融商品と連動して、上がったり下がったりする現実を、誰が冷静に分析していただろう。中庸であることを、ほとんどのプレーヤーが美徳だとは認識していなかった。そこにそもそもの誤りがある。
不動産が金融商品になったことで、価格の変動率、ボラティリティは高まったのかもしれない。それは現実の金利変動に加えて、不動産特有の「期待」が作用して、より大きな振幅を生んでいるようにも見える。ただそうはいっても、いつの時代にも実需は必ず存在して、その価格水準は合理的に算定可能なはずだと私は考える。変動の幅が大きくなればなるほど、その中庸値の存在価値はぞんざいになりがちだが、それはそれで必要なのではないか?少なくとも中長期の不動産投資分析では、中庸値の把握が不況期における事業の傷を浅くするはずである。
ゴールドマンサックスの四半期決算が好調だったそうで、増資を実施して公的資金を返済すると報じている。不動産金融市場にお金が回ってきたら、たとえ邦銀の融資姿勢が変わらなくても、不動産市況は好転するはずだ。そうなったとき、馬の尻に乗るような融資の回収姿勢を見せる銀行がもしあったならば、そこはすでに儲けのチャンスを自ら放棄しているに等しい。買い手にローンが出せるかどうか、冷静に判断するほうが、不動産ビジネスに対する融資ではもうかるはず。不動産は値下がりする。他方、不動産は値上がりもする。その前提で、他のプレーヤーをいかに出し抜いて、自らの優位なポジションを築くか、ここは金融機関の腕の見せどころかもしれない。

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ジニアス東京

さっきまで友人に誘われて、ジニアス東京にいた。およそわたしに似つかわしくない異空間。ミラーボールと回転するスポット照明が勝手に気分を高揚させる。入店が夜八時前、それから賑やかになるまでおよそ二時間、ひたすら待ちぼうけ。値段が違うとはいえ、時は金なりと思わないひとが多いのだろう。キャバクラを経験すると、タイムチャージで満足を換算するくせがつく。だから効率が悪いナンパに余計に興味がなくなる。勝率の悪い勝負はしない。かつあえて勝率の悪い勝負を挑む価値があるひとも少ない。連れに出会えたのは偶然。ときどき神様はこういういたずらをする。
友人がナンパに忙しいころ、わたしは光に参っていた。ポケモンで一時期話題になった、フラッシュする光線に目が回って来た。ふと横をみると、前のカミさんのような、清楚で凛としたおとなしげの女性が休んでいる。とっさに身構え、後退りした。そのひとが恐いんじゃない、フラッシュバックがくるのを恐れただけ。
職場で同僚相手に意地の悪い、恐喝まがいのおどし文句をつきつけて、仕事をやらせようとした、居心地の悪さが、前のカミさんに似た女性を目にして混乱を巻き起こした。僕はいったいなにをやっているんだろう?
たぶんフラッシュバックは、辛い経験をしたことがあるひとしか共感も理解もできまい。もう忘れたつもりがひとあたまをもたげて、暴れ出す。僕は、もう壊れたままなのかもしれない。
連れがいない週末、あれやこれや予定たてても、ぽっかりなにかが空白なのは、不器用だからだろうか。渡辺淳一氏の「欲情の作法」には二股どころか三股、四股の薦めを書いているが、とても実践できない。どうしても連れの顔がちらつく。よくいえば一途、悪くいえばストーカー予備軍。
ともあれ次にここへくるのは、当分さきになるだろう。

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歯科矯正 リテーナーの悩み

第二フェーズに突入した歯科矯正で使用するリテーナーは、入歯のようにつけたり外したりすることのできる器具である。今朝、ふとリテーナーを取り付けようとして、あまりの臭さにリテーナーを遠ざけてしまった。
矯正歯科医の指導通り、毎日一回リテーナーの専用洗剤による洗浄を怠ったことはない。それどころか歯磨きのたびに、リテーナーを水洗いし、決して清潔ではない口の中にある器具をなんとか清潔に保とうと努力している。にもかかわらず、なんともいえないいやなにおいが鼻をついた。これが、入れ歯をしている人が感じるにおいなのだろうか。
ワイヤーのついたブリッジを外したのち、最初の一年間はなるべく長い時間、リテーナーを使ってくださいと矯正歯科医に言われている。ところが昨今は花見のシーズン。花見で飲み食いすれば、当然長時間にわたってリテーナーを外していることになる。また飲み食いした後に歯磨きをするような場所はおよそ存在しない。私のように、夕食はほぼ外食の生活をしていると、また今シーズンのように花見シーズンが長く、あちこち参加していると、いつのまにかリテーナーをしている時間が短くなる。こんなことで、ワイヤーで強制した歯並びが元に戻ってしまったら、と考えると気が気ではない。にもかかわらず、リテーナーが臭うとは!
次回、矯正歯科医の予定日に、どうすればよいか相談しよう。それまではともかく、リテーナーをまめに洗うこと。あとは口臭予防のうがいだろうか。

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だれにも会いたくない

デートの予定がなくなってよかったのかもしれない。ほとんど働いていないはずなのに、心底くたびれきっている。いまはだれにも会いたくない。ひとりになりたい。
情報が共有されないことから発生するストレスと、情報が知らされないことからくる二度手間三度手間の疲れと。さらにいえば穏やかでない職場環境と。サイドブレーキが目一杯引かれているのに、アクセルふかして進もうとしている状況に似ている。決まっていることがオープンにされない。決まっていないはずのことが、いつのまにか「前提条件」になって物事が進んでいる。それぞれが我田引水を企んでいて、大儀も理念もモラルもない。この状況がもし続くなら、自分を守るために監督委員直訴しか方法がなくなってしまうだろう。いまは「良識」のもとに物事が動くよう、願い信じることしかできない。ひとつの例外なく、公平かつ公正に、従って情にほだされることなく、ときに冷徹になりつつ仕事を進めなければならないだろう。それがわかっているから、周りはあの手この手でマインドコントロールをかけようとする。冗談じゃない!僕は僕の良心に従う。経営者や上司に異義を唱えずに日々を安穏と過ごして来てしまったがために倒産のウキメにあっているのに、おかしいと思うことをおかしいと指摘してなにが悪いというのだろう。みんながしあわせになるなら、考える余地もあるかもしれない。しかし誰かひとりないしごく小数のステークホルダーだけがハッピーになる選択はまっぴらごめん。いいことも悪いことも、全部正直にオープンにしなければいけないでしょ。
こうやってこころが壊れていくのかな、と思うとちょっと悲しい。が、自虐的になるために選んだ道ではないので、乗り切ることを考えよう。そうだ、こういうときはあしたのデートのことでも考えよう。

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しゃべらないということ

昨晩、おねしょをした。
一瞬、なにが起こったか理解できなかったが、過去の記憶と起きたそのときの状況から判断すると、そうとしか考えられない状態になっている。どうして?疑問が山のように沸いて来るが答えはでない。唯一の手懸かりは、ひとがなかなか引き受けない仕事をしようとしているということ。
しばらく会社に残って清算業務をするということは同業他社に転職したOBOGからの圧力に負けないことであり、また時として元上司や取締役とも利益相反することがあるかもしれないということに等しい。不動産業でこれだけの不況で、それぞれ生きることに必死なのだから、当然あらんかぎりの「圧力」が発生する。それはときに人事であったり嫌がらせであったりするのだろう。すでにいくつかの場面で(脅迫に近い)外堀を埋められた状態になっている。おそらく監督委員はその内情を知らないのだろう。誰がどこまでなにをどんなスケジュールで調整しているのか、誰も手付かずなら自分はなにをいつまでにどんな状態にしておかなければならないのか、そんなことでさえ情報が共有されず、コントロールが不能になっている。現場に情報が降りてこない。降りてこないから、指示待ちでいいやなどと、のんびり構えていられる状況ではないはずで、試行錯誤しながら自己責任で歩伏前進することになる。なんだかバカバカしくもなるが、そうもいっていられない。このまま指示待ちが続けば、必ずあとで困る日がくる。どうしてこんなに日和見主義者が多いのだろう。会社がおかしくなった大きな原因のひとつは、この当事者意識の欠如かもしれない。わたしは勤め人で経営者ではありません、雇用契約に従って給料分は働きますが、経営には一切関心をもたず、いわれたことを忠実に実行します。こんな社員ばかりでは経営感覚の共有ができるはずがない。そしてイエスマンばかりが重宝される。。。
これからやろうとしていることは、うまくいこうとうまくいかまいと、誰から評価されるものではない。むしろ深くドロドロした「汚いもの」といやがおうでも向き合うことになる。不安も多い。けれども成し遂げたら、一回り人間が大きくなっているんじゃないかと思う。誰が味方になってくれるのかすらわからないなかで、しゃべらない訓練が当面は必要みたいだ。

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歯科矯正 第二フェーズへ

二年半かかって、ようやく歯科矯正のブリッジが外された。「いよいよですね」と受付でも言われ、また担当矯正医にも「外れると、かなり新鮮な驚きがありますよ」と言われて診察台につく。口を開けて五分ほどだろうか、処置をしたかと思うと、矯正医から「もうすべてはずれました」と声がかかった。なんだか口の中がゴワゴワする。なによりうどんやラーメンを食べたときの麺のかたまりが前歯と上唇の間に残っているような、変な感触がする。なんだろう、どういうことだ?もっとすっきり感を期待していたのに、この違和感は何だ?「これからクリーニングしていきますので、しばらくお待ちくださいね」そういって矯正医は、歯科医が通常の治療で使うような器具で、丁寧にブリッジを歯につけていた、接着剤のかすを取り除いていった。器具をとるのは一瞬だったが、この接着剤のかすを取り始めてからが長かった。およそ一時間、診察台の上で口を開いたり閉じたりを繰り返し、しだいに苦しくなる。関心をそらすために(?)、スレンダーな女性の矯正医の、おそらくは小ぶりなバストがあたまに密着するほうに、意識をわざと集中させていた。こういう仕事をしていると、顧客の頭が胸の谷間部分に密着してしまうのは仕方のないことなのだろうが、エッチなおじさんはちょっとうれしくなる。そんなことで一時間以上我慢していられるのだから、本能のなせる技もまんざらではない(たんたる言い訳)。
およそ一時間半かかって、クリーニングが終了した後、歯並びの写真撮影やその後の治療で使用するリテーナーの使用方法を教わった。リテーナーは、ブリッジを取り外した後で、まだ動こうとする歯をきちんと歯茎の中に安定させるために使用する、入れ歯のような器具。そして入れ歯のように、手入れをするものらしい。いろいろ説明を受けたが、その際クリーニングキットを矯正歯科医で購入して帰るはずが、すっかり忘れて帰宅してしまった。よってクリーニングキットが手に入るまでは、しばらく歯磨きのみ。最初のうちは食事時以外は原則としてすべての時間、つけておいてほしいといわれる。一年半ぐらいすると、夜だけの使用でよいようになるらしい。下の歯には、歯の裏側から前歯の部分だけ固定の小さなブリッジがついている。これも安定するまでつけておくらしい。
ともあれこれで、歯科矯正は、第二フェーズにめでたく移行した。なによりこれでキスが楽しめるようになる。ブリッジがとれたあとの初キスは、連れとしたいが、そうなるかどうか。いま関係が微妙だけに、ちょっと期待が薄い。ひとりでできる楽しみとして、和菓子屋でお団子を食べた。ブリッジがついているときは、おもちの飲食を止められていたが、なにも気にせずに食べられる、この喜び。やはりここまで我慢した甲斐があった。
歯並びが良くなったことで、具体的になにかが良くなった、という実感は残念ながらない。変わったのは、消化がよくなったせいか、年末から今年にかけて、同じ量しか食べていないはずなのに、ぶくぶくと太り始めたことぐらい。もてるようになったわけでもなく、かっこよくなったと自他共に認められるような、そんな変化はない。
費用対効果でいえば、まだ費用のほうが上回っているような気がする。まだカウントされていない効果は、これからの虫歯治療がすくなることに対する期待だろうか。ああ、連れとキスできなくても、もしおねえさまとキスできたら、それで元が取れるかな。そのおねえさまも、もうすぐご退職らしいけどね。すぐ損得勘定で考えてしまうあたり、せこい人間になったもんだ。

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ムハマド・ユヌス氏来日記念講演

六本木ヒルズで開かれた、ムハマド・ユヌス博士来日記念セミナーに参加してきた。開演10分前に到着したが、大勢の聴衆であふれていた。それだけソーシャルビジネスへの関心が高いということだろうか。

ユヌス博士は、これまでの資本主義の概念が一義的であり、資本主義とは利益の極大化だけを追求するとい言われてきたが、人間とは利益の極大化だけを求めるものではなく、無私の心、すなわち利己とともに利他の精神を持っている、だからこそソーシャルビジネスが必要だと説く。ビジネスである以上、赤字では事業が継続できないから、当然黒字でなければならないが、それは利益配当を目的とするのではなく、より多くのひとが幸せになることが目標であり、そう願っている人も実際に多く存在する。
自然災害などにより一時的にチャリティーが必要な場合もあるが、チャリティーに頼らずに生活を自立できる状態に持っていくことが必要であり、それがソーシャルビジネスが必要な理由だという。
個人の有り余る能力を信じており、自らの職を求めるのではなく、自らの職を作り出す、さらに言えば、たくさんの人がより多くの人の雇用を生む出すような、そういう仕組みを世界中で作り上げることが、これまでの資本主義をさらに発展させ、(世界)経済をたくさんのエンジンが引っ張るような、多元的な仕組みができあがるはずである。自己責任のルールを徹底するためには、政府の役割は限定的でかまわず、民間の融資として自立を促す仕組みのほうが適している。なにより個人は、いますぐ行動することができる、というアドバンテージを持っている。進むこともやめることも、政府よりもはるかに自由度高く実施することができる。だからこそ民間の仕組みが重要なんだ、という。
動物はつねに飢餓状態にあるが、人間はもっと豊かであり、改善する能力がある。正しい世の中にするために、世界に貢献する人が増えれば、たとえば「2015年までに貧困層を半減させる」という国際目標をさらに進めて、貧困という言葉を博物館でしか実感できない世の中にすることだってできるだろう、と締めくくった。

さすがノーベル平和賞を受賞するだけの、行動力、説得力のある方の言葉だけある。オバマ氏の演説集とともに、こちらもCDやDVDで広く多くのひとに知ってもらいたい。
とともに、十年後のわたしがなにをしているだろうか、という問いへの重要なヒントをもらったような気がする。人が働く目的は、だれかほかの人を助ける、喜んでもらうことであり、その対価として金銭という報酬をもらっているにすぎない。同趣旨の発言を、内田樹氏も著書でされている。おそらく賛成する人は多いはずだ。にも関わらず、年収1000万円だ、いや2000万円だと騒ぐのは、その労働が誰のどんな役に立っているのか、誰がその労働によって喜んでくれているのか、わかりにくくなっているためではなかろうか?それは株主のためかもしれないし、取引先のためかもしれない。会社のためかもしれないし、国のためかもしれない。しかし顔の見える誰か、ではないのかもしれない。少なくともわたしは、数億十数億の利益をディールのDONEで成功させても、顔の見える誰かの喜びは実感できなかった。いったい誰のために、利益を積み上げているのか、自己増殖する資本主義の「暴力」が怖いと何度も感じた。だからこそ、人のために働く、人の喜びのために働く、という大義名分が心に響く。そうか、ビジネスはじぶんで考えないと、世の中が変わっていかないんだ!

とはいっても起業の成功率がこの日本ではあまりにも低いことが知られている。よく失敗例を研究して、「なにか」を達成できる、この世に生を受けたことを誇れるような、そんな生き方をしてみたいと改めて思う。

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それってどうよ?

連れがデート中に、「こんど、プライベートでおとこともだちと海外旅行に行くんだ」と、のたまわった。はい~?「部屋別々だし~おとことおんなの関係なんかめんどくさいし~海外旅行したいなあ、と思っている時だったから~あなた、平日やすみとれないでしょお?」
どこまでも腹が立つことをシャアシャアとぬかす姿に、席立ってそのまま帰ろうかと思ったが、思い直し、さも面白くない旨だけを伝えた。すると「だってえ、男と女の関係って振られたり振ったりめんどくさいし、わたし嫌だ!。けど遊びなれた人は、おとことおんなの関係とかじゃなくて、ひとりでいくより二人で行くほうが楽しいからって、連れて行ってくれるの。部屋も別々だし。そうじゃなきゃ私、いかないから。」どんだけ、タカビなんだ、このアマは。そしてどんだけ、ひとの神経を逆なでするんだろう?
こっちは明日の仕事もままならない、倒産した企業の一社員でしかないのに、大金持ちの資産家や高額所得者と比較されても、それは無理ってものでしょう。「行きたいなら、勝手に行けば?そのかわり今後一切僕にかかわらないでね」とっさにその一言が出てこなかったことを悔やむ。それは許容限度を超えている。
仕事で泊りになるのは、仕方があるまい。海外だろうが沖縄だろうが、一週間を超えようが一カ月になろうが、そういうこともあるだろう。ただ堂々とプライベートでいわゆるオジサンと遊びに行ってきまーす、というのはいくらバカOLでもそうそういるまい。親が泣くぞ!

止めてほしくてわざといっているなら、それこそこっちが面倒くさい。なんだってそんなことをこっちがしなきゃいけないんだろうか。こういうのをジョーシキというのは、オジサンなんだろうか?この娘の父親に言ってやりたい。あなた、育て方間違えてますよ。

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定額給付金と消費税増税の関係

「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌著 集英社インターナショナル刊を読んでいたら、著者は消費税増税に伴う(低額所得者への)逆進性の解消方法として、還付金付き消費税を提唱されている。ベーシックインカムの考え方に基づいて、「自分では何の労働もしないフリーライダーが現れてモラルハザードが起こる」かもしれないなど問題点を指摘しつつ、「日本が希望なき貧困大国から脱することが何より優先されるべき政策課題」であると論じている。

ここで想起されたのは、さきごろなかば無理やり国会を通過した「定額給付金」の話。
総理がもらうとかもらわないとか、地方自治体の給付事務に大きな負担を強いるとか、いろいろ問題が山積みであったが、早くも支給が決まった自治体がでてきた。さすが行政大国日本!優秀なスタッフを抱える日本の行政システムにできない制度なんかないんじゃなかろうか、というぐらいみごとに対応している。(省庁によって違うのかもしれませんが・・・)

国民一人ひとりに消費税の還付をするなんてこっとう無形な芸当が、案外簡単にできちゃうのかな、と定額給付金の「給付」をめぐる事務をみていると思えてしまう。ひょっとして還付金付き消費税の導入が既定路線で、今回定額給付金を行ったのは、予行演習だったりして。それもすごい話だなあ。

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泣きたい日

そとは雪が降っている。明日の朝は、もう雨に変わるらしい。今年の冬は暖かかった。その冬もひなまつりを過ぎると、春に向かっていく。春、春なんだなあ。

原則として、年度末で社員は解雇のため、、多くの社員が退職通知をそのひと月前である先月末に受け取ったと聞いた。そのせいか出社してきている社員が半減した。社員の外出先を記すホワイトボードは記載されないまま、その役目を終えようとしている。管理職も平社員も関係なく、転職サイトの閲覧を会社で行っている。「いやあ、このあいだ××受けたけれども、落ちちゃいました!」それがあいさつ代わりになるぐらい、あっけからんと職場を去ろうとしている人たちもいる。みな、思いはそれぞれあって、解雇という現実をなんとか受け入れようとしている。

他方、会社を清算するためには、会社の保有するさまざまな不動産を売却する準備をしておかなくてはならない。こんな状態の時にだれもやりたくないだろう。もしかしたら清算会社に残るかもな、と自主的に準備を始める。「そんなこと、清算会社に行くと決まってからやればいいじゃん」という人もいあるが、なにもしない時間が苦痛であり、先を見越して仕事することに抵抗がないので、気にせずにコツコツ進める。

これまでいっしょにがんばってきた仲間の気持ちがすでにバラバラになっている。つなぎとめることもできない。こんな夜はただ一人、やさしい涙を浮かべながら、過ぎゆく思い出を見送りたい。

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解雇通知

社会人として働き始めて、初めて解雇通知をもらう。営業譲渡を受ける新会社の選に漏れたので、まったくの裏付けなく清算会社の人選を待つことになった。雇用契約は三月末で切れるので、残すところひとつきの命。
先日はあやうく住宅を失うところだった。しかも同僚が、売却活動の妨げになるから、と自社賃貸住宅に住む私に退去を迫る。じょうだんじゃない、とっさに身構えて根回しを始め、事なきを得ることになりそうだが、身内に裏切られるとはこういうことをいうのだろう。
新会社の不合格通知を内々に知らされていた私は、早々に会社を後にした。さすがになにも手に付かない。その状態で会社にいても、仕方ないだろう。特に見たいものがあるでもなく、近所にあった美術館で絵画を眺めながらこころを落ち着かせ、その後は前の会社の先輩と合流してしんみり飲む。お店のほかのお客さんにまで、励まされてしまった。「ぴしっとやれ、ぴっしっと!」というよくわからない、根拠の乏しい励ましが嬉しかった。
後輩が、「こういうときに彼女なしでひとりでいるのはつらいんですよね」とかつて呟いていた。よくわかる。でもね、女性でも不合格だった人もいるんだよ。しかもいま借りている住宅に退去予告出しちゃったから、職だけじゃなくて住む所まで失うかもしれないんだよ。
勤務先が民事再生を申し立てていて、まだ債権者集会が開かれていない、不確定な状態です、といったらどこの大家さんも貸すのを嫌がるだろう。冷静に私が大家でも、手放しで貸すことはとてもできない。他方、住む所を失う人は大勢生まれているはず。ホームレスで家族がいたら、と考えるとぞっとする。そしてそれが起こりうることにもぞっとする。
REITやファンドが賃貸住宅の大家になったがばかりに、マニュアルで対応できない「人間味のある対応」はできにくくなっているのかもしれない。「就職したら、家賃全額払ってね。それまでは払えるだけでいいよ」とか「ほんとうは敷金積み増ししてほしいところだけど、そのままでいいから、家賃ちゃんと払ってね」とか。個人の大家さんが所有している物件でも、管理会社がマニュアル対応すれば同じ事が起こる。「非」熟練労働者が複雑な仕事を大量に行おうとすれば、こんな些細なことでも対応できずにマニュアルどおり対応せざるをえない。恐るべし。そして誰も責任をとりたがらないから、単なるマニュアルが金科玉条に作用する。応用、効かないんだよね。できるひと、責任を引き受ける人が減っちゃった。
経営者の最大の仕事は、会社をつぶさないこと、といっている経営者がいるらしい。取引先や従業員から見たら、そうでしょうね。けれどもそれは、会社がつぶれないことであって、従業員を解雇しないことではないですよね?会社をつぶさない、かつ従業員を解雇しない、となるとワークシェアリングですか?とか、小回りの利く小さな会社ですか、とか考えてしまう。会社が生産する付加価値以上に労働分配することは不可能だから。低すぎる労働分配率は問題だけれども、高すぎても会社は拡大再生産できなくなる。拡大再生産という言葉が不適切あれば、会社を維持していくための将来に対する投資ができなくなってしまう。だから経営者の使命は、付加価値を生み出し続けるようにするにはどうすればいいか、を考えて実践させることじゃなかろうか?中間管理職や現場レベルで、その意識が共有できていたら、そうとう強い会社になるのだろう。
解雇通知をもらうに際して、こんなことを考える。「資格取っても、100年に一度の不況には無力なら、100年に一度の不況でもつぶれない会社をじぶんで作るしかないですね。じぶんひとりでできるわけがないから、しっかり仲間をつくって、営業基盤もつくって、足元しっかり固めてからすすめなきゃいかんですね。そうすりゃ十年ごとに訪れている、勤務先の危機も日常になるだろうから、あまり気にしなくてよくなるかも。」少しは根性ついたかな。

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会社を倒産させたら

最近、夕刊紙や雑誌の吊り革広告などで、倒産した会社の役員が豪邸に住んでいるのは、けしからんというニュアンスのタイトルを目にすることが増えた。庶民感情はそうなんだろうが、果たして倒産した会社の役員は、私財を投げ売って会社の借金を返済するべき、という風潮にそのまま与していいのだろうか?
会社の経営は誰でもできるものではない。所々の条件に恵まれた一部のひとが経営者になる資質を持っている、または掴むことができる。経営者のだれもが私利私欲を肥やそうとしているわけではなく、むしろその逆にいかに会社の経営を安定的に継続するかを考えているひとのほうが多いのではないか?会社のこと社員のことを考えつつ、他方自らの担うべき役割を果たすために、高額所得者のコミュニティに属したり、トップセールスしたりする手段として、豪邸に住んだり高級車に乗ったりしているのかもしれない。なにより収入がなければ、それらのものを維持することも、ままならなくなるはずである。昔築いた財産で食べているひとは大勢いて、たまたま存命中にまたは在任中に、経営がうまくいかなくなったとしても、過去の努力や業績に遡って責任を負わせるのは、あまりにも酷である。それでは経営者のなり手がいなくなるか、どこぞの大企業のように、官僚主義が蔓延るのを回避できなくなる。
言うまでもないが、その報酬が不当に会社の利益や従業員、株主の権利を侵害するものである場合まで、保護する必要はない。あくまでも経営者として十二分に善管注意義務を果たしている前提での話である。
海外では経営者の高額所得を巡って、所得制限を行うべきとの意見もあるようだが、日本ではほどほどにしておかないと、ますます大企業の寡占化が進むだけではないか、と危惧される。

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本当に不況なの?

勤務先が民事再生を申請して、まだどうなるかわからない状態だというのに、ともだちと居酒屋で飲んでいる。居酒屋は大勢のお客さんでにぎわっている。店員は、23時閉店です、とお客の帰宅を促す。居酒屋を出ても、道にはサラリーマンと思しき酔っ払いおやじがたくさん。いったいこの姿のどこが、不況だというのだろう?百年に一度の不況だというのだろう?
大企業の業績悪化が連日のように伝えられ、ネットの記事によれば、勤務先の与信に関する審査が厳しくて住宅ローンを借りられない人が増えているとさえいわれている。みなさん、あの会社は大丈夫だろうかと疑心暗鬼になっている。つぶれてしまった私たちの会社でさえ、その後債権回収をするために取引先に内容証明郵便を送ったり、入金してもらうための督促したりしているが、それでも取りはぐれる不良債権が発生している。倒産した会社の債権だから、支払いが劣後になっているとか、そういう問題じゃないだろう。
それでも浮浪者が増えたとか、デモが起こるとか、そういう状態じゃない。つまり日本は、まだまだ豊かだ、といういいかげんなまとめ方をしてもいいのだろうか?
日本の国が、いくら借金しても日本国民と日本企業との純資産をあわせると、日本のくに全体では、まだ資産超過だという話を聞いたことがある。蓄えた貯金が、日本を豊かにしているのか?いや、身の程を知って消費をする国民性が、どこかの国のような、破滅的な崩壊を回避したのかもしれない。
残念なのは、外国からの労働者にしろパートタイム従業員にしろ、雇用の不安定な職場を選ばざるを得なかった人たちに対して、日本の雇用主は冷たくならざるをえないこと。日本は、どこまでも日本人の国、閉鎖的な鎖国の国、と言われかねない。世界第二位のGDPは、この世界経済の混乱状態で、いったいどのように生かされるのだろうか?
脈絡のない文章をつづりながら、それでもなお、明日失職するかもしれない状況に実感がわいてこない。

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MIXIからの迷惑メール(2)

プロフィールを最も公開性の低い状態にして、可能な限り外部との接触を図らないようにMIXIとお付き合いしてきましたが、また忘れた頃に迷惑メールがやってきた。
今回のメールは、言葉巧みにMIXI外へ誘導しようとするもの。まあ、あの手この手とよく考えます。それにしてもこのメールを送ってくる人たちは、どうやってMIXIの登録情報を盗むのだろう?私はコンピューターに詳しくないのでわからないけれども、サーバーから個人情報を盗むのは簡単にできてしまうのだろうか?MIXIは、それについてどのように考えているのだろう?こんな荒れたコミュニティで、MIXI人気を保てるのだろうか?わたしはMIXIの株主でも従業員でも取引先でもないので、MIXIの評価が上がろうが下がろうが関係ありませんが、わたしのように、こういうことに不快感を感じる人は、他にもいるだろうなあ。ちゃんと対策を練ったほうがよろしくないでしょうか、笠原様。

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かんぽの宿と不動産鑑定評価:続報

緒方不動産鑑定事務所から、以下のコメントが発表されています。

http://www.ogata-office.co.jp/kampo.html

そうでしょうね。事実誤認の記事が、堂々とまかり通るこのおかしな状況は、本当になんとかしてもらいたいものです。
たかがネットといっても、日刊紙を発行する媒体が掲載すれば、大きな反響を生むでしょうし、また誤解が「事実」として広まってしまう恐れも高くなります。疑いがあることと、クロだ、ということは全く別であり、当事者に事実を公示する機会を与えることもとても重要なことです。
緒方不動産鑑定事務所では、かんぽの宿に関して不動産鑑定評価を受託していない、とコメントは伝えています。当然と言えば当然のことです。利益相反する評価依頼を、それも公的な評価をあえて受けるようなリスクを冒すことを、通常は選択しません。それは評価報酬の問題ではなく、モラルの問題です。

安易に記事を信じたことに反省し、また鑑定評価を引き受けた事務所あるいは鑑定士の方々に対して、日本郵政とよく協議のうえ、鑑定評価の社会的意義に鑑みて、適切な対応をしていただきたく、改めて希望いたします。

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かんぽの宿と鳩山総務相:おまけ

鳩山総務相、テレビでこんなことを言われたそうな。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/222282/

これが本音ですかね。かんぽの宿が民営化されず、現在の郵政事業会社で営業継続されれば、事業収益性うんぬんの議論は封印されたまま、かんぽの宿職員皆様の「票」も当てにでき、また赤字垂れ流しのかんぽの宿を新たに作った上で、郵政事業会社に押し付けることもできる・・・なんて考えてほしくないのですが、与党も野党も、そろって郵政民営化は間違いだったなんて言っているから、つい言いたくなる。

コイズミさん、政治の場に復活か、なんて記事まででてきた。コイズミ後の歴代首相が、その後始末に追われたぐらい、置き土産をいろいろ残して行ってくださったので、政治家の方々には(一部を除いて)もうこりごりと思われているかもしれませんが、そしてその政策のすべてをもろ手をあげて賛成する立場ではありませんが、郵政民営化が「後戻り」するくらいなら、カムバックを許してもいいのかな、とも考えてしまう。

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戯言

どうして夜間診療している医療機関が少ないのだろう?もし夜間診療している医療機関が、たとえばエキナカとかターミナル駅周辺にあったら、救急車のコンビニエンス利用は、少しは減るのではないだろうか?あるいは救急病院への時間外診療への負担も減るのではなかろうか?
それは夜間診療しても診療報酬が同じだからだろうか?だとしたら、なぜ夜間診療にエクストラチャージを認めないのだろうか?標準報酬制度とは別途、保険外診療報酬として治療者からもらえば済む話ではないだろうか?それは混合診療になるから?では、それは診療報酬ではなく、医師への時間外手当です、としたらどうなるのか?
東京都では、23区以外でも児童への医療費無料化を検討しているという。それに対して医師会は、医療のコンビニエンス化がますます進む懸念があるという意見もあるそうだ。どうして医者は、患者あるいは患者の親に対して、「これぐらいの症状は心配しなくても大丈夫ですよ」と教え諭すことを煩わしいと感じるのだろう?いや、親のほうがモンスターペアレント化していて、医師の手におえない、ということなのだろうか?
救急車のコンビニエンス利用を抑制する一つの方法として、産婦人科や小児科で、患者の症状に応じてタクシーチケットを配布したらどうだろうか?医療機関の名前を記載することを利用条件とした、税金で賄われるタクシーチケットが実用化されれば、
(1)救急医療の必要性について、発行した医療機関の一次診療が可能になるかもしれない。
(2)救急車の緊急出動を抑えられると同時に、民間事業であるタクシー業界への需要創出になる。
(3)医療機関名が書かれているから、たとえチケットショップに流れても責任の所在が明確になる。※タクシーチケットには番号が振ってあるから、持ち込みした患者も特定できる。
(4)なにより、少子化対策になる。(かもしれない。)
などの効果が期待できそうだが、どうして誰もやらないのだろう?
ターミナル駅に託児所や夜間診療所を設置させることだって、行政がその気になれば、そんなに難しいことではなかろう。そもそもエキナカやエキチカの店舗には、固定資産税がかからない、といって他の商業営業者との不公平感が取りざたされている。であれば、一定乗降客数以上のターミナル駅にそれらの設置を義務付けることを引き換え条件として、行政運営費用を軽減しつつ、街の「つかいやすさ」「コンビニエンス化」を図ってはどうだろうか?
こんな戯言を後輩と話していたら、「政治家にならないんですか}と言われた。たぶんならないだろう。なぜなら戯言だから。

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かんぽの宿と鑑定評価の条件

昨日の日本経済新聞朝刊に「日本郵政は黒海の付帯決議で雇用維持が義務付けられており、「かんぽの宿」を事業として売却しようとした」と書かれている。確かに国会のHPをみると雇用維持を付帯決議した経緯があるようだ。

http://www.sangiin.go.jp/japanese/gianjoho/old_gaiyo/163/1634123.htm

雇用維持、すなわちかんぽの宿の事業継続を前提とすれば、当然ながら売却に関する不動産鑑定評価の条件として、「事業継続を前提として」という鑑定評価の条件が設定される。その場合、ホテルの鑑定評価に準じて、事業採算性を重視した収益価格ベースの鑑定評価額となることが通常だろう。事業継続前提ということは、その事業からいくら「あがり」があるか、ということと同義なのだから、当然である。しかるに鳩山総務相は、別途鑑定評価を取得することも検討しているという。まさか、鑑定評価の条件を変えて、なにも使用収益を制約する条件のない、不動産としての価格を算定しようとしているのではあるまいか?
そんなことをすれば、当然ながら価格のまったく異なる鑑定評価が出されることだろう。前提条件が異なるのだから当然だ。しかも片方は、国会の付帯決議を前提として評価しているというのだとしたら、どちらが正論か、普通の判断能力があればわかることではないだろうか?
オリックスへの譲渡になんら疑うべきところがなかった、というつもりはない。もしかしたら疑われるに足る事実があるのかもしれない。しかしそれは、「疑念がある」であって、証明されない限りグレーでしかない。はたして、証明できるのだろうか?これだけ長い時間かけていれば、野党やマスコミが具体的な証拠を持ち出してもよさそうなものなのに、だれも言い出さない。それどころか、与党も野党も、郵政民営化は間違いだった、といわんばかりの政治行動をしているようにもみえて、非常に不思議である。
なぜ民営化は間違いなのだろうか?それすら十分な説明がない。景気が悪いから?安定雇用を守るべきだから?いや、本音のところは収益価格を常に上回ってしまう、事業採算性の劣る「かんぽの宿」を公共事業、地方活性化の名目で、新たに作りたいからではなかろうか?選挙のためにかんぽの宿で働く従業員を、甘い汁で引き留めておきたいからではなかろうか?従業員の方々には、大変失礼な物言いで申し訳ないが、政治家の皆さま方は、そんな風な下心があるように見えて、不快だ。
それにしても鑑定評価の条件が異なるのに、不当鑑定だと、もし言われているならば、それこそ不動産の鑑定評価に対する無知としかいいようがない。それは世に言われている不動産の鑑定評価に対する信頼性の低さとは全く次元の異なる、恥さらしでしかない。まさか、そんな幼稚なことをお考えではないかと存じますが、もしお気づきでないのであれば、総務省で再鑑定するのはおやめになったほうがいいと思いますよ、鳩山様。
あ、なにも知らないふりして総務省に営業に行かれていた鑑定士の先生がもしおられたら、どうもすみません。税金を払っている国民の一人として、税金の無駄遣いには賛同できないので、ご容赦くださいませ。

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かんぽの宿と不動産鑑定評価

オリックスの発表

http://www.orix.co.jp/grp/content/090213_realJ.pdf

日本郵政社長の定例インタビュー

http://www.japanpost.jp/publication/2009/0129_001.html

一向に収まる気配のないかんぽの宿問題に対して、不動産鑑定士の不当鑑定を示唆するような記事まで登場してきてしまった。

http://netallica.yahoo.co.jp/news/65904

http://www.asyura2.com/09/senkyo58/msg/1061.html

なんだってこんなことになっているのか、日本郵政の情報開示に対する手際の悪さと、政治家の姑息な追い落し作戦に腹立たしくてならない。緒方不動産鑑定事務所といえば、不動産鑑定業界では知られた大手事務所であり、名門でもある。その所属鑑定士がこんな風に中傷されているとは!
利益相反の疑いがあることには違いないだろう。それが自らの利益または他者の利益を意図的に誘導したものであるかどうかは、鑑定士の書いた不動産鑑定評価書を明らかにする以外に方法はないといっていい。現時点で、だれもその評価書を確認していないのに、さも利益誘導を図っているに違いないとは、なんという報道の暴走だろうか。先日観た「だれも守ってくれない」を思い出させる嫌な光景だ。
これだけたくさんの上場リート評価を不動産鑑定士が担っている以上、はたまた国民の税金を投入してきたかんぽの宿を換金しようとしている以上、不動産鑑定士の社会的責任は従来以上にはるかに重くなっている。だからこそ説明責任が重要視され、何人たりとも不当な鑑定評価等に対する措置の要求ができるようになっている。(不動産の鑑定評価に関する法律第42条)まだ評価書すらみていないのに、結果だけ見て「不当鑑定だ!」というのは、はなはだ理解しえない。過程と結論が、正当な手順と調査に基づきなされているかどうか、まずは国会手続にて明らかにするべきだろう。そうでないならば、情報開示請求すればいい。国民の利益になる前提で、なにがマーケットプライスか、公儀に図ればわかること。
余談だが、いわゆる一括売却、バルクセールをする側には、売却困難な「お荷物物件」を他の優良物件と組み合わせて「引き取ってもらう」というニーズも存在する。かんぽの宿が該当するかどうか、仔細に調査してみないと即答はできないが、相当売却に困難を伴う物件が含まれているのではないかと、リストを見る限り推察される。個別売却をするべきだ、という主張は、一面では正しいが、それはかんぽの宿という事業全体を日本郵政が撤退するという選択をしている条件下では、必ずしも最適解とならない場合も想定される。そうなったときは、売れなかった物件の維持管理費を支払う無駄は、誰が負担するのだろう?

おかしなことがいろいろあるにもかかわらず、どちらかが一方的に悪いような不毛な論調が目立ってきており、非常に気分が悪い。主張をする側も反論する側も、まず足元をみて、オープンな議論をするべきなのじゃないか?揚げ足取りや、隠し事はもうたくさんだ。

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コルテオ

業務を継承する新会社への書類審査応募締切日だというのに、有給休暇を取得してシルクドソレイユ「コルテオ」を観にいった。たくさんの人だかり。平日だというのに、大勢の観客が入場を待っている。ダイハツの販売店に対するツアーだろうか、ダイハツのワッペンをつけた職員らしき方々が多くみられ、またいくつかの地方のプラカードを持った集団がごっそり入場していく。普通乗用車が不景気で売れなくっている一方で、ダイハツのような軽乗用車業者はまだ景気変動の影響をあまり受けていないのか、それともこれから受けるのか。いずれにせよ、冠で招待客になれるのは悪くないだろう。
先日、ゼットを観たのでどうしてもゼットと比較してしまう自分が情けない。コルテオのスタッフはほぼ外国人なのだろう、時折日本語の台詞が入るが、ほぼすべての台詞が日本語でも英語でもない、おそらくはイタリア語かフランス語のセリフであった。そう、ゼットは台詞がほとんどないのに、コルテオは台詞が盛りだくさん。なにかをいろいろな登場人物が話している。が、なにを言っているかはわからない。言葉がわからなくても、動きや前後関係でなんとなくわかるのだが、気になる。これは英語圏の人でも気になるのだろうか?それともただ単に聞き流せばいいのか?
360度見渡せる会場のつくりは、なかなか圧倒される。コルテオは行列、という意味だそうだ。行列のようにシーンが変わるからこそ、この舞台設定ができたのかもしれない。観客は、右から左、左から右へと流れる数々の「行列」に圧倒される。それは夢のようであり、また現実のようでもある。ひとの流れが舞台に自然な躍動感を生む。中世の移動式サーカスを観ているような、そんな錯覚を魅せる。幻想的なゼットとは、味わいがまったく違う。コルテオはエネルギッシュであり、またイルージョンに近い。主観でいえば、より刹那的であり物悲しい。好き嫌いでいえば、ほほえましいゼットのほうが好きだ。あまりにも荒んだ現実にいるせいか、短調のメロディーにココロがついてこないのかもしれない。
いっしょに行った連れは、そんなことはおかまいなしに、会場を出た瞬間から、まったくべつの話題を口にしていた。彼女から感想が口に出ないときは、特に感想について触れない。そんなルールが自然にでるのも、付き合いが長くなったせいだろう。
もう一度みるかなあ?年内はないような気がする。

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それで、あなたは?

仲のいい先輩と久しぶりに飲んで帰ってきた。後輩たちが転職活動をしているさなか、部下のいる中間管理職は、転職活動をするにも手放しで動けるわけではない。あいつ、決まったかな、とか、なにかしてあげられないかな、とか。決してほめられたわけじゃないが、職務経歴書の書き方を指南するような、そんな心境になる。そして中間管理職は、こういう。「ぼくは余裕があるから」「ぼくは大丈夫だから」。前は素直に聞けたこの台詞が、だんだんと腹が立ってくるようになったのは、かつて未上場だったこの会社が、上場するに際してストックオプションを多くの社員に付与し、その恩恵にあずかって経済的にかなり余裕があるのを知っているから。実際、古株社員には数千万円の資産を持っているひとがいる。ふつうのサラリーマンにはありえない金額だろう。わたしは、ストップオプションを一度も行使できず、あっというまに持ち株を無に帰してしまった。さっさと売ればよかった。

それはともかく、その先輩はわたしにいう。「どうして誰もこうなった責任をとらないんだろう?」「どうして誰も経営責任を認めようとしないんだろう?」「どうしてこうなった経緯を説明しないんだろう?」
ごもっともです、とうなづきながら、「あなたも管理職ですよね?あなた自身の責任はどこにあるんですか?どう責任をとるんですか?」と言いかけてやめた。お酒がまずくなる。
けれでも会社の経営がおかしくなったのは、経営者だけの責任とは必ずしも言えないのではないだろうか。たとえば、私の感じる責任は、「上長に安易に迎合した責任」であり、「長いものにまかれた責任」は、どんなにすくなく見積もってもあるだろう。そして会社の経営に直接的な致命傷のひとつとなったであろうディールを、一担当者としてもくもくと仕上げてしまったこと。それが会社のためにならないと合理的に判断したならば、サボタージュする選択もあっただろうに、と後から思う。手を動かす人がいなければ、その選択が間違っていると、もしかしたら認識できたかもしれない。ただ、そのときの評価はガタ落ちするだろうけど。評価基準が、その会社のそのときの経営方針に従って定められている以上、その経営方針が間違っていたら、会社はどん底に向かって真っすぐに勢いよく進んでいかざるをえない。そういう意味で、先輩の言う「目標設定が間違っている」という意見には賛成する。ただ、それは間違っているかどうかを、共有することがまず最初にあって、そもそも共有ができないのであれば、その時点で会社は「終わっている」。社会の一組織として、有意義な役割を期待される資格を失っている。ワンマン経営者を否定しているのではない。「機を見るに敏なり」という当たり前のことをできるかどうか、正確な状況判断、情報収集ができるかどうか、ということが言いたいだけ。ひとは選択を間違えるものであるし、経営者も間違えるのだろう。ただ間違えたときの影響が最小限になるように、リスク分析をふつうはしているのはないだろうか。この会社は、リスク分析すらしていなかった気がする。リスク分析はだれがするのか?現場がしなければ、当然上にはあがっていかない。

まだ五里霧中の状態で、なにを言ってもたわごとでしかない。明日があるとも、ないともわからない。だから、あえて「糾弾」に蓋をしたい。ある個人のとった選択は間違えていたかもしれないが、その個人の全人格が否定されるものではないのだから。

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かんぽの宿と鳩山総務相

かんぽの宿をオリックスに譲渡するに際して、鳩山総務相から物言いがついたとニュースになっている。その後の両者のやり取りをみていると、大変面白いことに気づきます。
今朝か昨日の日本経済新聞で説明しているとおり、かんぽの宿のような完成した宿泊施設をデューディリして、いわゆる価格算定をするとき、いくらかかったかではなく、いくら儲けることができるか、すなわち事業収益性から推定される収益価格で算定されるのが通常です。よっていくらかかったかを考慮して、かんぽの宿を売却する理由はなにもありません。場合によっては、それではまったく買い手がつかないこともありえます。それは、過去に生命保険会社や銀行、事業会社がバルクで売り出した各種保養所が、多くの保養地で、他の別荘と変わらないような破格の値段で取引されている実態をみてもあきらかです。ふつうのひとは、そういう取引の実勢価格は知らないので、つくった値段よりも明らかに安い値段で取引された、と聞けば、不当に利益を得ているように聞こえるでしょうが、必ずしもそういうこととは限りません。
では、なぜ事業収益性が割に合わないのに、建物をつくって事業をおこなうのでしょうか。実はこのことのほうが、この国では多くの問題を生み出しています。ひとつは、かんぽの宿という公共性のために、地域振興という要請を断りきれずにハードを作ってしまった、いわゆる箱モノ行政と同じことが、かんぽの宿で起っているのではないでしょうか。また、公共性という意味では、事業採算性が赤字でも誰も責任を取る必要がなかったこと、そもそも赤字かどうかすら、明らかでなかったこと、それが箱モノを作らせる政治的圧力になっていたのではないでしょうか。儲からないと分かっていて、つくった箱モノは、どんなに箱が立派でも使いようがなければ、単なる造形物でしかありません。失礼ながら、閉鎖した炭鉱の集合住宅と、その必要性において共通の状態です。
鳩山総務相が、その無駄を明らかにすることを意図して、物言いをつけたのだとしたら、政治家として大したものだと思う。他方、いちゃもんをつけられたオリックスや日本郵政は、どうして価格査定の根拠を明らかにしないのだろう。個々のかんぽの宿につけた値段の査定根拠と、日本郵政の自己査定根拠をともに開示すれば、あとは国民が判断できます。利益誘導しているのが、地元にかんぽのやどを作らせた政治家なのか、かんぽの宿を「安値」で引き受けたグループなのか、白黒つけようじゃありませんか。私は、オリックスの肩を持つわけじゃありませんが、経営努力をしない日本郵政を責めるよりも、割の合わないかんぽの宿が、どうして全国各地にこれだけの数できたのか、の真相を究明することのほうが地元選出の政治家の皆さんにとって「脅威」になるような気がしますが、いかがでしょうか?
この月末にも、また多くの企業が倒産手続きにはいっていることでしょう。そのなかには、公共事業が減って、にっちもさっちもいかなくなっている方々もいるかもしれません。民事再生下の企業に勤める身として、こころから同情いたしますが、やはり仕事は自助努力で獲得するものであって、必要のない公共事業に頼るのは資源の無駄遣いです。ちっともエコじゃありません。鳩山総務相のおかげで、またひとつ郵政族の政治家の皆さんが、過去になにをしてきたのか、明らかになりましたので、次の選挙では参考にさせていただきます。ありがとう、鳩山総務相さま。

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いよいよ明日

いよいよ明日、最後の三次試験の合格発表がたぶん行われる。最後、と国土交通省が言っているので、たぶん最後なんだろう。あとは新制度の試験受けてね、ということらしい。不動産業界に身を置いていると、不動産鑑定士補と書かれた名刺をたまに見かけるが、明日の発表後、この「士補」の方々はどうなるのだろう。従来通り、鑑定評価書を書くことができるのだろうか。制度に詳しくないので、よくわからない。
会社が傾いてから、後輩のなかに不動産鑑定士の試験合格を目指している話を耳にするようになった。他方、新制度の合格者数は毎年100名前後と、旧制度の二次試験と三次試験の合格率を掛け合わせたような合格者数になっている。実務修習制度ができたときいているが、どうもお金がかかるらしい。従前の「丁稚奉公制度」で資格をとっているので、百万円ちかい金額を準備するなんて、とても考えられない。当時と雇用条件が大きく改善された、という話もきかないので、試験に合格だけして、実務修習をうけないひとが出てきたり、逆に実務修習を受ける人は、会社が実務修習の負担をしてくれる人が増えてきたり、ここでも「格差」社会が生まれているのだとすると、気の毒になる。
もともとが、あまり世の中に認知されていないマイナーな世界。不動産屋と銀行(特に信託銀行)と裁判所(弁護士含む)と土地持ちの資産家ぐらいしか、なにをしている仕事なのか分かってもらえない世界。(いまはもっと認知が広がっていてほしいが)ぼくら自身が業界の認知を上げていかないと、尻すぼみになってしまうかもしれない世界に、明日、また新たな仲間が誕生する。祈るような気持ちで明日を迎える皆さんにエールを送りたい。

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それが問題だ

清算と決まった勤務先から、一部の営業を引き継ぐ営業譲渡先への就職意向表明に関する説明があった。営業譲渡先(以下「新会社」)には、現在勤務している社員の約半数しか移ることができない。すなわち残りの約半数は、みずから新たな勤務先を見つけなければならない。また意向表明後すぐに「転職しない」旨の誓約書を書かせるらしい。労働条件がまったく決まらないうちに、だ。給与が何パーセントカットされるとか、社宅の扱いとか、そもそもの新会社のビジネスモデルとか、わからないままに「返事をしろ」という。新会社の面接のときには、もう少し詳しい話が聞けるかも、とも。

親は当然ながら、新会社に申し込みするものと思っている。しかし実はあまり気が向かない。転職するほうが、待遇がよさそうだからだ。こういうときに資格が役に立つ、といったらいいのだろう。約10年前勤務先の経営がおかしくなって、転職市場に放り出された。転職支援会社で、それまでの経歴がまったく役に立たないとはっきりいわれた。そのときから、自分のキャリアは自分でつくると自覚した。会社に頼らない。つねに外に出て勝負できる人材でいる。そうする手段として資格を手にした。よって一般社員とは、同様の対応を取る必要がない。またそういう背景で新会社に給与交渉すれば、わたしを雇うお金で部下や後輩たちを二人分雇うことができるかもしれない。この一年、市況が回復するとはとても思えない状態で、債権者のために資産の売却を進めるのが新会社のおもな仕事であることを考えると、じぶんが役に立てるとも思えず、またモティベーションも上がらない。

転職が成功するとは、断言できない。とりあえず新会社に就職希望を出しておけ、という主張も理解できる。ただ、それでいいのか、ともうひとりの私が叫ぶ。実際、去年の中ごろまで一生懸命転職活動をしているのに、民事再生の申請に伴って、会社の特別チームに組み込まれて忙しくなってしまっただけなのだから。

先週金曜日、部下に「いっしょに新会社の希望だしましょうね」と言われて、「ああ」と答えたものの、こころの底では「ごめん、迷っている」とつぶやいた。じぶんが取り組んできた事業を投げ出すようになるのはとても心苦しいが、これまで会社を窮地に追い込んできた面々が新会社の実質的経営者とともに、さも民事再生出すようになったのは経営者が悪いんであって、自分たちはなにひとつ反省することがないと開き直るのを黙って見逃せない。学生運動の粛清ではないが、すくなくとも部下を持つすべての管理職は、みずからの部下に対して、みずからの言葉で、みずからの責任を語るべきではないのだろうか。そういうことが蔑ろにされる文化の会社は、いずれ再生できずに滅びるしかない。失敗に学ばないのだから。失敗を共有できないのだから。

会社には、全くと言っていいほど未練がないのだが、「職がない」現実に妥協を迫られている。希望をだすべきか、出さざるべきか、それが問題だ。

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誰も守れない&誰も守ってくれない

映画「誰も守ってくれない」を観て、先ほど特別テレビドラマ「誰も守れない」を観た。犯罪被害者家族の保護と犯罪加害者家族の保護、異なる二つの視点が、非常に重い問題提起を与えている。
映画も、特別テレビドラマも、まもなくスタートしようとしている裁判員制度を考える上で、重要な問題点となるかもしれない。世の中にミステリー小説やドラマがあふれ、実際に被害者自身が何らかの別の犯罪を犯しているケースや、犯罪加害者の親族が犯罪に加担しているケースもあるのだろうが、全くの無実の市民を「被疑者」として、すなわち冤罪としてつるしあげてしまう、そういうリスクを市民社会は常に抱えている。裁判員制度が始まることが、このような不幸な事態を助長しないことをこころから願いたい。

ネット社会の怖さは、「踊る大捜査線~レインボーブリッジを封鎖せよ」でも君塚氏は描いている。それが携帯サイトという、こどもまで巻き込む危ない手段となり、秋葉原で多数の被害にあった方々に対して携帯カメラを向けたひとたちのように、こころない対応をするインスタントパパラッチたちが、二次的な被害者を増やしていく。これだけ情報技術が進んでいるのであれば、そういった興味本位の、覗き趣味的な「加害者」こそを取り締まれないものなのだろうか。難しいのは、報道の自由、表現の自由と、どのように両立させるのか、必ずしも明確ではない。ものごとをあちらの面、こちらの面と見比べて、はじめて真実が浮かび上がる。ぼくらは、「思いこみ」を捨てない限り、中世の魔女狩りと同じ不幸な歴史を繰り返してしまいかねない。「安易に裁いてはいけない」と歴史は教えている。

民主主義を否定するつもりはない。しかし多数意見が正しいとは限らない。また社会の維持のために法の裁きが必要だとしても、法の裁き、すなわち正義の世界しかなければ、愛の世界、許し認め合う社会は成立できない。両方の基準を持つからこそ、ひとの社会が成立している。両方の基準が必要だと分かっているから、どちらかに偏らないように作用と反作用の動きが起こる。正義は万能ではない。それを残念ながら、知らない人、わかっていない人、忘れてしまった人が増えてはいないだろうか。じぶんの正義の基準が絶対に正しいと無条件に信じていないだろうか?冷静に考えてみれば、じぶんの考えが間違っているかもしれない、と気づくかもしれないのに、デジタルの世界で、じぶんの意見を相対的に見る視点を失い、絶対的な、そこにいつまでも変わらずにあるものとみなすことで、ひととしてのしなやかさを失い、ひととしての自由を自ら捨ててはいないだろうか。

「被害者の家族は、加害者の家族にも死んで償えと思っている。」心情としては、理解できても、ひとの社会である以上、それを口に出してはならない。また第三者がそれを煽ってもならない。それはモラルの低下した衆愚政治でしかなくなってしまう。民度の低い、あまりにも思いやりに欠ける、ムラ社会の論理や集団心理に飲み込まれてしまっている。そうではない。叡智を持って、二度とこのような不幸な事件を起こさないように予防していくことが、ひとなのではなかろうか。

「踊る大捜査線」シリーズをパクッたような、背景、シナリオ、製作意図が透けて見えるのは、ビジネスである以上、やむをえない、か。

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MONEY!

ネットでニュースをみていたら、急増する派遣社員の雇用対策として急きょ募集された自治体の臨時雇用や飲食店の正社員採用に対して、応募がそれほど進んでいないという。残念ながら、「さもありなん」と思ってしまった。
いまから20年ぐらい前だろうか、当時の西ドイツで、失業率が高く無職の若者が多数いる一方で、肉体労働や低賃金労働は外国からの労働力(当時はトルコ移民といわれていた)に依存しており、自国の若者は従事したがらない、と言われていた。それを聞いたころ、まだバブルの絶頂期だったせいもあるだろうが、「贅沢な」と思う反面、「自分がするだろうか?」とおぼろげに疑問を感じていた。そしていま。ある程度の収入が将来を保証し、また生活を保証し、転職活動上、履歴書にどのような経歴を記載するかで、自分の価値が変わることを経験として知っていると、おいそれとは職を選べない、とこの期に及んで逡巡してしまう。言葉を選ばなければ、物欲、金銭欲を自覚した自分が、苦しいながらも自らの選択として「職業を選ぶ権利」を主張している。
僭越ながら言わせていただければ、契約社員を選ぶひとのなかには、ミュージシャンや小説家など別の職業で身を立てようと思いながら、新人時代の収入の少なさを契約社員の給与で賄っているひともいるという。将来、外国へ留学する資金をためるために、期間限定の職を選んだ人もいるだろう。なかには、まだ幼い自分のこどもの扶養のためや、恋人とのデートのために家賃の高い都会に暮らしている人もいるかもしれない。それぞれ職業を選ぶ理由があって、その理由のもとに契約社員を選んだだけだとしたら、「職があるだけありがたいと思え!」とはならないのではなかろうか。また誤解を恐れずにさらに言えば、労働条件が悪ければ「働かない」選択ができる豊かな日本という背景があり、日本国憲法に定める国民の三大義務を、誤ってインプットしてしまった責任が社会人として先輩となる私たちにはあるのではないだろうか。
わたしたちができることは、「まず、働きなさい」と説得することかもしれない。夢を実現するために、あるいは夢と現実とのかい離を自覚させるために、(セーフティーネットは用意しつつも)選択肢のある「道」を提示することが、欲にまみれた(豊かな時代に生まれ育った)方々に必要な処方箋ではないか、とわたしは思う。

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女子大生キャバクラ

昨日、臨時収入があったので、会社の後輩たちにせがまれ、やむなく女子大生キャバクラなるお店に行ってきた。一昨年から昨年春先にかけては、いまの連れを口説きに、よく通っていたが、いまやまったくと言っていいほど足が向かない。昨年秋に、これも会社の後輩にせがまれてやむなく行ったのが、最近では直近だろう。近隣に張り出されているお店のポスターには、「おかげさまで学生だけのお店になりました」と謳っているが、学生にお酌されても会話が途切れるだけでつまらないじゃないか。それなら単価は高いが銀座のクラブのほうが、よほど楽しいぞ、などど酔いがさめるようなことは、若い後輩たちに通じるはずもなく、金主として「連行」されていく。

普通、お店の前にある「料金表」はなく、扉をあけてすぐのところに掲示してあった。周辺相場のほぼ倍額。ということは、それだけ選別している、もしくは「まし」ということだろうか。臨時収入をあてにして、多少預金を引き出してきたが、こりゃ高くつきそうだ。店に入る前に、場内指名も女の子のドリンクもご自由にどうぞ、と伝えてはいった手前、いまさら撤回するのは大人げない。せめてもの保険に、「終電があるので、ワンセットだけ」と後輩にもお店のスタッフにも区切らせてもらった。
最初の女の子がついたときから、「わたし26なの」と言われ、学生じゃないと告げられた。おやぁお店の看板に偽りありじゃないか。まあそのほうが「まし」かな。ドリンクを勧めると、恐る恐る注文していたが、一瞬でグラスを空け、スタッフのチェンジの声に、席を立っていった。おんなのこの交代は、ほぼ10分に一回前後。三人で70分ワンセットとすると、合計21杯のドリンク代をお店側はせしめていった。お店も商売だから、儲ける方法は自由だが、あまりにも足元を見た小遣い稼ぎのようなことをするなあ、と少しあきれる。
周囲を見渡すと、それなりに席は埋まっている。この不況下でも金曜の夜は、客足があるのだろうか。また服装が、いわゆるバブル紳士というよりは、それなりのステータスを身にまとった部長クラス以上のおじさま方が目立った。若い娘がお好きですね、と言いたくなる。私、変なのだろうか?
なんどかチェンジが続いたころ、まったく会話に接点がない女の子が横につき、眼が泳いでしまった。場内をみると、やはり指名の多い女の子はいるようで、ずっと同じテーブルを動かない女の子や、あちこちテーブルを動き回る女の子が、わかってくる。最初についた26歳の女の子は、2テーブル先のおじさまの席でずっとかわいがられていた。そうだよね、学生だけじゃ話も合わないし、第一「気配り」できないでしょ。
お会計は、案の定10万円弱。現金でさっさと払い、名残惜しそうな後輩たちを連れて、きっちりワンセットで店をでた。いつも思うが、同じお金を使うなら、会社の同僚女子と飲みに行ったほうが、よほど会話を楽しめるのになあ。まあ、太ももやおしり触って、会社にいられなくなるよりましか。セクハラ、怖いもんね。かくして、半年に一度のイベント終了。今年はあと一回かな。年末にはこの会社にいないかもしれないし。

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代わりにできたらしてほしいこと

ときどき、できもしないのに代わりにできるものならしてほしいと願うことがある。ああ、おなかがすいた!というときに、だれか私の代わりにご飯を食べて、それで私が満腹になったらいいのにな、とたわいのないことを願う。そういうときはたいてい、部下の面倒を見ていたりとか、弁護士や取引先とのやり取りでタイミングを逸して、食事時でないのに腹ぺこの状態になっている。かくして夕方四時に昼食をとったり、23時近くに晩御飯を食べたりするはめになる。しかも、そういうときは、たとえば早く帰りたいのに、おなかは「何かよこせ!」と暴れていたり、どうにも中途半端で開いている飯屋がなかったり。定時に食事ぐらいとれればいいのに、大抵が自分の都合だけ考えて指示をだす上司のせいだったり、そのわずかな時間しか連絡がつかない弁護士の先生を待っていて、だったり。だいたいろくでもない。

かわりに睡眠をとってほしいなあ、とか、かわりに会社に行ってほしいなあ、とはさすがに思わないが、食事だけは本当に何度も同じことを願ってしまう。食べることが嫌い、というわけではない。もし嫌いなら料理なんてするはずがない。食べたい物を食べたいから、料理するのであって、もし外食や総菜や飯屋ですべて満足できるなら、それにこしたことはない。実際にはそうはならんのね。

働きすぎなのかな?働かせるだけ働かせて、でも再生計画認可後は、給料カットね、とやさしく言われるのが分かっているから、どうにもこうにも割り切れない。しかも新会社には大方の上級管理職は、そのまま「居座る」みたいだし。部下の愚痴じゃないが、民事再生申請して、その反省をしない経営陣や管理職ってなんだろう、と本当に疑問に思う。食事が面倒になるぐらい働いているのに、上が閊えて昇給も昇格もままならないなら、転職したほうが幸せですね。というわけで、前厄なのに転職活動。

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太った

先日健康診断があり、体重測定をしたところ、これまでの人生で経験したことのない「重い」体重を示していた。そういえば実家で、測った体脂肪率も21%と平常時の数値を大きく越えていた。さらには「最近ズボンのおなかがきつくなってきた」と実感していた。にもかかわらず、目をそむけていたのだが、健康診断の数値として目の前に出され、またウェストが67だったはずなのに73といわれ、ショックであった。

年末年始の、このわずかな間に急速にデブになった。体脂肪計は、ずけずけと「隠れ肥満です」と表示してくる。うるせい、こんちくしょう!と思いつつ、運動して痩せなきゃ、とおそらく生まれて初めてダイエットを考える。

いまだかつて、痩せる必要を感じることなく、いくら食べても太らない体質だった。もともと肉食というよりはベジタリアンであるし、コレストロールを多く含むような食品を好んで食べることもない。あるとすれば、食事を三食きちんととるようになったことと、年末は腰痛のため運動不足になったこと。それがこんなに覿面にあらわれるとは。歳をとって基礎代謝が低下してくると、20代の若者と同じだけ食べてはいけない、ということなのだろう。

運動量は腰痛を患う前の11月ごろの状態に戻すとして、はたしてそれだけで痩せるだろうか?また「健康的に」やせてくれるだろうか。デブならデブでかまわないか、と思い始めている怠け者の自分が、実は一番やっかいな存在かもしれない。

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ブルータス、お前もか

今日は、もともと半日休暇の予定であったが、どうにも気が乗らず、全日休暇を取得して、一日を過ごした。夕方、職場の同僚からメールを受信。「クリード死亡」。

なにが起こったの?メールの続報を待つと、「会社更生法申請」と。同社は、いまをさかのぼること約10年前、デューディリジェンスとはなにかを、みっちりと仕込んでいただいた、重要な、また忘れもしないお客様でした。不動産評価に言うところの価値評価とは、全く世界の違う、マーケットと回収可能額にウェイトをおいた、バリュエーションというスタイルを前面に押し出して、あらゆるシナリオからマックスバリューを導き出し、しかも短時間で高精度のバリュエーションを要求する、受託者側が極めて鍛えられるお客様でした。
その後、同業種の方々となりましたが、彼らのスキルには常に一目をおいてきました。その彼らが経営破たんするとは!驚き以外の何物でもありません。

彼らがかつて要求してきた、精度の高いデューディリジェンスは、いまでは業界標準となっていることでしょう。またそれが今日の不動産業界崩壊に近い状態において、再生スポンサー選定時に重要な役割を担っていることでしょう。では、その彼らがなぜ、破綻を防げなかったのか?サブプライムを発端とする金融危機が原因とするには、あまりにも納得しがたい。なにか自己ポジションでの投資に重要な問題があったのだろうか。負債が、わずか600億前後というのも気になる。その程度なら、会社更生法でなくてもよかったのではないか。もとい、会社更生法にしなければならないぐらい、複雑な資金調達を行っていたということなのだろうか。子会社のAM会社株式を質権設定していたために、子会社から離脱しているという。では本体は、なにを稼業としていたのだろう?やはり自己ポジションの投資なのだろうか。

もっと切実なのは、その優秀な社員が人材マーケットに、これからあふれ出てくること。どういたらいいんじゃい?勤務先の「救命艇」は、沈みゆく客船の乗客数に対して、わずか半分足らずの定員しかないという。あるものは、独立を持ちかけ、あるものからは個人事業主としての業務発注を受けてほしいと依頼をいただき、またあるものは「職をください」と訴えてくる。しかし残念ながら、自らの力は雇用を創出できるほど、力強いものではない。せいぜい事務員が一人か二人の開業ができるかどうか。そして開業の意志はない。よって共同事業としてできるかどうか、ぐらい。そんな状況下で、ますます転職活動の環境が激化するなんて想像したくない。しかし現実。とりあえず家賃の安いところに引っ越そうかな。新年早々、景気が悪い。

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厄年の「凶」運

今年前厄を迎えるに際して、厄払いをしなければならないと考えていた。折しも昨年勤務先が経営破たんし、今日の経済情勢では有力なスポンサーが現れる可能性は少なく、事業縮小が不可避というさなかで、妹が婚約をし、兄貴が「無職」というのではまずいので、何とかしなければならない。しかし、物事そんなに単純ではなく、「つぶれた会社からは優秀な人材から去っていく」といわれるとおり、前途有望な後輩たちが次々と職場を去っていく。私は、といえば、昨年の民事再生申請以来、そんなことを考える余裕がそもそもなかった。もし考えていたら、目の前の今やるべき仕事が手につかなかったろう。再生を信じて取り組んできたのが、いまや前途には、いまにも嵐になりそうな暗雲が垂れこめている。

この正月は天候にめぐまれると聞いて、東京文化会館でベートーベンの第九交響曲を聴いた、その足で奥多摩の御岳山へ向かった。ご来光を拝もうと思った次第。御岳駅前でふるまわれていた甘酒をいただき、山頂の御岳神社を目指す。東京とは思えない、たくさんの星を目にしながら、真っ暗な山道を歩くのは気持ちがいい。
御岳神社に到着し、まずおみくじを引いた。短い人生でおそらくわずか二回目の「凶」。ほかから舞い込む禍ばかりではなく、自らの行いにより禍を招くことがあるので、「慎むべし慎むべし」と書いてあった。この状況下でどうしろ、というのだろうか。去るも残るも棘の道とわかっていて、流れにまかせよ、というのであろうか。しばらく私の小さな脳みそを悩ませることだろう。
初日の出はきれいだった。大勢のご来光を拝む参拝者が、一斉にデジカメを太陽に向けている。いまのデジカメは、ご来光もきれいに撮れるらしい。まるでプロが撮ったような幻想的な写真を互いに見せ合っていた。それにしても敬いとか厳かさとか、そういう気持ちにはならないのだろうか。ご来光に向かって今年一年息災であるよう祈っていた私は、少し気になった。
ご来光を拝んだのち、拝殿にて厄払いを受ける。待合室の石油ストーブが暖かい。二時間近くもご来光を外で待っていたのだから、当然といえば当然のこと。名前を呼ばれ、本殿に向かうと、本殿はそのまま外につながっていたため、寒い。上着を待合室に置いてきたことを後悔する。祈祷の間、じっと寒さに耐える。今年一年は、こんなふうに「耐える」一年なのかもしれない。
祈祷が終わり、お札をいただく。「神棚がないのだが、どうしたらよいか」と尋ねると「タンスや書棚など、高い所にお神酒と水とともに、西向きでない向きに祭ってください。」と言われた。自分自身のためにお札をもらうなんて、初めてのこと。まして、あれはだめ、これはだめ、と言われる厄年に、差し迫っていろいろな選択を迫られている。これはひとつ、神頼み、といいたいところだが、実際には自分の努力を神様に見守っていただくほうが正しいのだろう。

かくして多難な2009年がスタートした。どうか息災でよい一年でありますように。妹の結婚式の際に「無職」となりませんように。家族、友人を含め、みなが幸せな一年でありますように。

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大納会

思い立って東京証券取引所の大納会へ行ってきました。母親が妹と海外旅行に出かけているので、父親の世話のため、実家に帰省していました。このため、朝早くに家を出て東京証券取引所に九時ごろ着きましたが、とうの昔に整理券は配布終了、特に制限のない二階フロアで十一時にスタートする大納会をひたすら待ちました。
テレビでよく目にするテロップが目が回りそうな勢いで表示されています。ときおりスピードがダウンして、またもとのスピードに戻るのですが、なぜなんでしょうか?表示されている銘柄に売り買いが入り、成立した金額が変わったことを反映するときにスピードが遅くなるんでしょうか?よくわかりません。
待つこと二時間、大納会が始まりました。大勢の観客。大勢の来賓。とはいってもマスコミ関係者がなにより多かったでしょうか。長年ご無沙汰している、東証詰めの友人がいないかどうか、よく目をこらしましたが残念ながら会うことはできませんでした。テレビで目にする東証の鐘。昔は取引の開始時と終了時に鳴らしていたそうです。いまはコンピューター処理のため、こういうイベント時にのみ鳴らしているのでしょうか。慣例では五回鳴らすのだそうです。今年は北京パラリンピックで競泳男子50m平泳ぎ金メダリストの鈴木孝幸選手とバドミントン選手の小椋久美子選手、潮田玲子選手が打鐘をなされました。
東証の斉藤社長は、「八月ぐらいまではどうにか持つのではないかと思っておりましたが、九月にリーマンブラザースの破たんとともに、過去最大の株式相場下落を経験しました」と述べておられました。僕らは、外資系企業のノンリコースローンを調達していましたから、すでに年初の時点でおかしなマーケット状態に気づいていましたが、日本の多くの方々は「海の向こうの出来事」であり、日本には波及しないと考えていたのでしょうか。東証の社長の発言としては、私は寂しさを感じます。また来賓の方々がそれぞれ挨拶されましたが、緊張されていたのか、潮田選手のあいさつには、この場のあいさつにふさわしからぬ若者言葉が目立ちました。こういう場は、普段使わない言葉を使わされるので大変ですね、と少し同情。(ほかの来賓のみなさまは、きちんと挨拶されましたが)
手締めは、三三七拍子が三回、これも昔からの伝統なのでしょうね。きれいに合っているのが印象的です。延べ20分ほどのセレモニーですが、株式相場激動の一年の締めくくりにしては、普通の大納会でした。
余談ですが、デジカメで撮った写真はいずれもボケまくり。対角線からマスコミの強力なフラッシュがたかれるため、個人のデジカメでは対抗できず、どれも画面が真っ白になっていました。お見せできないほど画像が悪いので、写真はございません。m ( _  _ ) m

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もともとは犬派ですが・・・

コネタマ参加中: あなたはイヌ派、それともネコ派?

もともとは犬だいすきのイヌ派でしたが、一時ネコと同居してからすっかり猫派になってしまいました。なによりも、帰宅してきたときに玄関にやってきて、ごろんと腹をだして歓迎するネコのかわいらしさには、わたしは勝てません。それに気まぐれ度合いがたまらないです。
四六時中、飼い主と時をともにしたがるイヌに対して、ネコの気まぐれなこと。勝手にしておいてほしい時には勝手に遊んだり、寝たり、隠れたり。かまってほしければ、パソコンの上にでも食卓にでも膝の上にでも容赦なくやってくる。魚料理には目がなく、しょっちゅう料理の邪魔をされる。ときには材料をよこから拝借される。無類のきれい好き。二匹いるとトイレをめぐってバトルする。そんなネコがたまらなく愛おしい。その理由は、理想のパートナーみたいだからだろうか。
「言わなくても察してよ」とか「KY」とか、ネコは決していわない。自分の要求を相手にずけずけと要求してくる。「わたしとあそびなさい」とか「ごはんをよこしなさい」とか、ときに高圧的であると同時に、これ以上ない甘ったれなしぐさでじゃれてくる様子は、ツンデレのお嬢様のようでもある。凛としてじぶんを主張し、他人に決して迎合しない。じぶんの赴くままに行動し自由を謳歌する。ときに、そんな姿がうらやましくもある。
実家で犬を飼っていたころ、こういう喜びはなかった。なぜなかったか。イヌは飼い主に忠実だから。飼い主の力関係を理解し、家族の優劣をあからさまに表現するから。権力とか指示とか、命令とか主従とか、そういう言葉を連想してしまう。
わたしは犬嫌いではありません。また犬好きのみなさんになにか申し上げたいとか、そういうつもりはありません。ただネコのほうが、なにも考えずにお気楽に付き合える分、人生のパートナーとして私には向いているような気がします。

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2008年を振り返る

今年も間もなく終わろうとしている。ようやく年賀状をあて名書き、本文とも印刷したものの、コメントの「ひとこと」が書きづらく、そのままになっている。今年は停滞の年だったのだろうか?いや、無数の選択を、その時々の状況に合わせて、行ってきた近年まれに見る「選択」の一年だったのではなかろうか。年初の、ある企業からの二次面接に日程が都合できず、そのまま残念な結果に終わったことも「選択」、民事再生の申請目前に会社を出なかったことも「選択」、民事再生の申請後、スポンサー選定のために尽力する覚悟を決めたのも「選択」、そしていま、今後の身の振り方をどうするかも「選択」。一日の時間の過ごし方も、自分の体をいかにつくるかも、はじめての株式投資も、あわてて受験したビジネス法務検定も、離婚の仲立ちから新居の購入アドバイスまで、数々の友人とのつきあいも、連れとの数々のデートも、すべて「選択」。ひとつひとつの選択に、意識を集中して、いまなすべきこと、いま何がしたいか、いまどうするべきか、つねに意識的に「選択」していた。
こちらの思うようにならないことのほうが、はるかに多い。特に連れとの関係は、彼女のような、恋人のような、それでいてただの友人のような、微妙な関係のまま一年が過ぎた。来年、発展するあてはない。あるのは発展させたいという強い意思だけ、だろうか。民事再生を申請したまま、漂流をはじめた勤務先は、じぶんの雇用すら怪しい状態になっている。とはいうものの、スポンサー選定に積極的にかかわってきた私は、この環境下でさえ、まだ冷静にじぶんのなすべきことを「選択」できていない。選択しているのは、与えられた役割を消極的にこなすことだけ。あまりの雇用市場環境悪化に、面喰っている。
あのときこうしていれば、という後悔はない。じぶんで「選択」した自覚があるから。ただ「甘かったかな」とは考える。環境がここまで悪化することについて、もっとアンテナを巡らせるべきだったろう。十年前、婚約が破棄されて、その後当時の勤務先も破たんした。あのころの状況が、また目前に繰り返されている。違うのは、もっとはるかに経営という立場に近いところに自らが立っていること。自らのこの状況をなんとか自らの手で、良くしていきたいと願っていること。そのためにこそ、経営という得体のしれないものに興味をもちはじめたこと。他力ではなく自力で、環境を変えようと考えていること。
2008年は1998年に勝るとも劣らず、過酷な選択を自らに課す、そういう天命の年だった。ならば2009年は、選択に従い、ただひたすら努力する年になるのだろうか。

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転職する?

民事再生申請後、4か月近くの歳月が過ぎ、当然冬のボーナスはなく、再生計画を提出したいまも、先行き不透明な状態のため、社内は鬱々とした重い空気が立ち込めている。三月はまだしも四月以降はどうなるかわからないとか、転職したくても求人数が激減しているとか、スポンサーが引き継いだ後も給与は三割カットが当たり前とか、IPO目指して4,5年は休みなく働かされるとか。うわさがうわさを呼び、若く優秀な社員から会社を去っていくのは、当たり前のことかもしれない。それを黙ってみているしかないのが、またつらい。
会社が左前になった一義的な責任が経営者にあることは、当然としてひとりひとりの社員になんら責任はなかったのかと、自問すると必ずしも無過失とはいえないような気がしている。なぜその投資を止めなかったのか。からだをはって止めれば、こんなことにならなかったのではないか、きちんと説明せずに、安きに流れたとはいえないだろうか。など。
ふと行き場のない、つまり優秀でない社員のことを思う。優秀でなければ不要なのか。実はそうではないのだが、会社の規模により許容範囲が決まっている。ダウンサイジングしていく過程では、そう多くの社員を負担できない。ひとりひとりのフルパワーが当たり前のように要求される。そのときに一人前の仕事ができない人がいれば、その分を補ってあげる必要があり、そこに合理性があるかどうか。それが競争社会の現実である。
また空想してみる。もしIPOを目指さない独立系のスポンサーがいたらどうなるか。それこそ、かなり長期的な視点で物事を考え、無理のないシナリオで事業を発展できることだろう。短期的に利益追求を目指すファンドビジネスに踊らされるのは、もうこりごりである。しかもそのメリットを十分に享受できる立場にないのであれば、なおのこと。
来年三月の年度末に向けて、解雇されるであろう社員と独立会社を作って、そこで頑張るほうが、いまの私にはモチベーションが高い。デベロッパーという業種は、多少のノウハウがあればもっとも参入障壁が低い業種の一つであると思う。だからこそ、会社をたたむときは民事再生法などという「甘ちょろい」方法よりも会社更生法のように、正々堂々と「払えないものは払えないんです。どうぞ競売して換価してください」と開きなったほうがすっきりする。そんなに経営者の責任追及がいやだったのか。不動産向け融資の金利が高いのは、そのリスクを含んでいるからに相違なかろう。だからこそ金貸しは、不動産業者の計画倒産に目を光らせる必要があるのだろうし、実際何度となくだまされてきたはずである。
転職する?しばらく蓋をしていた言葉が、今日は鮮明に蘇ってきた。しばらくこの甘い言葉と向き合うか。齢40歳を目前にして、「迷っている」。

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ウィンターセール

ふと気になって、有楽町阪急マーガレットハウエルへウィンドウショッピングへ出かけた。特に何かを買うつもりで行ったわけではない。ただ世界的な不景気と記録的な円高のため、なにか恩恵にあずかれるのでは、と漠然と思っていただけである。
すると昨シーズンに十万円以上した上等なスーツが、半額セールを展開していた。なんで半額?しかもクリスマス前に?驚きを隠せない反面、即座にこれは買いだと判断し、さっそく二着を購入した。ボーナスないにもかかわらず、である。ま、なんとかなるでしょ、というかなり雑な銭勘定が私を後押ししている。
それにしても、別のデパートで12月初めからウィンターセールセーターが三割引きになっているなど、今年はおかしい気がする。不景気、ここに極まれり、ということだろうか。NYなど海外では、とにかく服が売れないとニュースが伝えている。消費天国が節約志向に走り、実際消費しようにも解雇されていては、消費どころではない。明日のために節約せざるをえない。自らも例外ではないはずなのに、つい目が肥えてしまったがために、リーズナブルな買物はお財布のひもが緩んでしまう。独身者の特権か。
年末が刻々と近づいてくる。ウィンターセールにうつつを抜かすよりも、年賀状を一生懸命書いたほうがいいのかもしれないが、民事再生申請後、遅遅として進まない不安な状況下で、いったいなにを書くというのだろう?年賀状配達のアルバイトに求職者が殺到しているという。のんきに買い物していられる私は、胆力がついたのか、それとも現実逃避の消費行動か。どちらにしてもいい買い物をしたと思う。

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ビジネス実務法務検定受験 その2

けさ会社に出社したら、ビジネス実務法務検定試験の受験生が同僚に何人かいたらしく、合否を聞かれて驚いた。なんでも専門学校のHPに解答例がアップされているらしい。さっそく解答例をDLして自己採点してみた。たぶん82点。まずまずというべきか。
昔取った杵柄が、こんなところで生きていた。これなら二級にチャレンジしてもよかったかもしれないが、そんなことより連れをなんとか口説けないか、そちらに感心が高い私は、さっさとあきらめて雨の降りしきる中、デートに向かった。それでよかったのだ。たぶん。よくみると二級と三級は併願できるが、一級は二級と併願できないと書いてある。つまり一回ずつ取得しなきゃいけないということ。一級、とったらなにかいいことあるかな?いまさらあまり資格に興味がないのに、いつのまにか受験してしまったので、流れで二級一級は取るんだろうな、いつか。
ま、三級はとりあえず通ったようだから、二級に向けてがんばろう。今度は前々日からの勉強などと舐めたことをしないように心掛けるとして。

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オバマ演説集

本屋で野積みされているのをみかけて、つい買ってしまい、そして寝る前の日課として、米国次期大統領に決定したオバマ氏の演説集を聴いている。いや、この場合は聞いている、が正しい日本語かな。
聞いていて思うこと。誤解を恐れずに言えば、このひとの演説は扇動がうまい。ひとを惹きこみ、奮い立たせ、興奮させる、そういうツボを理解して、聴衆を熱狂させている。CDを聴いていると、オバマ氏の演説がしばしば、聴衆の歓声で遮られているのがわかる。聴衆が、オバマの目指すThe United State of  Americaを信じ、熱狂している。言葉のひとつひとつに感動を感じるのは事実だか、それにしても聴衆の熱狂からは、AgitationとかDemagogicとか、という言葉を連想してしまう。これはひょっとすると「怖い」ことなのかもしれない。
書店で「オバマ危険な正体」という本を見かけ、つい購入してしまった。全世界を巻き込む不況の真っただ中にオバマ氏は、米国大統領に就任することになるが、過去大不況が起こるたびに人類は戦争により比類なき無駄遣いを国家予算で行い、それによって経済を立て直してきた。戦争への関与は、直接間接を問わないとすれば、わが国の戦後復興も例外とは言い切れなくなるだろう。一方で「暴かれた911疑惑の真相」扶桑社刊によれば、911はテロによる攻撃ではなく、国家が新たなる攻撃対象を必要としていた、と言わんばかりだ。リーマンブラザースが破たんし、世界景気がどんよりしているただなか、職場で戯言を話していたさなかにでたのは、「(次にアメリカがすることは、)戦争だよ」だった。それって戯言じゃなくて、予言だったのかしら?
混迷の時代、ひとは強い指導者を求めたがるが、強い指導者は時として道を誤ることがある。意図して間違えるのか、結果として間違えるのか、それはわからない。しかし、歴史は指導者の間違いをいくつか示している。ヒットラーしかりムッソリーニしかり。特にヒットラーは当時もっとも民主的であったワイマール憲法下で、民主的に選ばれている。この事実は、時として忘れられていないだろうかと心配になる。
わたしは、オバマ氏が新たな戦争を始めるためにアメリカ国民によって民主的に選ばれた、とは思いたくない。しかしながらオバマ氏の聴衆を熱狂させる演説を何度も聞いていると、そしてオバマ氏がいったいどのようにして全米を巻き込む僅差の大統領選挙を勝ち抜いてきたのか、その背景(支持者、支持者のメリット、大統領を支えるスタッフの支持母体など)に思いをはせると、不安になる。このひとは、正義の名のもとに、罪のない他の国のひとを犯罪者に祭り上げるのではないか、と。
正義と愛情は両立しない、と確か内田樹氏の著作に書いてあった。オバマ氏が愛情のひとであることを望みたい。

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ビジネス実務法務検定受験 

とうとう試験日がやってきてしまったので、前々日から三級のテキストを読み込み、三級だけを受験してきた。試験会場が女子校であったため、男子トイレが少ない。おまけに駅からの道すがら飲食店の少なさに驚いてしまった。二級三級と併願していたが、もし二級をそのまま受けていたら、昼食に苦労したことだろう。また昼食後、トイレ待ちで少し苦しい思いをしたかもしれない。三級だけの受験に諦めて良かったかもしれない(、と自分をごまかす)。
試験問題は、テキスト通読だけではとても解けないだろうという、具体的な事例問題。法律は実務で生かすことができて学習する効果があり、その意味では良質な設問が多数あった。その意味で、問題を開いたとたんに面食らうとともに、昔取った杵柄が大変役に立った。もう十年ほど前になるが、民法を論述試験で回答できる程度に勉強していたので、そのころの知識が総動員され、錯誤や脅迫や詐欺などの、善意の第三者への対抗要件ってなんだっけ?とか、「売買は賃貸を破る」の例外事項とか、即時取得の要件とか、かなりの部分、正解を導いているはず(あまり自信はない)。
やはり勉強は怠ってはならないものだと思う。職場に一級を目指して勉強している同僚を見かけて、つくづく自らのなまけ心を恥じなければならないのだろう。もしも合格したら、今度はまじめに二級の勉強をすることにしよう。

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最後の不動産鑑定士三次試験

昨日、12月7日は制度変更に伴う経過措置で行われる、不動産鑑定士三次試験の最終回だった。職場の同僚が受験しており、話を聞いたが、気が遠くなりそうな計算過程を要求する午後問だったらしい。取り壊し最有効使用の貸家およびその敷地。定期借家と普通借家のそれぞれの明け渡し予定テナントからの賃料収入を複利現価し、かつ新築建物の賃料設定を賃貸事例比較法で求め、賃貸型開発法を適用し、明け渡し費用も比準して・・・気が遠くなる。実際に受験した人は、あまりの計算量に圧倒されているのだろう。問題のページ数が30ページを超えている・・・30ページって読むだけで一時間かかりそうじゃん!
なにが採点基準なんだろう?もともと電卓使用の巧緻を競うような、マニアックな試験問題が3次試験午後問の特徴だが、それにしても明らかにタイムオーバーする問題を作る意味って何だろう。受験生が気の毒になる。きっと帰り道が憂鬱だったろうなあ。
とにもかくにも、これが最後の三次試験(らしい)。あとは実務修習受けてね、というのが国の方針らしい。他の国家資格のように、特例措置ってないのかな?まあ、誰でも彼でも合格にするのは問題だろうけど、頑張った受験生は評価してほしい。不動産鑑定士という資格を目指して鍛錬を重ねてきた諸氏が、不動産鑑定評価基準の暗記を強要する二次試験をなんとかクリアし、そして三次試験に向かうと、こんどはテクニカルな技巧を要求されるという、そういうある意味、試験と割り切らないと突破不能な資格試験だからこそ、制度改正されたのだろう。経過措置つけて、その間に頑張って合格してね、とルビ振って。
今年こそ、と粘った人こそ合格してほしいなあ。しばし合格発表を待つばかり。

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MIXIからの迷惑メール

もういい加減にしてもらいたいものだ。MIXIからエロ広告まがいのメールが次々やってくる。あまりにあほらしくて、まったく返信する気にならない。とうとうMIXI自らエロサイトに手を出したのか、それとも乗っ取られてしまったのか、どちらにしても単なるROMメンバーには、迷惑メールでしかない。それも対象者が特定できないことから、無視するしかない。プロフィールを非公開にすればいいのだろうか?あらゆるMIXIの関係者から関係を閉じてしまいたいのだが、MIXIに招待された関係上、一方的に閉じるのも失礼だろう。「IDをとじさせてください」といったら、やはり怒られるだろうか。これは本人のせいではなく、MIXIの構造上の問題であるのだろうから、招待者に罪はない。しかしこの迷惑メールはうっとうしくてならない。MIXIからのメールは、正直目にしたくない。不快なのだ。
受け取りを拒否する方法ってないのだろうか?私は一切の新しい関係を拒否します、みたいな、選択肢ってないのだろうか?善良な一市民が、自らの平穏な生活を守りたいだけなのに、MIXIのIDを持っていることが、すなわちくだらないビジネスの潜在顧客に扱われる不快は、いったいどこに持って行ったらいいのだろう?これがWEB2.0の宿命なのか?こんな不快なネット社会を受け入れろというのだろうか?公害だろ、これは。
MIXIからのメールにフィルターをかけたくても、転送で入ってくるので特定できない。それこそ全部締め出しするしかないのだろうか?
MIXIは前から大嫌いだが、より嫌悪感がつよくなった。退会したいのに退会できない状況を、招待したそこのきみ、なんとかしてほしい。

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腰痛

ついにこの日が来てしまった。朝起きると腰痛。目覚ましを止めるために体を起こそうとすると、激痛が走る。ああ、よる歳の波にはもう勝てないなあ、と実感する。
フィットネスクラブで、ロータリートーソーだったか、腰痛予防の器具を利用して、しばらくの間腰痛とは無縁でいられた。最近は、パソコンの前でほぼ一日じっとしていながらも、朝から23時ごろまでデスクで同じ姿勢をしているため、腰への負担は相当掛かっているはず。しかも通勤かばんは人一倍重いまま。通勤かばんの軽量化は、荷物の見直しにより都度取り組んでいるが、それでも日々増えていく。必ずしも毎日使うものではないが、「あると便利」「ほしい時にないと困る」などの理由で、通勤かばんの常備品になっているものが少なからずある。文庫本や新書本は、ほぼ二冊を抱えている。最近は電子辞書を持ち歩く。手帳が一冊、歯科矯正に係る鏡などの入ったポーチ(化粧ポーチ大)がひとつ、折り畳み傘、折り畳みバック(エコバック)ひとつ、クリアファイル数枚、電卓ひとつ、筆箱ひとつ・・・じぶんでは必要だと思っているから、なかなか軽くならない。しかも右肩にショルダーすることが常で、左肩にかけると違和感がある。こうして腰痛の悪化を自ら招いている。ああ、だんだん親父になっていくなあ。若くないなあ。

きたる平成21年は前厄にあたるらしい。厄払いしなきゃ。また長いトンネルの中だな。しばらくの間は。

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おとこのはだか

「おくりびと」と「ホームレス中学生」をみて思ったこと。なぜ主人公の入浴シーンがあるんだ?私がオトコだから気がついたのか、これってモックンやテッペイちゃんの素肌がみたいというオバサマ根性を意識したサービスカットなんだろうか、と疑いたくなる。いやそれしか理由が考えられない。水戸黄門の色気シーンぐらい、ストーリー展開としては、ちょっと強引で、観客としては、それだけ見たいんじゃなくて、本筋の内容がみたいから、ついでに見えてしまったの・・・みたいな下心を感じてしまう。そうか、性欲に正直になった女性たちのこころは、そうやって満たされていくのか。

女性が、男性の体に魅かれることを、どうのこうのいうつもりはない。むしろ、公の場にこういう形ででてきたことで、健全さを感じる。映倫とかビデ倫とかが、男性のヌードに「過激だからやめなさい」なんて日がくるのだろうか。それはそれで、面白いのかもしれない。なにせパートナーをもっている女性は、生まれ変わったら、いまのパートナーといっしょになるひとは少ないそうだから。ふん、浮気性め。とつぶやくのは、昔は女性の特権だったかもしれないが、わたしはいまの女性陣に思ってしまう。そしてコマーシャルよろしく、「愛だろ、愛」とほざく。惚れたはれたの一時の情熱であっちいったりこっちいったりするのは、おとこもおんなも一緒だけど、それじゃ家族は成り立たないし、こどもは育たないのよね。それじゃ愛も育たないと思うけど。あ、よけいな一言でした。ごきげんよう。

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恋愛嫌い

王様のブランチを観ていたら、ブックナビで紹介されていて、つい本屋に走ってしまった。

http://www.tbs.co.jp/brunch/book/index-j.html

ブックナビの松田編集長には、「夜は短し歩けよ乙女」森見登美彦著をご紹介いただき、これが私の琴線に触れたというか、大ヒットだったので、土曜日この時間に起きることができると必ずテレビをつけてみている。いつも買うわけではないが、こういう恋愛小説系に弱いのかもしれない。って四十歳目前の独身男性が言う言葉ではないのかもしれないが。

この小説に登場する乙女たちを、わたしはおちゃめだな、と思う。なんだか器用にひとの気持を駆け引きしたり、操ったり、探りをいれたり、まるでビジネスをしているような男女が現実には多くて、しかもそういうことがないのが「つまらない」とまでいうひともいて、ホント現実の恋愛って疲れる、と思っている矢先にこの本の紹介があり、飛びついてしまった。そうだよ、男だけが不器用じゃなくて、女性も恋愛不器用体質のひとがいるのが普通なんだろう。あとは、合うか合わないかだけ。なかなか合わないよねえ。70%クリアでさえ、なかなか合わないんだから。「ひとりで生きちゃだめですか?」ああ、いい響き。「恋より愛を」もっといい響き。ミシュランもディズニーも夜景も劇団四季も、全部全部すっとばして、本当はなにか感じるものが、居心地の良さとか共通の趣味とか生活スタイルとか、あってあとは偶然(遺伝子的には必ずしも偶然ではないらしいが)のなせる技で、結ばれたり、結ばれなかったり。おひとりさまに慣れなきゃね。
よりによってクリスマスに人間ドックを受けることになっている。正確には家族持ちのパパさんから交代を持ちかけられて、断る理由がなかった。24,25日はあいにく暇なのだ。連れには姪っ子にクリスマスプレゼントを渡すことのほうが大事だと、はっきり言われた。それにあなたは家族でも彼氏でもないし・・・あいかわらず傷つくことを平気でのたまわっている。いつか襲っちゃろか、全く。そろそろサブプライムも崩壊したことだし、還ってこない投機におい銭を払うのはやめたほうがいいのかもしれません。かくして2008年も不毛に終わろうとしています。たくましく生きなきゃね。

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ポスト金融資本主義

「すべての経済はバブルに通じる」小幡績著光文社新書刊を、さくさくと読んだ。「閉塞経済」金子勝著に続いて、バブル発生の必然性を論じた力作。ヴァリューアットリスクという言葉を聞いたことはあるが、きちんと理解できたのは、はじめてだろう。本当に頭のいいひとが書いた経済の説明書、という印象だ。
さて、こうやってサブプライム関連本をあさって読んでいると、いますぐはともかく、100年後200年後の世界経済は、マルクスが予言したように共産主義化していくんじゃないかと思いたくなる。それも旧ソビエト連邦や中国で採用された、単純な社会主義ではない。働くことを楽しむという、従来考えもつかなかった、高齢化社会を背景とする高成熟化社会が、世界の在り方を変えていくという大きな変化を生じていくのではないかと思いたくなる。
「いちにち三時間しか働かない国」マガジンハウス刊という書籍がある。全世界が生むだす、新たな付加価値は、世界を十分に豊かにするだけの経済力をすでに持っている。これを用いる方法を変えれば、いちにち三時間しか働かない国は、実現するかもしれない。すくなくとも日本よりはるかに労働時間が少ない豊かなくには、いくつも存在する。
ノーベル平和賞を受賞した、ムハマド・ユヌスはマイクロマネーという概念で、貧しい国に豊かさをもたらそうとしている。複数の経済学者が指摘しているように、まだ豊かでない国や地域があるからこそ、経済が成長するのだとすると、豊かさの輸出が、この混迷する世界を支える唯一の処方箋なのかもしれない。
ムハマド・ユヌスは「貧困のない世界を創る」という。そしてその背後には、フラット化する世界で指摘されたように、グローバル化した経済が世界をつなぐことで、世界が平らになっていく。情報が、世界を平らにする。そこに米ドルという貨幣の下落が追い打ちをかける。それは米ドルの下落ではなく、先進国通貨どのものの下落かもしれない。物々交換、実体経済こそが経済である、というファンダメンタルな世界が、あるいは出現するかもしれない。世界がインフレーションを許容しないのであれば、なおのこと、無防備に増刷される貨幣はただ価値を下落させる。ものをつくらない、金融立国がまやかしだとだれもが知った今、タイとイランは、米と原油を等価交換する契約を結んだという。貨幣ってなんだっけ?と改めて考える時期がきたのだろう。

お金、地域通貨、マイクロマネー、物々交換、・・・バブリーな花男、小室哲也逮捕、リーマンブラザーズ破産、・・・やはり時代は変わっているのではなかろうか?

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シルク・ドュ・ソレイユ

行ってきました、シルク・ドュ・ソレイユ ZED.。朝からマンションのカギは壊れるわ、前日に連れから熱っぽいとメールがきて無理かな、と考えたりとか、雨が降りそうとか、なんだか「行くな」と言わんばかりのマイナスオーラを感じていたのですが、でも行ってきました。とにかく、最高!
私はラスベガスに行ったことがありませんが、世界のエンターテーメント、ショービジネスはこんなに洗練されているのかと思いめぐらせずにはいられないぐらい、素晴らしい。ショーのテンポ、音楽、構成、ストーリー、テクニック、そして観客との一体感。どれをとってもブルーマンのように、日本のエンターテーメントにはない、なにかふしぎなものが宿っている。
ひとの肩の上にひとが立っている、それが四段というだけでもすごいのに、それがリズミカルに芸術性を伴って魅せられる。ジャグリングは、あまりに高度なせいか、二度落としていた。いいじゃないか。空中ブランコ。テレビの画面で見るのとはわけが違う。じぶんの目の前で、すごく近い位置でリアルにひとが舞っている。そう、ひとが舞っている。それも男性も女性も、まるで羽が生えているのか、妖精かのように華麗にきれいに舞っている。これをサーカスとは言わない。高度に芸術化されたショービジネスだ。
このショービジネスを常設ステージを作って来日させるために、多額の投資をオリエンタルランドは行ったという。確かに来場者の客層は私を含めてTDRの主要客層と異なる。しかしながら私自身、10数年ぶりにTDRへ足を踏み入れるという、オリエンタルランドにとっては想定通りの顧客になった。TDRでは得られない、(相乗効果を生みうる)エンターテーメントにオリエンタルランドは投資した。いまの日本で、財布のくちを開かせるには、このような仕組みがいるということなのか?
ウィキッドや、シルク・ドュ・ソレイユのようなエンターテーメントなら、私は今後もお金を払うだろう。映画や演劇を観るのと同じ感覚でチケットを買うだろう。安い、高いではなく、満足するエンターテーメントを見たいから。
そういえば席にはドリンクホルダーがあり、またかなりのゆとりがあった。東京の感覚ではちょっとめずらしい。日本が成熟した証なのだろうか。

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ビジネス実務法務検定

ついうっかり、無駄遣いをしてしまった。気がつくとビジネス実務法務検定の受験料納付済み控えと、二級三級の問題集、テキストが自宅に届いている。さていつ申込みしたんだろう?しかも受験料とこれらの問題集、テキストで三万円ちかくかかっている。ふところの厳しい今のご時世にどうして三万円も無駄遣いしたんだろう。
そうだ、思い出した。締切間際に、「もう締切ですけど、こんな試験があるので受けてみてください」と紹介があったのち、酔っぱらった勢いでパソコンでかたかた申込したんだっけ。あーもったいない。いや勉強するつもりがまったくないのではない。そうではなくで、「いま」勉強する気分にまったくなっていないのだ。
確かに会社は、民事再生の申請をして、大半の社員は時間をもてあましている。そう、スポンサーが決定して、債権者の皆さまから再建計画の認可・了承をいただくまで、事業会社としてなにひとつ事業がすすめられないのだから、大半の社員はひまになる。まいにち会社に来てもすることがない。倒産した会社とは、こういうことなのだろう。しかし私はそうはいかない。スポンサー選定準備やら財産評定やら、やるべき仕事が山積していて、時々カプセルホテルどまりになるほど仕事がある。だから乗せられて、ビジネス実務法検定の受験勉強などしている余裕はないのに、つい無駄遣いしてしまった。
いまだにテキストも問題集も開いていない。受験票には12月14日試験日と書いてある。あーあ、どうしようかな。一回ぐらいテキスト読もうかな。三万円、投資する先を間違えたなあ。自らの短慮に深く後悔。

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さようならお姉さま

ふと手に取った雑誌に、なつかしや、お姉さまの記事がでておりました。一般の雑誌に記事がでるなんて、なかなかできることではありません。生活スタイルを紹介するページに両面見開きで、写真付きでご紹介されておりました。
どきどきしながら内容を読んでいくと、じぶんとのあまりの生活スタイルの違いにびっくり。定期的にご自宅でパーティーを催しておられるそうですが、わたしにはとても考えられません。なぜなら整理整頓とは程遠い状態が常であり、パートナーがいたら「片付けなさい」と一喝されるような生活スタイルが、すっかり身についてしまったから。われながら、きたない。掃除していない、ということではなく、あっという間に増える書籍や郵便物、書類の数々に、手が追い付いていない。とても人さまをお招きする状態にない。残念ながら、ない。
しかもご自宅にワインセラーを購入し、お客さまのおもてなしされるという。これもないなあ。なぜなら、あらゆるアルコールのなかで、ビールとワインの相性が悪いことがわかっているから。特に赤ワインがまったくだめ。白のほうがまだまし。できれば飲みたくない。飲まないアルコールは、たとえば缶ビールのように数か月ほったらかし。おいしくなくなる。
パーティーの準備や後片付けは、たぶん全く苦にならないが、定期的にできるほどじゃない。そういう感覚にはたぶん生涯ならないだろうなあ。人の集まる場所は、どちらかというと苦手だし。ひとりがすき。または、ひとりの時間がないと、精神の安定を保てない。
いまの連れが、おなじことをいう。ふたりで住むなんてありえない。ひとりがすき、ひとりが楽。つまり似た者同士、ということか。
おねえさまには、いっぱいゆめをみさせていただきました。こんな素敵なお姉さまとデートできたら楽しいだろうな、とか想像して。でも想像だけのほうが、幸せみたい。現実は、それまでの人生がすべて刻まれたうえの選択だから。おねえさま、すてきな思い出をありがとう。そしてさようなら。あなたは理想の姿のまま、アルバムにとっておきます。決して手の届かない場所にあることに感謝して。

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リヴァイバルプラン

民事再生の手続きも大詰めを迎え、年末までにはスポンサーを内定できるのはないか、と言われ始めた。裁判所に再生計画案を提出する段取りが徐々に見えてきた、ということだ。ところが「どうして民事再生を申請することになってしまったのか」「スポンサーがついたあと、いったい自分たちのビジネスは、どのようにしていくことに最も可能性があるのだろうか」といったビジネスプランに関する検討は、なにひとつ誰一人手をつけていないことがわかり、驚いてしまった。
民事再生手続きで要求される民事再生計画は、会社を解散するほうが債権者の回収価値が高まるか、それとも企業の営業を継続して回収を図るほうが債権者の回収価値が高まるか、を判定するに留まり、具体的なビジネスの再建策、いうなれば日産に乗り込んできたゴーン氏が提案した、リヴァイバルプランに相当するものは、含まれないという。至ってシンプルな法的手続きなのだ。「手続き」という観点では、その法的整理は、たいへんありがたい仕組みである。他方、リヴァイバルプランが法手続きから外れているために、実際の事業再生においては、最も重要な部分を誰かがいつかやらなくては、ならなくなっている。スポンサーがやるんだろうか?いやスポンサーは定量的に当社の事情はわかっていても、定性的すなわち当社の人的組織力であるとか、カラーであるとか、マインドの部分を知る由はない。経営者を除く、各部門のトップはスポンサー候補からインタビューを受けているそうだが、そのインタビューを通じてスポンサーが得た内容が、当社のカラーだとか企業文化だとか、言えるだろうか。
そんな思いから、社内の有志をあつめて、自主勉強会をスタートさせた。「なぜ当社は民事再生に至ったのか」「なにが当社の強みであり、弱みなのか」「これからどういうビジネスで飯を食べていくのか」「すべての社員を幸せにするシナリオはなにか」など、それぞれの課題、思いを胸に、これから約一ヶ月半議論を詰めていくことになる。
これってほかの民事再生申請会社はやっているんだろうか?当社は、幸いにして民事再生申請後も、大量の退職希望者がでている状況になっていない。他方、会社側でも資金繰りは厳しいはずなのに希望退職も退職勧告もしていない。当社本体の雇用はすべて継続されている。子会社はすでに整理の対象になっており、容赦ない人員整理が始まった。親会社子会社の違いは、こんなところにでるということなのだろう。M&Aする価値がある会社、価値がある部門だけが生き残り、そのほかは会社整理(破産)の道をたどる。不動産ビジネスにおいては仕方のないことなのだろうが、経営に対して腑に落ちないなにか、いやなものが心に残る。

いま読んでいる本に、ネット社会における「ブログは落書きだとかんがえるのが健全な精神である」、と記載されている。(「googleが消える日」小山雄二著 カナリア書房刊)このブログを書き始めたとき、私自身の気持ちは「王様の耳はロバの耳」であった。その当時から、きわめて正確にブログという落書きとしての一面を直感的に理解していたということか。そしていまも残念ながら、「王様の耳はロバの耳」という気持ちは変わらない。ただリアルな世界では、変わることを信じて活動を始めている。オバマ氏もいっているではないか、Yes、We Can.変わらないことには、なにも始まらない。齢四十を前にして、まだまだ変わろうとしている自分を、写真のように記録しておきたい。

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解雇通知

わたしのことではない。関連会社にいる友人が今月末で解雇する通知を受け取ったと、昼休みに聞いた。粛々と民事再生の財産評定やスポンサー選定に取り組む身には、友人の報告を大変残念に聞いた。それも社内の掲示板には、関連会社がMBOで株式が譲渡されたと報告されているのに、実際は一部社員の解雇につながっているという。その内情は、会社内の派閥争いであり主導権をめぐる合併会社被合併会社間の仲たがいだというから、これも悲しい気持ちにさせられる。
もっと早く、強い会社をつくるための本格的な動きをするべきだったのだろう。もっと早くグループ体力をつくる動きができていたら、友人を不幸な立場に追い込まずに済んだかもしれない。
「経営」というものが手の届かないところにあるものとばかり思っていた。気がつくと、経営者が「経営」していない、いまのこの状況がある。経営ってなんだろう?スポンサーが決まった後、わたしたちはどうやって食べていくんだろう?まさかスポンサーに「おんぶに抱っこ」とはいくまい。自分たち自身で「なにができるのか」「なにをするべきなのか」棚卸しようと、自主勉強会を立ち上げたばかりだというのに、その前に「経営」の意思決定は、人をバラバラにしようとしている。せっかく集まった優秀な人材だというのに。
先月もたくさんの同業他社が倒産してしまった。破産になった会社の社員は、給与も退職金もなく、ただ職を探す羽目になる。当社の社員をそういう目にあわせてはいけない。ただ飯を食わせるわけにはいかないが、会社に残ってもご飯が食えるということを、ちゃんと証明しないとどんどん転職者が増える一方だ。それも「できる」社員が去っていく。これでは企業として存続が危ぶまれる。リストラを断行して、「できる」ひとに相応の待遇をすることが前提だ。経営責任を明確化しないことには、社員が納得しない。では経営責任とは、役員が退任することなのだろうか?わたしは違うと思うのだが・・・
でてしまった解雇通知を残念ながら撤回してあげることはできない。しかし新スポンサーに有能だと推薦することはできるかもしれない。不動産ビジネスをきちんととらえなおして、いま「できること」を見つけたい。この試練はそんなふうに私を変えたのだろう。

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ニュースキャスター 第三回

はたして第三回目はいかがでしたでしょうか?すっかり慣れた(キャスターが?いや視聴者が?)オープニングから、しばらくは普通の展開。「今週の7DAYS」でなかった、今週の話題も流してみていた。そのうち気になる話題が。
「水のいらないトイレ」これは商品になる。しかもコストが安そう。おがくずなら、木が生え、それを生活に使うために伐採している国ならどこでも手に入りそう。作り方さえわかれば、どこでも製品化、商品化可能になるかも。いや日本の特許よりも国際特許のほうが必要だったかも(そんなものがあるのかしら?)。
ノーベル賞を取るような、技術の進歩は大事だけれども、いまある身近なもので、いまある身近な問題を解決することは、もっと大事のような気がする。ちょっといいかえると、考えること、工夫すること、努力することが大事。1%のひらめきと99%の努力なんて、言い古されたことばなのかもしれないけれども、いまのわたしたちは、忘れかけていないだろうか?マニュアルがない、やったことがない、経験したことがない、そういう場面はいくらでもあるはずだ。それが実際にその場面に直面すると右往左往してしまう。いま多くの同業他社が直面している、バブル崩壊に似た市場状況や、それにともなう会社整理などの事業縮小なども一例かもしれない。前半の特集にでていた、「しらみ」の話もそうだろう。じぶんは経験もやりかたもわからないけれども、誰かは知っている。または知っているかもしれない、あるいはもしかしたらじぶんの知っている別の知識で問題の解決ができるかもしれない・・・そういうこと、考えなくなったなあ。じぶんの頭で考えなくなってしまった気がする。いけないいけないと、わかっていながら、つい法律が、とか判例が、とか通達が、とか専門的な知識がないと問題が解決できないような、思考停止状態を自ら作り出すくせができてしまっている。そうじゃない、常識で考えたら、どう解決するのが公正だとか、公平だとか、実務的だとか、そういう思考訓練をしないとトラブル対応ができないじゃないか。
ふと番組をみながら、そんなことを考え、他方今回は取材テーマに救われたなあ、と感じた第三回であった。

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ミクシー

友人に招待を受けてミクシーに登録した。前にも書いたかもしれないが、私はミクシーを信用していない。「なりすまし」や中傷、誹謗といった「ネット被害」、ネかまや消費サービスへの誘導など、2チャンネルと変わらないほど、無法地帯だと思っている。にも関わらず、今回登録したのは事情があったためなのだが、さっそく正体不明のメールが舞い込んでくる。
「ブロフみました。興味がありますので会いませんか?」「住所で検索して、同じ住所だったので突然ですがメールしました。まずはお友達から・・・」あたまを抱えてしまった。ブロフになにが書いてある?このブログの紹介ですら、ろくな自己紹介を書いていないのに、ミクシーにはたったの三行、「どこにでもいる変わりものです。詳しくはこちらをご覧ください。」と、このブログのアドレスを張り付けているだけ。また住所検索で検索すると、同じ住所は一万五千件以上でてくる。こんななかから、よく探してくるなあ。機械検索でもしない限り検索不能だろう?なんだかエロサイトにうっかりメールアドレスを打ち込んでしまったときのような後悔が私を包み込んでいる。
善意に解釈すれば、上記のメールもまったく悪意のないものなのかもしれない。しかし、かつてニフティのパソコン通信サイトで、エンドレスの「レス」地獄に自ら陥ったことがある身では、さまざまな事象に注意をせざるをえない。かかわってはいけない人たち、かかわってはいけない「落とし穴」がいくつもネット上には存在している。こういうことは、いまは小学生にこそ教えるべきだろう。ネットは、にんげん社会そのものの縮図なのだから。
できればアカウントを閉じてしまいたいが、都合により閉じることができない。いっそプロフィールもすべて非公開にしておけばよかった。これから毎日、見たくないメールが来るのだろうかと想像するとぞっとする。マイミク?まったく興味なし。リアルなにんげんや、リアルな体験、リアルなことばにこそ、興味あれ、フィクションの世界には、どうもなじめない。旧世代と呼びたければ呼べばいい。私はネット上の出会いは、怖いものだと思っている。

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ニュースキャスター 第二回

先週、あまりの痛々しさに堪えかねずコメントを書いてしまった「ニュースキャスター」を今週も観てしまった。先週で慣れたのか、ウケが取れなくても、話がつまらなくても、流せるようになってしまった。つまり期待度が下がった状態で観ると、普通の番組になった。無理しない番組にした、そんな印象だ。
無理しない番組構成、無理しない面白さ、無理しないコメント、無理しない情報・・・で、なんなのだろう?第一回目の反響を受けて、番組スタッフは、視聴者のニーズを何だと判断したのだろう?やっぱりよく伝わらない。意図がよくわからない。おそらく日本の芸能界でトップと思われるたけしをもってして、番組スタッフがうまく伝えられていない、その消化不良の部分はなんなのだろう?ディレクションのなさ?それともばかばかしさの欠如?お祭り騒ぎの不足?いずれもブロードキャスターとの比較でしかないから、視聴者であるこちら側の問題なのかもしれないが。
番組の継続が決まって、とりあえず安堵したと思われるコメントを残したたけし。そのブラックなコメントをあえて無視した、ほかの出演者。でも、どうしても半年持つかどうか、私は不安でならない。これがテレビの抱える問題なのだろうか?
最近、意図的にテレビをつけず、本を読んでいる。するとテレビを見なくても生活ができることに気づいてしまう。困るのはカラオケで歌う歌が古いものに固定されるぐらい。もとよりスポーツ観戦に興味がないから、オリンピックもプロ野球もJリーグも観ない。したがって長い時間連続してテレビを観ることがない。あるのは見たい番組のみを選択してみることだけ。極論すると、地デジによりテレビが見れなくなっても、困らないかもしれない。ちょっと困るぐらいで。
番組スタッフに、いましばらく自問自答を続けてほしい。なぜブロードキャスターをやめて、ニュースキャスターをはじめたのか、このニュースキャスターをどうしていきたいのか。たぶん、来週も気になってみてしまうだろうけど。

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こんな日本でよかったね 構造主義的日本論

いったいこの本は、エッセイなんだろうか、コラムなんだろうか。とにかく久しぶりにゲラゲラ笑いながら本を読んだ。別にタレントが書いた本でもないし、テレビ番組の脚本家やシナリオライターが書いた本ではない。著者は女子大の教授をなさっている内田樹氏。失礼ながら、この方の本を読むのは初めてだが、他の著書も面白そうだ。
ことばのちからの限界、そういえば大学時代によくそういう話していたなあ。ことばが先にあるんじゃない、感情とか欲求とか、ことばを聞く、あるいは受け止める受信者である他者がいて、はじめてことばが成立するのであって、じぶんひとりであったらことばは成立しない、とか、じぶんが発したことばが相手に「受容」されてはじめて、コミュニケーションが成立する、とか。そうか、他者の存在を前提にしなければ、ことばで考えることもないし、考える必要もないし、そのことばは他者から教えられたものであって、自分オリジナルのことばって、もしあったとしても相手に通じなければことばの機能を果たさないわけだから、ことばはすべて他者のことばだよなあ。じゃあ、わたしってなに???そんなに不確かな存在なの???確かにここにある(あれ、本当にあるんだっけ?)のに?そうか、こうやってパソコンに向かってなにかを打ち込んでいる自分さえ、他者の存在を前提とする行為そのものだよなあ。。。
「正義の実現と無償の贈与は両立しない」「おとめごころを学ぶ」「変革がすきなひとたち」「ニーズは(中略)サプライヤーの側が創り出すものである」などなど、後段で特に大笑いしてしまった。フェミニズムは死んだってこういうことだったのか。別に運動そのものが間違っていたわけでも、意義がなかったわけでもない。(仮想敵国である)男尊社会というテーゼが間違っていたことに伴う、自爆だったということか。弱者の論理は強者がいて成り立つものだが、強者がそもそも仮想敵国であって存在しなかったり、あるいは主張そのものが別の弱者の犠牲のもとに成り立っているならば、それは自己崩壊してしまう。ラディカルな革命思想と、いまそこにある現実との融和は、それでは達成されない。著者のいう、どうして全とっかえなの?修理しないの?補修しないの?は、ごく自然な話である。そして男女雇用機会均等法に関する、為政者の「誰も反対しない」不気味さについての指摘も面白い。そうだよね、だからワーキングプアとか格差社会とか、生まれてきてしまったともいえるものね。こんなふうになるとは、だれも思っていなかったけど、経営者だったら、人件費は安いほうがいいもんね。働き方の自由、とかいって、契約社員とか日雇い労働とか、多数の労働者を、雇用契約が弱い状態に追い込んだよね、企業は。資本主義ってそういうことなのかもしれないけど。
最近、サブプライム関連の考察を読んでいると、金融資本主義経済において、バブルとバブル崩壊は、有り余ったお金が有利な運用先を求めてあてどなく動くために、構造的に繰り返されるようになってしまった、という記述を何回か目にする。たぶん、そうなんだろう。そしてその損失を埋めるために、世界中の市民の税金が投入されるなんて、なんておかしな経済社会をつくってしまったんだろう、と思う。もう消費が行き渡ってしまうと需要は創り出すしか道はないし、誰かが消費してくれないと、給料も増えなければ雇用も増えない。世界経済全体が、もう完全に水ぶくれしてしまっている。じゃあどうすればいいのって、答えは意外と単純で、資本主義経済のルールに乗らなきゃいい。おかねにならない通貨単位の流通が世界を救う。(たぶん)そして世界の平和は、正義の実現だけではできないのだろう。混ざらない水と油が、エマルジョン効果で一体化しているように、正義と無償の贈与(愛?ノブレスオブリージュ?)が、なんとなくいい具合に一体化している状態こそが目指すべき社会の在り方なんじゃなかろうか?
拝金主義のみなさまには申し訳ないけれども、お金がいくらあっても、幸せになれるとは限りません。常にお金がなくなってしまうかもしれない恐怖と隣り合わせなんて、それはそれでつまらないと思いますよ。お金はつかってこそ、価値があるものですから。
なるほどねえ、機能に着目して考えると、いろんなことが違って見えるよねえ。いろんなことに目線を上げてみてみないと。不要なものは不要、よけいなものは買わない、サービスの提供を受けない。当たり前のことだよね。壊れたら直す。どこが壊れたか、確認する。あたりまえだよね。無駄遣いしない。無償の贈与を侮らない。正義がすべてじゃない。部分最適じゃない、全体最適なんだ・・・ああ、すっきりした。この本を面白いと感じてくれる人が、ひとりでも増えてくれるとうれしいな。

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100円のとうもろこし

スーパーで一本100円のとうもろこしを買った。(とうもろこしが100円?なんか安いなあ、けど夕飯をしっかり食べるほど、おなかも減っていないし、とうもろこし一本となにか一品あれば今晩の食事は十分だろうから、ほしいなあ。大丈夫なんだろうか、これ?)
自宅に持ち帰って、皮をむいてみてわかった。粒がきれいに並んでいない。ああ、農家の方は、こんなことも出荷するときにわかるのね。もしくは、卸売市場に出荷して、出品してみてびっくり、実がばらばらでがっかり、二束三文で取引された結果、一本100円で売り出されているのかな、と想像してみる。とにかくゆでてみる。適当に時間を見計らって、食べてみる。実が甘くておいしい。自分は、どちらかというとベジタリアンだろうといつも思うが、それにしても久しぶりに口にした一本のトウモロコシは、おいしかった。
じゃがいもやニンジンや玉ねぎやピーマンや、一個いくらで買うことが多い。だから小学校の算数よろしく、ジャガイモ一個30円なのか68円なのか、ニンジン一本40円なのか80円なのか、昨今の物価上昇は目に見えて実感した。少なくとも単品の野菜は実感として倍になっている。だから、一本100円のとうもろこしは、ありがたい。本当は、(農家の方とWIN-WINの関係になるためには)一本100円ではいけないのかもしれない。けれども消費者のお財布は、残念ながら高くなったら離れざるをえない。そうでなくても、民事再生の申請に伴って、冬のボーナスが出るはずもなく、それどころか来年夏の賞与もあてにできない。日々の給与で、すべてをまかなうことが必須になっている。にもかかわらず、パソコンは壊れて新調せざるを得ないは、もの入りの九月十月をむかえるは、通勤定期は切れるは、金銭的にはかなり苦しいと言わざるをえない。だからこそ、100円のトウモロコシがとてもありがたい。
ふと農家や酪農家、漁業関係者の方々など、一次産品を支えていただいている方々に申し訳ないな、と考えることがある。けれども生産したものが、買われなければ、それは経済として成立しない。クルマも、保険も、マンションもいっしょ。ただ日常の消費財か耐久消費財か、サービスか、という違いだけ。お金を稼ぐということは、難しいということです。
今の会社の再生が失敗したら、ほかの会社で雇ってもらえるよう、自分の市場価値を高めておかないとね。(値段でなくて、中身なんだ、と言ってくれる人も、いまはいないしね)

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麻垣康三

福田総理が辞任されるようです。与党では、また総裁選の準備とか。毎年総裁選とは、手間がかかって大変ですね。わたしは与党支持でも野党支持でもなく、そのときそのときで支持政党を変えるので、選挙になったら考えますが、それにつけても与党の総裁選のほうが、まだ野党の代表選挙より活気がある、(失礼)または人材が豊富にみえるのは、わたしだけでしょうか?小泉さんのように、挙党一致ならそれもおかしくありません。が、そういうわけでもなく、選挙のための党首選びで、そのあとは知らん、では白けてしまいます。与党も与党です。麻垣康三という四名の名前がポスト小泉として、あがっていましたが、総裁選に麻生さんの名前をみて、「あ、谷垣さんは飛ばすんですね。それともトリですか?」といいたくなります。小池さん?なにを公約するんでしょうか?与謝野さん?石原さん?いま、出番でしょうか?財政再建が必要なことはわかっていますが、政治的においしい政策をやり尽くした後、国民に負担を求める、いわば「おいしくない料理」をいま、国民は受け入れますか?ちょっと出番じゃない気がします。そうすると麻生さんか小池さん?どっちでもいいです、今度は一年で交替しないようにやってくださいよ。そうでなくても、経済を国としてどうするのか、空白になりそうなんですから。

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人はなぜ恋に落ちるのか

会社が倒産さなかだというのに、枕もとにあったこんな本を読んでしまった。著者は人類学者だという。オラウータンやシベリアンハスキーなど動物の「ひとめぼれ」について書いてあるかと思えば、恋愛中の男女の脳をMRIで調べて、どんな脳内物質が恋愛を活発化するのに作用しているか、などいままで聞いてことがないような世界を楽しませてくれた。

残念ながら、飲み屋のうんちく話にはちょっと向いていない。まじめすぎるというべきか。「恋の寿命は12か月から18ヵ月」「『人間は四年で離婚する』には生物学的根拠があった」などトリビアネタのオンパレードだが、どうも堅い。夫婦生活が長く続くのは、快感を得ようとする脳の動きから安心を得ようとする脳の動きへ変化するだとか、だから不倫は起こりうるとか、不倫は動物にもあるが、子育ての状況により雄雌の対応が変わるとかとか。読んだら、かなり面白いものの、ちょっと恋愛がつまらなくなるかも。だって恋愛が「科学」されているんですよ。研究が進めば、恋愛体質でない人を恋愛体質にするとか、その逆で惚れっぽい性格の人をホルモン抑制注射なんかで「治療」しちゃうとか、そんなことができてしまうんじゃないかって疑いたくなりますもの。そんなことより、目の前のすてきなあの娘を、どうやって口説こうかというのがオスの本性で、なかなか口説き落とせないものにより強い達成感・快感を感じるという研究成果で、わたしは十分ですから。

連れとデートするたびに「彼氏じゃないですから」ときっぱり言われて、しょげている。まあ年の差が離れすぎているせいか、それともオトコとしてデリカシーやセンチメンタリティに欠けているのか、いろいろ理由はあるんだろうけど、少しぐらい期待持たせてくれてもいいのになあ。それとも「他に行け!」ってどこかの誰かのように言うんだろうか。この本には、わたしの直面する当面の悩みへの回答はなかったみたい。またガンバロ。

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落日

勤務先がとうとう民事再生を申請して、法的手続きに入った。ひっそりと、しかしドミノ倒しのように影響がゆっくりと広がっている。関連会社が営業していたレストランは閉店し、かつて四年の歳月をかけて再生したリノベーション案件からは当社の名前を記した石碑が削り取られていた。経済競争に敗れるとは、こういうことなのか。
最近読んだ本に、デベロッパーが開発する際にロマンはいらないと書いてあった。必要なのはマーケットのニーズを追究する目と時代を読む感性、そして顧客目線だろうか。自社開発物件のひとつで晩御飯を食べたが、そんなに大きく間違った開発をしているとは思えない。時代を味方にできなかった、もしくは風を読む力が弱かった、そんなところではないか。
残念ながら常識を疑う取引がいくつか過去に行われている。いずれも、いまならコンプライアンス違反を疑われるかもしれない。その当時のつけを、何年も何年も払わされ、ついに払い切れなくなった、もしくはもう払う必要がなくなったからこうなったということか。
いずれ破産するのだろう、と残念ながら思う。しかし希望を持ちたい。大手デベロッパではまず携わることのできない開発案件を、例えばわずか入社三年目に任せる、この会社の社風を残せるなら残したい。世間の常識から外れていても、そこにニーズがあるなら拾ってみたい。夢物語だろうか?私自身のためというより、後輩たちのため、若者たちのために。

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闇のこどもたち

今日は急に休暇となったので、昼までごろごろしていたのだが、思い立って「闇のこどもたち」を観にいった。昔からルポルタージュやドキュメンタリーが好きだったが、今回のテーマは重い。ペドフィリアというのだったろうか、幼児性買春や臓器売買を扱っており、こういう問題を映画という形で国際世論に訴えることができるようになったことが、舞台となったタイの成長であり、製作&上映している日本の成長なのだろうか。

その昔、学生時代に安旅行したタイのバンコクは、安宿にいたからだろうか、半裸の外国人女性から麻薬と思わしきたばこ状のものを普通にすすめられるほど、ガイコクだった。モラルと治安に守られた日本にいては、まったく理解できないぐらい、自分自身の強い意志と行動により、自分自身を守らなければならなかった。そしてその当時から、児童買春の問題があった。あれから約20年、スクリーンに描かれた見るもおぞましい世界は、残念ながらその当時となんら変わっていない。救われるのは、タイが経済力を備え、モラルを実行できる力をより強くもったこと、そして少なくない日本人が、国際世論からみておかしいことをおかしい、と声高に言えるようになったことだろう。

ひとは、社会的生活を営む以上、ルールを守らなければならない。ひとの命は、どのような文明、どのような集合体の中においても、等しく尊重させるべきものなのに、時としてその尊厳は踏みにじられる。怖いことに、意図しないうちに踏みにじってしまう恐れすらある。ビジネスの名のもとに?いえ、ひとの新たな欲望のために。自分のこどもの命を助けたい、それ自体は正当な権利に違いない。ではその命は、他の命に比べて尊いと言えるだろうか?あるひとと、あるひととの間に、命の重さの違いなんてあるんだろうか?

格差社会などと言われると、貧富の差がそのまま「生きる価値の差」などと間違って受け取られかねない。いまもむかしも、豊かな世帯は豊かであり、それなりの世帯はそれなりであったはずだ。違うのは、それなりの世帯でも未来への希望があったこと。「蟹工船」がベストセラーになるようなご時世で、豊かなものが豊かなものの義務を果たさない限り、世の中に希望は生まれないのかもしれない。それがノブレスオブリージュであり、高いモラルの実現なのだろう。ひとは、自らの欲望に忠実にいきる生き物であり、だからこそルールが必要なのだと思う。それが法律であり、モラルであり、尊厳なのだろう。

モラルは時にひとを苦しめる。欲望に勝たなければならないから。そしてルールを破るひとは決してゼロにはならない。なぜなら、それがひとの欲望だから。だからこそ、限りなくゼロにする努力をたえず続けなければならない。いつかゼロになることを願って。

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また離婚

わたしの身の回りで最近二件の離婚を聞いた。一件は古くからの友人。一件は職場の同僚。職場の同僚の話は、先週飲み会できいた。もう一年前になるらしい。離婚するような、不仲な話はなにもなかったはずなのに、「離婚したの」とあっけらかんと言われると、驚いてしまう。しかも結婚準備中とか。新しいパートナーと一緒になるために離婚したなんて、信じたくはないが、神経を疑いたくなる。まあ女性にはそんなこともあるのだろうか。

友人の話は、ようやくか、という気持ち半分、いまごろか、という気持ち半分。ずっと前から人生の価値観の違いを認識していたはずなのに、こどもが生まれたからか、毎日のようにケンカしながらも同居生活を続けていた。よくお互いにそれだけエネルギーの消費をして体力がもつなあ、と昔は思っていた。それが十年も続くとお互いに当たり前になるものかと。先日友人を訪ねて行ったら、友人の妻が「このひととは離婚しますので、あとはよろしく」とあいさつした。正確には離婚はもう成立しているらしいが、同居は続けている模様。まあいろんなひとがいますんで驚きませんが、それにしても十数年おなじ内容でケンカしてきて、その同じ内容で十数年たってから離婚するなんて、わからないものですねえ。傍目に痴話げんかとしか、思っていなかったんですがね。

離婚って女の人から切り出すほうが多いんでしょうね。「あなたとはもうやっていけません」とか「わたしはここをでていきます」とか。いわゆる三行半ってやつが、あちこち駆け回っているんでしょうね。そこまで関係悪化を放置しておくオトコに問題があるよなあ、と今にして思う。けど本当に女性は我慢しなくなったんだなあ、我慢する理由もないんだろうけど。同棲も別居も、結婚も離婚も、本質的には当人同士の意思で決まることには変わりがないんだろうけど、軽くなったなあ。軽くなったのに、他方で友人たくさん呼んで豪華な結婚式やったり、何十万もする指輪交換したり百万円以上かけて新婚旅行したり。よくそんなことにお金を使えるよなあ。いくら使ってもいいけど、消費したものは戻ってこないし、結婚生活に使えない「記念品」「思い出」でしかないし、場合によってはその「思い出」がじゃまになるかもしれないし。私なんか、そんなものばっかり。消したくても過去は消えないから、と諦めているけどね。

離婚しても女性は元気だ。他方、オトコってひよわな生き物だよね、と離婚してひとりになった男性を見るといつも思う。女性のみなさん、相手を選ぶときは慎重に。またとどめを打つ前に警告をしてあげましょう。バツイチ経験者として、お願いします。

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水滸伝

北方謙三著の水滸伝全19巻を完読した。いやあ、私がかつて読んだ一作品では指輪物語以来の活字数だったに違いない。第一巻を手にしたのが、去年の夏だから、約一年読破にかかったことになる。進んだ時期は、一か月に二冊読んでいたが、年が明けてからは三四か月、空白の時期もあった。それでもストーリーを覚えていられるのは、登場人物ひとりひとりが、ひととして深みのある味のある人物としてしっかり描かれているからだろう。108人という数字は、後半になってようやく本文に出てくるようになる。実際、108人の登場人物がいたかどうか、正確な記憶はない。しかし膨大な数の登場人物に、まるで意思を持って生きているかのような表現を与えている。これはすごい。

もともとハードボイルドの作品を読まない。これはひとから勧められて読み始めたにすぎない。しかし、読みごたえは十分にあった。なにを感じた、なにを学んだ、という夏休みの読書感想文のような感想はない。ただ読んでよかったと思う。負け戦のなかで、いかに志を失わず、いかに自分の信念のもとで自分の生き方を貫くか、いまの私自身の状況に照らすと考えさせられるものが多い。

勤務先の株価がとうとう100円をきった。通常、上場している会社の株価が100円を下回るということは、ゴーイングコンサーンの信任を市場から与えられていないことに等しい。水滸伝終盤の、梁山泊陥落寸前の描写は、M&Aを仲介するコンサルティング会社が会社の会議室に常駐し、経営陣が総出で外資系金融機関に出資を要請している姿と重なる。ああ、そういう状況なのね、と。

世間では、北京オリンピックや高校野球が開催中らしいが、とても喜んで観戦する気分にならない。それは負け戦のただなかにいるからだろうか。しいて言えば、水滸伝は私にかっこいい「負け方」を教えてくれたのかもしれない。

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パソコン壊れた

先週末、とうとう5年来使ってきたノートパソコンが壊れた。
修理の依頼をだしたら、5万円弱もかかるという。同じ先週末、日産自動車旧武蔵村山工場跡地にできたダイヤモンドシティミューでみた、ノートパソコンは10万円未満で3機種も売られていた。新品が安いのか、修理にお金がかかりすぎるのかわからないが、気分はすでに新品購入に向かっている。
そして昨日、新品を手に入れた。ネット環境があれば、もっと安く買えたのだろうが、店頭で購入したことを考えると、それなりに安く手に入ったと思っている。問題は、各種ソフトの入れ替え。昔はパソコンの入れ替えに相当の時間を要した。とにかくインストールに時間がかかりすぎる。それに対して、今回はそれほど煩わされずに済むかもしれない。パソコンの性能が高まったせいか、インストールに要する時間が短くなっている。あとは壊れたパソコンからどのぐらいデータを救出できるか、だろう。
おそらくメールはすべて移行不能だろう。住所録と家計簿はやってみないことにはわからない。ノートン360は先日購入したばかりだから、ライセンスを使えるはず。あとは、時間をかけてゆっくりやるか。

思えば長い月日がたったものだなあ。古いパソコンに詰まった思い出とともに、データが壊れるのかと思うと、さびしくもあり、恨めしくもあり、ただ懐かしくもあり。使わなくなった携帯電話を思い出としてリサイクルせずにとっておく人がいるというのがわかる気がする。

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ジョーバ初体験

通っているスポーツクラブで、ジョーバに初挑戦しました。テレビCMではずっと以前から、ひとの話でも何度も聞いてはいたけれども、実物を使うのは全くのはじめて。また、乗ってみたのも、たんなる気まぐれ。

まるで馬に乗っているように、座席が前後左右に動く。機械についている簡単なパネルには、まっすぐ正面を向いてあたまをあまり動かさないように、と書いてある。はい、了解しました。まっすぐ前を向きましょう。周りは女性の利用客が目立ちます。そうですね、美容と健康のためには、ジョーバはよさそうですね。ジョーバの脇にあるヨガスペースで、ジョーバに乗ってる姿をみると、まるで騎上位で動いている姿に見えて気恥ずかしくなる。足腰を鍛えるってそういうことなんですね。ペースが調整できたり、前後だけ左右だけと選べたり、なかなかのすぐれのも。なにも操作しないで、そのままスタートボタンを押したから、どのぐらいの時間動いているのか、わからない。たぶん15分だろうか。自転車こぐのも走るのも15分といえば、厭きてしまう。ジョーバは厭きない。動きがあちこち変わるので、それに体が慣れるまで、少し時間がかかる。けど、周りの利用者は雑誌を読みながらジョーバを利用している。慣れればできるのだろうか?かなり驚き。

ややしばらくして、動きが止まった。終わったらしい。利用している間、利用している男性は私のほか、あと一人だけ。残りはすべて女性。なんとなく顔を合わせるのが恥ずかしかった。ジョーバねえ、日本人ってすごいなあ、こんなものを健康器具としてつくっちゃうんだから。しかも売れるよなあ、こういう器具。あんまり乗っている姿を人に見せたくないひとも多いだろうしなあ。最初に考え出して、「これは売れる」と判断した人は、すごいと思う。

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ARESのパーティその2

あれからまた一年経ってしまいました。ARESのコンベンション&パーティ。今年も東京国際フォーラムですし詰め状態で講演およびパネルディスカッションをきいてきました。サブプライム問題が日本の不動産証券化市場にどのような影響を与えているか、というようなテーマであったが、なにしろ空気がよどんでおり、数時間の間エコノミー症候群になるのではないか、という状態を辛抱しなければならず、講演の内容よりそれがとても辛かった。
サブプライムの話は、話が大分整理されていて、立法上の問題、当事者のモラルの問題、不完全な情報開示の問題など、すでに知っている知識の復習となる話が多かった。講演最後の、「なぜデリバティブ市場で起こった事象により、実物不動産市場が影響を受けてしまうのか」については、残念ながら時間切れとなってしまったようだが、デリバティブ市場の混乱が、CMBS市場に波及し、それが不動産評価に際しての自己資本・借入法モデルを通じて、実物不動産市場に影響している、という説明なのだろう。結局、資金調達すなわち金融市場と切っても切れない資産になったということなんですよ、不動産が。

後半のパーティは、昨年同様様々な業種の参加者が集っていた。推定800人。すごい数だよなあ。もうひとつの宅建みたいになるんだろうか。会員企業や賛助会員にも、「不動産証券化業務やってまーす」という企業の名だたる会社は、ほぼすべて名を連ねている。仲介はもちろん、鑑定事務所、法律事務所、AM会社まで。いまもっとも政治的発言力の強い不動産業団体になろうとしているのではなかろうか?金融庁や国土交通省からの来賓も招いておりますし。さすがですねえ、●井様。業界の地位向上に大きく貢献していますねえ。ま、知ってて当たり前の知識を「認定」しているだけなんですけどね。(ちょっと辛口かな?)

また一年はじまった。そんな気がしています。暑い夏と、冷え始めた市況と。メシ食わなきゃいけないんだけど、みなさん本当に大変そうです。それでも将来的にはかの国より、オフィス需要に期待できるそうなんです。人口、増えないのにね。すでに起こったことをあとから解説するのは、もしかしたら簡単なのかもしれない。これから起こるであろう事を、断片的な情報から予測して常にビジネスジャッジを迫られることに比べてね。

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ふう

六月末の危機的な状況を何とか乗り切った。やっと一息。この月末、多くの中小不動産業者が事業継続の危機に瀕しているはず。聞くところによれば、3月末にコケルするはずだったところが、金融機関が三ヶ月間限定でロールオーバーに応じてくれたため、なんとか息がつながっているという。その六月末を明日迎えようとしている。資金調達が出来なければ、それだけで不動産という流動性に乏しい資産を抱え持つ不動産業者は、「黒字●産」のリスクを抱え込む。どうも不動産業者だけの話ではないらしい。不動産金融業者のなかにも、担保不動産の差し押さえ、所有権移転をすすめたものの、肝心の担保不動産が処分できずに「黒字●産」リスクを抱えているところがあるという。
困ったものだ。不動産と聞いただけで、「うさんくさい」「あやしげ」「騙されそう」と思われる。大手も中小も、事業としての内容は、そんなに大きく変わるものではない。規模の違いや、目立つ目立たないはあるにせよ、ひとが考えることには、大差はない。確かに、不動産の証券化を通じて不動産取引の情報は開示されるようになった。「いつ」「いくらで」「だれが」「どのような目的で」「どんな根拠に基づいて」買ったのか、わかるようになりつつある。いうなれば不動産業者の手の内が、どんどんオープン化されてくる。加えて最近では、明渡しの正当事由を補完するもの、いわゆる立ち退き費までデータベース化される動きが始まっている。「どこで」「どんな建物で」「どんな商売を営んでいる人が」「どんな条件で」明渡しに応じたのか、データベース化されれば、明け渡しをする側も明け渡しを受ける側も、不信感なく交渉がすすむ。言い換えると、そこにはビジネスが残る。過日弁護士法違反で問題となった事案は、かなりの程度民民の任意交渉で成立する余地が広がるのではなかろうか?国民誰もがアクセスできる参照データがなかったからこそ、専門家が必要であり、「不当利得」の生まれる余地があったのだ。もし一般論が成立するようになれば、離婚訴訟と同じで、相場と離れた交渉をしても法廷の裁定が働くことが認知され、無用の争いが少なくなることも期待されよう。それが健全な市場経済を育成するということではなかろうか。

いわゆる「貸し剥し」がすすんでいるという。特に不動産業者は、大手でない限り「金返せ」とそしりを受けているところも少なくないという。なぜだろう?不動産が下がり始めたからか?「どうしてプロジェクトファイナンスなのに、失敗したら事業会社は資金繰りが厳しくなるの?」と連れに聞かれて、「(日本では)プロジェクトに失敗した事業会社は、事業を成功させる能力がないとみなされて、金融機関から取り立てに遭うんだよ」と答えた。でも、それは正しいのか?連れの疑問のとおり、プロジェクトファイナンスなのだから、ノンリコースレンダーは応分の負担をするべきであって、それが例えば景気の変動によるものなら、不動産会社に責任を「寄せる」のではなく、自らが責任をとるべきではないのか?自らの与信審査能力(プロジェクトファイナンス審査能力)の欠如を棚に上げて、不動産業者にしわ寄せしなければ、株主(たとえば国)に対して説明責任が果たせないというのだろうか?どこまで日本の金融機関は「甘えて」いるのだろうか?それとも金融機関の株主がビジネスを理解していないのだろうか?きちんと経営責任を問えばいいではないか。例えばノンリコースローンのデフォルトは、レンダーの責任でもあるのだから。まるで不動産会社の責任のようにローンを扱うのなら、リコースローンとなんら変わっていないではないか?

ここでいくらぼやいたところで、お金が沸いてくるわけではない。「黒字●産」しないために、とにかく現金を集めるのが先決。短期的に既存株主には泣いてもらう事になるにせよ中長期的に事業を立て直すには、これしか方法がなかった、経営者ならそういうんだろうな。それが株主に「真摯に」伝わるかどうかは別として。とにかくお金は集めた。あとはどうするんだろう?リストラするのかな?M&Aで会社売却するのかな?それとも●産?そんなことしたら、当局に疑われるよ、計画●産じゃないかって。知らないよ、大変なことになっても。とにかく六月はなんとか乗り切れそうだ。よかった、よかった。

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王様の耳は

そろそろ本当にうちの会社、やばいみたい。M&A専門の法律事務所やコンサル会社が日常的に出入りして、本部の偉い人と面談している。保有物件のデューディリジェンスも、提示側からの一次デューディリは完了して、オファーを受け付ける二次デューディリに突入している模様。外部から、「相当資金繰り苦しんでいる?」と聞かれる。水面下で当局対外資系証券会社の駆け引きが続いている。一蓮托生。短い社会人生活で、二度も所属する会社の、ゴーイングコンサーンとしての危機をみるなんてめったにないこと。ますかけ線の影響かしら?
もし悪いほうの予感が当たったらどうしよう?まあ、いままでもなんとかなってきたから、これからもなんとかなるのでしょう。ならないかな?仲間たちは、どうなるの?会社が若いから社員の平均年齢も若いけど、それにしても大変だよなあ。
手が汚れているとか、汚れていないとか、そういう会話が一部でささやかれている。そういう話とは無縁のところにいたはずなんだけど、そうじゃないのかなあ?誰かの不利益になるような、不公平を生む出すような、そんなことは一切関与していないんだけど、言われるんだろうなあ。嫌だなあ。言うほうも嫌なのかなあ。まあ、言うのが仕事の人も、世の中にはいっぱいいて、「仕事、仕事」と割り切れば、その背景なんて考えないんだろうなあ。そうなんだろうなあ。仲間たちも、同じことを言われるんだろうなあ。嫌だろうなあ。
ああ、いやだいやだ。

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初夏の尾瀬

ふと思い立って尾瀬に行ってきました。いままでただの一度も行ったことがなかった尾瀬。なぜ行かなかったか、特段理由はないが、強いてあげれば面倒だったことか。登山用のもろもろの装備を準備したり、山小屋の予約したり、さっと行ってさっと帰ってくるイメージがどうしてももてなかったり。今回それでも尾瀬に向かったのは、昨年初夏に行こうとしていろいろ準備したものがあったことと、週末の天気に恵まれそうなこと、そして一番大事なことが有給休暇を取得できそうだったこと。

夜行バスで尾瀬に向かうのであれば、急にキャンセルになっても、それほど面倒でなかろう。山小屋は、いろいろ準備してくれているのに、急なキャンセルは迷惑この上ない。幸い前日でも申し込み可能とパンフレットに書いてある。それならば、と思い立つ。

当日は、雲ひとつない快晴であった。全くの初心者である私は、鳩待峠から山ノ鼻へ向かい、竜宮十字路、ヨッピ橋をとおり、山ノ鼻へ戻り、鳩待峠から帰るコースを選んだ。鳩待峠午前5:20着。多くのハイカーでにぎわう山小屋周辺で、一人参加の私は、さていつ出発したものか、そこから迷う。とりあえずトイレに並び、用を済ませて、朝ごはんとして温かいうどんをすすり、それから出発。

前日朝から軽登山用の靴を履いていたせいか、心なし靴擦れの気配を感じる。が、「気のせい、気のせい」と割り切って足を進める。滑りやすい石の階段。しかも濡れている。これは靴を選んで正解だった。願わくば、この靴が足と一体になってくれれば、もっといいのに。狭い道を、とにかく大勢の人が歩いている。ズボン下を履くために立ち寄った鳩待山荘の方がいっていた。「今日と明日は尾瀬がもっとも混む日だよ」と。普段は、そんなに人がいないのだろうか。それにしても、ずっと列を成して歩いているさまは、都心部の桜の花見みたいだ。皆、考えることは同じということなのだろう。

山ノ鼻で若干の休憩の後、歩き始める。歩く人の数は、また一段と増えている。ミズバショウが群をつくって咲いている。きれい、と思う前に「おいしそう」と思ってしまうのは、熊の好物がミズバショウの実だと、ビジターセンターでみたばかりかもしれない。振り返ると至仏山が、雪をたたえてそびえている。ミズバショウと、至仏山とのコントラストがとても鮮やかできれい。何人ものビジターが写真を撮っていた。私も一枚。

2008_0607oze0162

この風景を見て、「ああ、尾瀬にきてよかった」と思うのかもしれない。これはきれいだ。この風景をまた(来年も)みたいという気持ちは、よくわかる。ただ花がきれいだということじゃない。これは自然がつくりだす、壮大な絵画だ。

2008_0607oze0163 これはリュウキンカという花らしい。ミズバショウに混じって華麗な花をつけている。

2008_0607oze0166 そしてその花は、せせらぎのある場所に沿って、まるで花の道のように咲いている。

尾瀬は湿原だと聞いていたが、実際には雪解け水が少ないのか、かなり乾燥しているように見えた。湿った土という程度か。池になっているところは、覗き込むと深さが2M近くはあるように見えるが、水が澱んでいる箇所も数箇所、いや十数か所みられた。カッコウとカエルの鳴き声が、交互にいや混じって聴こえ、水が澱んでいるのはカエルの卵かとも思ったが、それにしては人間が持ち込んだ人工的な油のようにも見え、自然を守ることの難しさをみせられた気がする。

尾瀬のトイレは有料制。正確にはチップ制であり、私も一回百円のチップを数回払ってきた。そりゃ大変でしょ。年間数十万人も来る観光地でありながら、周囲を山で囲まれていて、人手に頼るより他にトイレを維持する方法がないんだから。ごみは持ち帰りましょう、とか、梅干の種を捨てないでください、とか、当たり前といえば当たり前のことなのだろうけど、尾瀬を守ろうとしている人の息遣いが伝わってくる。

尾瀬にまた行きたいと思う。しかしその前にもう少し体を鍛えないと。帰り道、両足の小指に出来た豆に苦しんだ。歩けないことはないが、歩きづらい。鍛え方が足りないということだろう。いずれ屋久島の屋久杉を見たいと思っているが、これも体を鍛えてから。翌日は、ほとんど寝てすごすぐらい、体に体力がなくなっている。ちょっと悲しい。また今回はつれもなく、一人だったし。こういう観光はひとりより二人がいい。そういう日は来るんだろうか?ことしもまもなく、折り返しのときを告げようとしている。

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めずらしいもの

マスカケ線ってご存知でしょうか?100人に2,3人いるらしい、という手のひらが「て」のかたちになっているやつ。ときどき下記サイトをみてニヤニヤしています。

ますかけさん大集合http://harui.p.fiw-web.net/masukake/index.html

私の場合、両手が「て」。時々利き手の右手生命線が、薄くなったり細くなったりしますが、手は、「て」のまま。私のブログをあちこち見ていただいた方はお判りのとおり、私の人生は波乱そのもの。ああ、そんなものか。あまり商売っ気には向いていないようだし、ともだち少ないのは、わがままなせいかもね、と少しだけ反省する。

思い出したように、今度は蒙古班を調べてみる。こちらもオトナになって残っている人は、100人に2,3人らしい。まもなく不惑の年を迎えるというのに、スポーツクラブの姿見で振り返った私のでん部には、蒙古班がしっかり残っている。少年のまま、大人になった私・・・

掛け算すると、両方満たす確率は、0.03×0.03=0.0009だったかな?いや1-(0.97×0.97)=0.0591だったかな?いや0.0009だよなあ?・・・とても大学時代に統計学を専攻していたとは思えない、おそまつな知識しかない・・・とほほ

流行書になっているらしい「A型自分の説明書」「B型自分の説明書」を買ってしまった。立ち読みで読んで、あ、面白い本だなとは思っていた。買わなくてもいいのに、つい全部読みたくなって買ってしまった。よくA型的性格とか、B型的性格とか、いうけれども、それって後天的にそうなっているのかな、とも思う。A型でもB型っぽい人はいるし、B型も同様。ただきっちりしたひとと、のんきなひと、協調的なひとと、マイペースなひとが、世の中にはいて、それを血液型にかこつけて、名前付けているような気がする。上のますかけ線も、そうなのかも。天下つかむ手、とかいわれて、はりきっているうちに、そうなっちゃった、とか。いちいち説明するより、血液型別性格とか、ますかけ線とか、類型つくってもらったほうが、説明するほうもラクかもしれないし。

ホントは、なんの類型も関係なくて、ただそこに、そのひとがいるだけなんだろうけどね。

あしたから、またお仕事。先週は忙しかったなあ。平日は自宅に一回しか帰ってこられなかったし。これじゃあ、いつまでも独身のままだなあ。家族がほしいなあ。こどもの運動会いったり、嫁さんの愚痴聞いたり、こどもに勉強教えたり、会話しながら食事したり。平凡な生活ができないから、平凡な生活にあこがれるのかなあ、それって贅沢だよなあ。・・・途方もないばかだな、おれ。

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スカイデッキin六本木ヒルズ

行ってきました、六本木ヒルズのオープンスカイデッキ。さすが日本で一番高いオープンエアの展望施設だけあって、迫力が違う。屋上はやっぱり気持ちがいい。最高です。森ビル様、ありがとう。

品川も汐留も、大手町も新宿も、すべて一望。東京って意外と緑が多いのね、と感じつつ、ほほを伝う新緑の風がとてもきもちいい。「デジカメ持ってくればよかった」と、横で連れがいう。しまった、デジカメかばんから取り出して手元にもっておくんだった、と後悔。なにせ、いまだかつて、一枚も写真を撮らせてくれないのだから、絶好のチャンスだったはずなのに、逃してしまった。ああ、なんて間抜けなんだろう。

都合、オープンデッキを二周。「あれはなに?」という質問を不動産屋の知識をフル動員して回答。それでもわからないものがいくつかでてくる。まだまだ修行が足りないようで。我ながら、本当に不動産屋で、しかもデベロッパーなの?と思いたくなる。

東京は、背の高い建物が多い。しかも点在しているところが、諸外国と違うのではなかろうか。残念ながら、そうそうあちこちの外国に行ったことがあるわけではない。しかし、一般人が登ることが出来る展望台があちこちにある東京の街は、国際的に見ても不思議なのではなかろうか?ビルの安全性(テロ対策?)という意味でも、こんなにあちこち登れる場所があることは、日本が安全だからでしょう?なにせ都庁に登れるんですよ。知らないけど、NY市庁舎に登れないですよね?London市庁舎も無理ですよね?ParisもBeijinも無理でしょ?やっぱり日本だから、東京だから、ではないかな、と考えてみる。

オープンデッキから紙飛行機飛ばしたら、どこに着くのかな?オープンデッキまで、地上から階段使って登ったら、どのぐらい体力いるのかな?オープンデッキからヘリコプターの遊覧飛行やったら、儲かるかな?そもそもあのヘリポート、つかったことあるのかな?考えること、しきり。

六本木ヒルズの店舗は、いまだに入替途中のところも目立っている。いつ全部の店舗がオープンするのかな?開業五周年というけれど、数ある新しい街のなかで、六本木ヒルズほど話題をふりまいた施設も珍しいのではないか?これから三年後五年後に、ここはどうなっていくのだろう?かつてサッポロファクトリーや、小樽マイカル、恵比寿ガーデンプレイス、聖路加ガーデンなどいろんなあたらしい街をみてきた。うまくいっているものもあれば、そうはみえないものもある。きっと現場は日夜頑張っているんだろうなあ。そう思うと、スカイデッキにかけた想いが伝わってくるような気がする。頑張れ、六本木ヒルズ。

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寄付金控除

今日、東京駅のグランスタで遅い昼食をとっていたら、おじさまとおねえさまという気になるカップルが、すぐ横のテーブルで海外と日本の寄付金に関するおしゃべりをしていた。おじさまがいうには、海外は寄付の習慣があり、寄付金は全額税額控除されるが、日本は寄付の習慣がなく、また税金も控除されない、という。あれ、そうだったっけ?私は、以前にも書いたが、ほぼ毎年年末に、ある海外ボランティア団体に、年収の0.5%を目安に寄付してきたが、一昨年寄付金控除が日本の税法にもあることに気がついて、医療費控除の申請時にあわせて申請してみたことがある。詳しくは下記リンクをみてほしい。

http://www.nta.go.jp/tetsuzuki/denshi-sonota/npo/01/02.pdf

日本のNGO法人にも寄付金控除が認められる先がいくつかあり、それらの団体に寄付することは、国が活動を公共の利益に供するものとして認めているともいえる。嫌な言い方だが、街頭募金詐欺とは縁がない、本来の意味での公益事業・非営利事業をしている団体である。(その後の追跡調査がどこまで厳密になされているか、は知らないが)

その会話の当事者は、どちらも知らなかったのだろうが、まかり間違うと、寄付金詐欺のような話もありうるのだから、とりあえずひとつの見分け方として知っておいたほうがいいのではなかろうか。

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またひとり

またひとり、親しい同僚が会社を去って、転職していく。真面目すぎるほど真面目で、けどあそびがあって、自分に厳しく人にも厳しいものの、道理がわかっているから、優しくもある。そういう同僚が去っていくのは、とてもさみしい。他方誰よりも、彼の門出を祝福したい。卒業おめでとう、と。
リクルートのように、優秀なOBOGを輩出する会社になるなら、それも会社の在り方として理解できる。この会社には、優秀な、できるひとが、新卒中途採用を問わず大勢いるのに、そういうひとがある日突然いなくなる。なぜだろうとよくおもう。ベンチャー企業だから、人材育成制度や福利厚生制度が歴史ある大企業に比べて弱いのは、わかりきっていること。そんなことより、入社してから「はなしが違う!」というセリフのほうが大きな問題。いったいなにを入社するときに伝えているのだろう?なんでもやりたいことができます、といえば聞こえはいいけれども、その分いろいろ面倒なことも少なくない。「ベンチャー企業ですよ」という夢を、いかにたくさんのひとが、勝手に夢想して勝手に失望したことかsign01
最近は、自分の勤めている会社について聞きたくない「うわさ」を耳にすることもある。うわさはどうにも手に負えない。火のないところに煙はたたない、なのか、いままでだれもこのスケールで事業化できなかったから、利益構造、ビジネスモデルについてマーケットに疑問が生じているのか、それはわからない。けれども少なくとも、私はまだこの会社で仕事してる。それは、この会社が決しておかしなことをしていないと信じていられるから。現場が信じていなかったら、それこそ終わりでしょ?

そしてまた新しい事業年度が始まろうとしている。どうか今期こそ平穏な年度でありますように。

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レジ袋

最近レジ袋をつかわないように、各自治体が知恵を絞っている様子。杉並区では区内全域で、町田市でも実験をはじめたらしい。

もともと私自身は、折りたたみ式の袋を持参して買い物に行くことが多い。確かいま愛用しているものは無印良品で買ったもの。独身の私は週一回、まとめ買いをするだけだから、使うのもほぼ週一回。結構重宝している。ただレジ袋がもらえなくなると、困ることもある。

もっとも困るのは、生ごみを捨てるときの区分け方法。普段はコンビニでもらうような小さなレジ袋に区分けして、燃えるごみの日に出している。もしそれを入れないと、燃えるごみの袋全体が生ごみの混じったものになり、運が悪いとそこから漏れてきてしまう。水切りをしっかりすれば済む、とわかっていても朝時間がない中で、出勤前の忙しい時間に、燃えるごみを急いで出すときには、水切りが完全でないときもある。だからこそ、小さなレジ袋は必要だったりする。またたまに使うのが、延長コードなどの電気コードをしまっておくとき。これも紙紐だったり輪ゴムだったり、いろいろ試してみるが、もっとも使い勝手がいいのがレジ袋ではないかと思う。ただ入れておけばいい。ほかのものと混じることがない。そうか、そうだよね。そうなんだよ。

レジ袋、多用するべきではないと思う。けど完全になくなると、ちょっと不便。不便を感じないように工夫しなきゃいけないのだろうけどね。

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併読の薦め

先日、本屋をなにげなく歩いていたら、本は並行して読みなさい、なる趣旨の書籍が置いてあった。手にはとらなかったが、普段していることなので、驚いた次第。

もしかしたら過去の人生において、著者と接点があったのかもしれないが、私は普通に並行して書籍を読んでいる。さっき数えたら現在の併読書籍数は7冊。小説あり、専門書あり、マーケティングに関する新書本あり、スピリチュアル本あり、さまざま。人から勧められた本はなかなか手につかないものだが、上司の推薦で読むものは意識的に読むようにしている。先日は、「実践!『孫子の兵法』を生かす本」三笠書房 二見道夫著を読んでいた。もともと漢文や古文が苦手なので、これだけを読んでいたら読書が嫌いになってしまうかもしれない。けれども併読しているおかげで、苦にならない。一週間ぐらいで読んだでしょうか?ああ、こういう考え方もありますね、ビジネスで役に立つこともいろいろ書いてありますね、そうですね、と読み進む。

かと思うと、「水滸伝」集英社文庫 北方謙三著を文庫本がでるたびに買ってくる。最初はまったく新刊販売スケジュールに追いつけなかったのに、いつのまにか最新刊に追いついた。巻末についている、各種有名人のコメントが、本文とともに読み応えがあって、北方謙三という著者がいかにすごい作家であるかが伝わってくる。こういう読み応えのある小説は久しぶりだし、現実世界とは違う意味で刺激になる。

「お金持ちになるためのバフェット入門」ダイヤモンド社 三原淳雄著は、途中までしか読めていないが、投資の考え方のみならず、意思決定の過程を考えるひとつの方法としても参考になる。この株価下落局面では、バリュー投資とも言っていられないが、バフェット氏、世界一のお金持ちなんでしたっけ?シンプルってつよいんですねえ。

女性の脳は、こどもを産み育てるという生物学的仕組みにより、並列してものごとを考えるのに向いているという学説を聞いたことがある。これに対して男性の脳は、ひとつのことを行ってから次のことを行う、と。仕事のやり方をみていると、確かに女性の仕事のやり方は、同時並行にふたつみっつの事象をこなしているように見えるときがある。併読は、女性脳を擬似的に再現し、ものごとを同時に検討し進めるための、主として男性向けの訓練なのかもしれない。最近になってようやく、複数のプロジェクトに関する進捗度合いならびに担当者の力量、感情、モチベーション等に気が配れるようになってきた。ひとつのことをやりながら、もうひとつのことをするなんて、考えられなかったが、すこしずつ可能になるようになってきているのかもしれない。それはキャパシティーなのか、それとも経験なのか?確かに同時に走られることが出来れば、仕事ははかどる。上司として部下をコントロールできるし、部下とコミュニケーションをとる時間もつくりやすくなる。なぜできるのだろう、なぜ出来なかったのだろう、という問に答えることは難しいが、併読が役に立っているなら、そういうことかもしれない。

たぶん今後もあちこちに読みかけの本を置きながら、併読するのだろう。どれかを読みたいのではなく、どれも読みたいから併読なんだ、要するに貧乏性で欲張りってことですか?

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執事喫茶

今日の昼間、所要で池袋の東口を歩いていた。ヤマダ電機のLAVIが出来て、池袋の電機街はますますにぎやかになっていた。ただ、いつまで大型テレビが売れるんだろうと思うと不可解な気もする。

そんな東口をさらにサンシャイン方向へ歩いていたら、女子専用の同人誌専門店にめぐり合う。そしてその先に、『執事喫茶』の文字。しかも予約制。はぁ、予約制なんですね。ジャニーズに夢中の女性の皆様とは、また違うニーズがこんなところで商品化されているのですね、と思うとつい店先を覗き込んでしまった。するとお店からでてくる女子のグループ。あわててお店の入り口を離れる。どこにでもいそうな、普通の女の子。たまたまきたのか、友だち同士で遊び半分で来たのか、常連なのか、なにもわからない。ただ、秋葉原のメイド喫茶と東池袋の執事喫茶って、なんだか不思議な気がする。それは、昨晩たまたま『電車男』をテレビで観てしまったからかもしれない。

メイド喫茶も執事喫茶も、顧客の動機は、自分をかけがえのない大切な存在として、「ご主人様」「お嬢様」として扱って欲しいことにあるのだろうと、私は思う。では、そんな場面は日常からなくなってしまったのだろうか?家族であれ、恋人であれ、夫婦であれ、それがベースというか、ありのままの相手を受け入れるところから、新しい人間関係が始まるはずなのに、それを「まず相手に求める」「商品化された、インスタントな関係に求める」のは、なんだかさびしい。もちろん、だれかを責めるつもりも、批判するつもりもない。それはひとりひとりのココロの問題であり、ニーズがあるからビジネスが成立すること自体は他のサービス業となんら変わるところはない。ただ、なんだろう、もっと生々しいどろどろしたゲンジツのほうが楽しいかもよ、と執事喫茶からでてきたおんなこを見て、ふと思った。

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香和

ひとに誘われて土曜日の深夜、六本木の香和に行ってきました。ショーパブ?いえショーレストランというべきでしょう。床が可動する大舞台で、セクシーでかつアクティブなショーを、一時間きっちり見せていただきました。役者さん、オトコの方?あまりにきれいなので、性別を意識せず見ていましたが、帰り際に役者さんの会話をきいてちょっと驚きます。

深夜の六本木は、外国人スカウトや、マッサージを誘ってくる怪しげな女性たち、そしてまちを闊歩するこれまた怪しげなオトコたちのまち。久しぶりに酔っ払いの集団に絡まれました。携帯電話のコマーシャルに出てくる、ある役者さんにそっくりの男前ながら、口から出てくる言葉は、あきらかに言いがかり。ああ、そういうところに近づかないように生きてきたはずなんだけどなあ、と少しだけ後悔。

香和とかいて、かぐわと読むらしい。当て字かな?重低音のおなかのそこに響くBGMにのって、踊りを鍛え上げたダンサーたちが舞台狭しと踊りまくる。ショーの間、いちども映像や音が途切れることはない。一瞬暗闇につつまれても、アップテンポですべてがリズムにのってすすんでいく。照明も明るさと暗さ、明るさの質感をうまく組み合わせていて、映像が目に焼きつく。演出がうまい。

入店してあわてて注文したフードメニューが、重低音の響きでおなかが驚いてしまい、ついにショーが終わるまで、手をつけることができなかった。これはあんまり頼むものではないかもしれない。すっかり冷たくなってしまった。ドリンクだけが進んでしまう。そういう店なのかな?

ショーが終わり、舞台にタレントさんが並んだ状態で、ひとりひとり紹介すると、千円札を縦に巻いた状態で、差し入れというか握りをお客さんが渡している。うまかったタレントさんや面白かったタレントさんに渡しているよう。前の席に陣取ったグループは、メンバー紹介の前に一万円札を両替していた。しかし最初に渡すときはちょっと照れくさいかもしれない。わたしとつれあいは、恥ずかしくて結局握りを渡すことが出来なかった。

その後はタレントさんが客席にやってきて、お客さんといっしょに食事やドリンクを楽しんでいる。「誰か席につけましょうか?」と係りの方に言われたが、遠慮してしまった。それほど盛り上がっていないグループに見えたのか?それはそれで構わないのだけど。

またくるかな?私には、たまにはこういうショーもいいかな、という程度。毎週みにくるものではない。六本木だから、ありかな。ダンスショーとか、ミュージックショーとか、六本木には他にもショーと呼ばれるものがいっぱいある。なかでもジャズバーのようなピアノ演奏系のショーは黙って聞き流していてもいいので、気が楽。聞け!とか見ろ!とか、ちょっとうっとおしくなることもあるショーは、気分によって疲れることもある。その意味では、香和はやや面白いショーレストランでした。

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10万円の価値

もうすぐボーナスシーズンである。ふと財布の中をみると、インド旅行を控えているせいか、こころなしか貧しい。貧しい割には、10万円前後のお金がぽんぽん財布から消えていく。その昔、10万円といえば大金だった。それがスーツ一着10万円、冷蔵庫買換え10万円、引越しすれば10万円、キャバクラ二時間お二人様10万円など、かなり日常的な消費行動に手の届くところに10万円というお金がいつのまにかぶら下がっていた。

お金持ちとは、お金をいっぱい稼いで、かつそれを使うときに、ほんとうにそれがいま必要なものかどうか、じっくり考えて支出できる人のことを言うと、なにかの本で読んだ。今の私には、そういわれればお金持ちの資格はない。ぽんぽん使うからだ。しかも使うことに頓着していない。いつからこんなに無頓着になったのだろう?

冬の賞与が出るらしいとは知っているが、いくらでるのかは全く知らない。しょせん上司の手のひらで転がされた数字が、銀行の残高として通帳に乗っかってくるに過ぎない。前期は特別賞与とかもついて、なんだかんだと懐豊かだったが、そんなことが毎期続くはずっがない。なにせバブル期の証券会社ではないのだから。質実堅実な生活はどこへ行ってしまったのだろう?

上司は私に言う。もっと弾けなさい、と。一皮剥けたときに成長するよ、とささやく。もっと遊べ、もっと人の行動を観察しろ、もっと人の懐に入り込みなさい、言われることはごもっともながら、なにかが引っかかっている。これって商売?これって騙されている?撤退????

ストレスの高い仕事をしていながら、明確なストレス解消法を持たず、ふんわりやんわりとストレスを解消しようとしている。そもそもストレスを感じない仕事をすればいい、とさえ思っている。お給料に見合う負担をすればいい、と。どうも最近バランスをくずしている。このままどん底へ落ちてしまうのか?お金の価値が、勝手に暴落している。

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風邪を引いた

風邪を引きました。日中から背中がぞくぞくとするばかりか、あきらかに顔に赤みがかかっている。思考がぼんやりとして、咳が襲って来る。これはいかん。急遽、仕事を切り上げて自宅に帰ってきた。

具合が悪いのだから当たり前だが、食欲がない。かといって眠いでもない。とにかく体力をつけるために、食べなきゃいけない。帰り際に買ってきた弁当を、無理やり胃に押し込む。味がしない。胃がもたれる。けれども明日の元気のため、割り切って食べる。甘いものがおいしい。おいしいが、一口で十分。あとはいい。

ひとが恋しくなる。都合がいいもので、こういうときはパートナーがいたほうが、幸せなんだなあ、と思う。ひとは勝手である。とにかく話し相手がほしいと、そのときは思うのだが、病が癒えると、その気持ちは持続しない。結局ひとりがいいのかな?

早く元気になりますように。

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ホストクラブ

先週末、六本木でホストクラブと呼ばれるところへ初めて行った。夜中の話だから、ホントのところは、営業していたらいけない時間だったのかもしれない。取引先の社長と一緒。営業の終了した銀座のクラブから、おねえさま引き連れての豪遊。

行った先のホストクラブは、テレビでみたまんまの、カッコイイお兄様方が、夜中に淑女の晩酌の相手をする、きらびやかな社交場。照明も内装もお金をかけていて、びっくりするような高価なお酒が、ぽんぽんと栓が抜かれていく。一晩にん十万というのも、うなづける。銀座のクラブとは違う、また別の世界が広がっている。

楽しませることは、銀座のクラブと同じ。元気よく明るく、お客さんそれぞれに満足を与えるよう気を遣って。ただ私の行った店は、客を酔わせることを主目的としているよう。じゃんけんで順番決めながら、テキーラの一気飲みなんて、危なくてやるものじゃない。急性アル中で救急車こられたら、営業停止になってまずいはずなのに、気にするそぶりがない。それはポーズだからなのか、客を楽しませるためなのか、それもよくわからない。ただ楽しんでいるひとも大勢いる様子。和服姿のご婦人や、スーツ姿の淑女など、背景はわからないけれども、お気に入りの男性をはべらせて楽しんでいる。ああ、そうなのか。そうなのね、とひとり納得するよりない。

六本木の夜は長い。始発電車が動き出すころ、まだお店は盛況だった。昼と夜が逆転している人たちなのね、とこれも納得するしかない。しょうがないじゃん、そういう世界があるんだから。つくづくそういう世界と縁があまりないことを、確認した一夜だった。

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おねえさまご婚約

ブログを書き始めて、半年がたったということなのでしょう。つまらない石垣島合宿の次の合宿が、先日浜名湖で行われました。相変わらず、なんのために誰のためにやっているのか、よくわからない。メンバーの相互交流というには、お金がかかりすぎていないだろうか。その分、給料に回せ、とか株主に回せ、とか言われないのだろうか。まあ、いいでしょう。

この合宿の一番のニュースは、おねえさまご婚約でしょうか。西日本の統括部長様とご婚約とのお話が、伝わり聴こえてまいりました。誠におめでとうございます。合宿中、姿を隠すように都度都度いなくなったのは、まあそういう理由だったということでしょうか。大阪への出張が毎週毎週におよんでいたのも、多少公私混同とはいえ、そういうことなら理解できます。それはそれでハッピーエンドということで。ただおせっかいながら、お二人とも不動産業界に身を寄せながら宅建未取得ときいております。会社がおかしくなったとき、どうするのでしょう?まあ、よけいなおせわですが。

女性はつまるところ、お金のあるところが好きなわけで、それはとても正直でよろしいと思います。私もお金が好きになれば、向こうから寄ってくるのでしょうか?どうもお金があることが気持ち悪くて、とにかく使ってしまえ、とココロの底で暗示をかけてくる分身がいます。ここ数ヶ月で200万ぐらい使ったでしょうか。使っても痛くもかゆくもない金銭感覚になっていることに、とても不安を感じますが、まあしょうがないんでしょう。

転職しよっかな?会社つまんないし、給料あがらないし。これから不動産不況がやってくるってわかっているのに、業績の上方予想をあいかわらず根拠なく繰り返しているし。私の予想では来年の夏ぐらいにバーンと逝くはずなんだけど、わかっているのかな?

久々のビックカップルとなるおふたりさま、どうぞお幸せに。

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わたしの贅沢

引越しを計画している。いまよりも広いところへの住み替え。離婚後一人暮らしをはじめたものの、現在の住居はたちまち本であふれかえってしまった。書籍、特に専門書は一期一会と割り切って、読みたい本を読みたい欲求にまかせて買いあさったら、たちまち床のスペースが不足をきたすようになってしまった。本箱を増設するゆとりはこの部屋にはないから、転居を決意する次第。しかし一年半しか住んでいない、しかも都心から一時間圏内のペット共生マンションに住んでいて、転居するのだから贅沢といえば贅沢だ。

ペットマンションには、いわゆる東京都ルールの適用がないから、壁や床の補修にはしっかりお金が取られるはず。それにしても保証金三ヶ月も払っていて、それはまるまる大家のもので、そのうえリフォーム費用を払わされるなんて、なんとも理不尽な話。まあ狭い部屋にかつて二匹もネコを飼っていた報いかも知れない。

転居先は新築のため、家賃が大幅アップとなり、かつ広くなるので家具も相応に必要になる。また出費。よくもまあ転居する気になったなあ、と自分でも思う。が、なによりいまの部屋では客を迎えるスペースすらない。寝るための部屋。これではライフクオリティが上がらないと勝手に判断した。せめて来客があったら、茶ぐらい飲めるスペースがあってもいいだろうと。

部屋をいくら広くしたところで、都心からあこがれのお姉さまが訪ねてくることはありえないだろうし、またさっチャンがくることもない。それでいいのだと思う。引越しの荷物整理をしていたら、結婚相談所で昔やった恋愛度テストなるものがでてきた。話題力、表現力、交際力にDがついている。いわく「自分の得意な話は出来るけど、興味のない話は出来ず」「自分の感情を表に出すことに戸惑いがあり」「知り合いであっても、用事のないときには話をすることが苦手と感じる傾向があります」。おお、まさしくそのとおり。誠に申し訳ございません。だから小職、ストーカー的要素を否定できないのであります。はい。

とにかく第一歩。生活を前向きに変えて、少しでも前を見ないといけません。もしかしたらいいことがあるかもしれないのですから。

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さっちゃんが

朝方、さっちゃんが怒っていった。私にきれいになったとか、センスがよくなったとか、いうのをやめてください、気持ち悪いです、と。怒るかなあ、普通?と思いつつ、じゃあもういうのをやめよう、と。

正面で顔見ていえばよかったのかもしれないが、それを面と向かっていえるほどの度胸を持ち合わせていない。こそっと、ひとことメールでいれる程度の挨拶が、まあお気に召さなかったのでしょう。お年頃なんでしょうね。もう少し年をとると、かわせるようになるんでしょうけど、まだ若いのねえ。いいでしょう。黙って見てる分には自由ですから。

けど本当につまらないわなあ。挨拶には挨拶で返してくれないと。声かけるのって、結構ハードル高いんですよ。私はね。

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おおみそかの過ごし方

久しぶりのデューディリツアーから帰ってきて、友人の不動産購入話につきあって、それから今年の大晦日の手配をした。ことしも大晦日は「ベートーヴェンはすごい 全交響曲連続演奏会2007」。去年に引き続き、S席を2枚買ってしまった。去年は1枚、無駄にした。誘う人がいなかった。大晦日だし、ことしもこのままいないかもしれない。けど、まあいいさ、ちょっとした無駄遣いだから。無駄遣いとわかっていて、でも希望をこめて買ってしまう自分が、ちょっとかわいくて好き。

今年は小林研一郎が全曲指揮するそうな。全曲だよ、故岩城宏之氏はベートーヴェンが好きで全曲指揮したけど、小林研一郎はファン投票で指揮することになったらしい。大変だよ。約8時間弱指揮し続けるのだから。気力が第一。きたる2008年がよい年でありますように。

もう来年に期待している。そうだよね、2007年はさっちゃんが私の誕生日にメッセージしてくれたとおり、「ほどほどに幸せ」な一年だったから、2008年は「もっと幸せな」年になるように、願いたい。縁結び、いっぱいお守りもっているんだけど、なかなかどうして、ファイナルアンサーする気にならないから、なんにもアクションしなくて、結局前に進まないんだよね。ずるいのかな?

ことしも大晦日が迫ってきた。もう4ヶ月弱で今年も終わるんだよね。さよなら2007年。ちょっといい年だったね。あともすこし、がんばってみよっと。

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おとうさんの役割

ときどきテレビコマーシャルに目を引き寄せられることがある。最近のお気に入りは、読売新聞。親子の関係についての記事について書こうとしている新聞記者と、その息子の話。父親の役割ってなんだろうと、父親にもなっていないのに考えたことが何回かある。母親はわかりやすい。こどもを庇護する絶対的主体であり、それこそ身を削って生命をこの世に送り出す、大切な役割と、その延長線上に母乳の授乳という通常父親には代替できない身体的機能をもっている。はて父親は?

近頃は女性の社会進出も進んでいて、父親が社会の入り口となっていると、必ずしも言えなくなっている。必ずしも経済力が勝っているわけではなく、必ずしも身体的に強いわけではない。賢い女性も大勢いる。となると、父親の役割とは、パートナーとそのこどもとの個別具体的な関係でしか成立しない、特殊なものと考えなくてはいけないのだろうか。

こどもと自分は、いうまでもなく別人格である。思うとおりになど成長するとは限らない。ともすると犯罪者に育ってしまったり、そこまで至らなくても社会にとって迷惑この上ない存在として育ってしまう恐れもある。とはいうものの、親がきちんと育てることが出来れば、ある程度の範囲で社会的存在として生きていけるようになるのではないかと、期待する。ただ赤ん坊の頃から、だんだん成長してくるにつれて、親という存在がどんなふうに変わっていくのか、よくわかっていない。なんでも「予習」しようとする癖だろうか。自分にはキャッチボールはできないなあ、とか平日は明らかに働きすぎだよな、とか、こどもの勉強見てやろうとして嫌がられてもさびしいなあ、とか、考えなくていいことを考えている。

もう大分としをとってしまった。ひとの父親にはならないかもしれないなあ、と思いながらそのテレビコマーシャルを見てしまう。ちょっとさびしい。

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後輩のKへ

遠距離恋愛が終わってしまったんだってね。お気の毒様。けど女性にもてたいからって合コンに行くのは、学生のやることで、社会人は行動が違うと思うよ。社会にでて働き始めるとね、とたんに女性は、お金や経済力、またはそれを包括した包容力なんていう価値観を求めるように変わるんだよ。生活力といってもいいのかな。たとえば、一緒にいて楽しくって、生活力があって、自分を尊重してくれる人、なんてことを平気で言い出すようになる。食っていくことがとても大事なんだ。考えてみなよ、コドモを産んで育てる間は、生活力がなかったらそれだけで大変なことになってしまう。しかも独身生活が長いほど、独身時代の生活水準を落としたくない欲求に勝てなくなるから、ますます生活力を要求してくるようになる。直接的には、金稼いで来る人がかっこいいひと。わかりやすいでしょ?でもそれだけじゃなくて、自分だけに優しいひととか、自分だけにスペシャルな扱いをしてくれるひととか、いろいろ条件をつけてくる。そして結婚したくてもできないと愚痴る人とか、お見合いを繰り返す人とか、合コンを渡り歩く人とか、でてくるわけです。あなた、人のことをとやかく言えるほど立派な人なの?と思うこともあるけどね。

もちろん価値観はいろいろあって、なかには結婚してすぐコドモ産んで、ちゃっかり扶養家族としてだんな様の庇護の下に入り込むことを目指している生き方を選ぶ人もいるかもしれない。なあ、そんなひとといっしょになりたいか?せっかく人生一緒に歩くなら、自分がこけたときぐらいかわりに助けてくれるぐらいの気概があるパートナーと一緒のほうが、人生楽しくないか?ところがそういう賢いパートナーほど、経済的には現実的なんだなあ。なかには経済設計というか人生設計を明らかに間違えている人もいるけど、私の知る限りひどい間違いをしているひとはいない。パートナーはちょっとたくましいほうが人生楽しいと思うよ。

まあ人それぞれだから、好みに口を出すつもりはないけど、30代になったときに女性に足元見られるオトコにはなるなよ。それってとってもカッコわるいとボクは思うけどなあ。なあ、健闘を祈るよ。

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歯科矯正その後

久しぶりに歯科矯正に行きました。今回は虫歯治療のために前歯を開けます、とばねがついた。そして久しぶりに、あの痛みがやってきた。それは食事をするとやってくる。前歯と前歯のかみ合わせがわるくて、噛めないのだ。噛めないことに伴って奥歯で噛もうとすると、前歯と前歯が、変な格好で噛み合わさり、痛みがはしる。これは虫歯の痛みではない。神経を直接刺激するような、非常にデリケートな痛みである。

何度となく潜り抜けてきたはずであるが、それでも痛いものは痛い。食事をするとき以外は至って平穏。たまに不用意に歯をかみ合わせて舌を噛むぐらい。しかしひとたび食事となると悪戦苦闘する。そうでなくても歯科矯正器具に食材の切れ端が絡まる不具合を我慢しながらなのに、変な噛みかたをすると激痛が走る上、噛まずに飲み込むことがこれまでの人生経験上なかなかできないものだから、悲しいぐらい食事に時間をかけることになる。本当につらいときは、普通の定食一食分を一時間かけて食べることになる。それが面倒だから、バナナやヨーグルト、豆腐やウィダーインゼリーなどを愛用することになるが、飽きるんだよ。本当に。この一年余り、バナナを毎週買い続けている。嫌いではないが、毎週毎週はかなわない。ヨーグルトもほぼ毎週買っている。クイーンズ伊勢丹のヨーグルトとLG21がすき。けど基本的になんでも食べる。豆類は豆乳以外なんでも食べるので、豆腐、納豆、煮豆、小豆などとにかく柔らかそうなものを常備する。おかゆも常備する。梅が一番手間がかからなくてうまいから、梅干も常備する。するとこの一年、ほぼ同じものを食べていることになる。歯科矯正、おそるべし。

まあ矯正しているから食べないものは、スペアリブやトバぐらいであとは何とか食べようとするから、関係ないけどね。けどこんなに食生活が不便だと女性をデートに誘うのも考えもの。口の中でもごもごしているのを、あまり見せたくないし、かといって食事のたびに歯磨きするのも、間が悪いんだな、これが。(そういう理由ではなくて、誘う相手がいないのもまた事実である)あ~絶対に騙された。税金は還付されたけれども、それ以外のメリットを、いまはなにも感じられないでいる。勝手に「明るい未来」を妄想した自分が悪いのは十分わかっていて、それでも「騙された」といいたくなる、弱い自分をまた認めてしまう。私って自分に甘い人?

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江戸文化歴史検定

江戸文化歴史検定3級の申し込みをしました。前回は不動産証券化マスター養成講座のスクーリングだったか、事業部の合宿だったかと重なって受験が出来ず、今回初挑戦です。とはいうものの、前回の2級の問題をみてびびってしまい、まずは3級からと手堅く申し込みをいたしました。

主催者の江戸東京博物館には一度しか行ったことがないのですが、ここは面白いと気になっています。というのは、その分館であるたてもの館が、以前近くに住んでいた小金井公園にあり、こちらは何度となく行っているので、親しみがあります。

もともと江戸への興味は、風俗、それもべたべたの性風俗からスタートしています。なにより江戸には女性が少なかった、圧倒的に男性比率の高い町で、結婚して所帯を持つことが出来るのは裕福な一部の層だけだった、だから吉原ができた、と聞いたときは正直驚きとともに感心しました。江戸時代は、現代よりも一夫一婦制に対する意識が低く、このため家族制度が緩かったと以前ひとから聞いたことがあります。明治年間に欧米文化とともにキリスト教的な一夫一婦制が浸透したことを考慮すると、さもありなん、と納得しました。江戸時代に生まれていたら、どんな風に生きていたろうかと想像すると、結構楽しめます。別にいいじゃないですか、浮気ぐらい。制度で一生懸命縛ろうとするからおかしくなるんでしょ、とその頃のほうが、強く言えたのかもしれません。

世界有数の人口密集地域で、人々が知恵を出しながら共同生活していく有様は、とても面白いです。受かることを目的にしない試験を久しぶりに受けるような、そんなお気楽さを楽しんでいます。

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南部鉄器のやかん

今日、広尾の商店街で南部鉄器のやかんをみつけて買ってしまいました。

かつて妻帯者だった頃、貧血対策として一度購入を検討したものの、そのまま当時のやかんを使い続けることにして、ほっとかれていたやかんが、たまたま目に入ったのでお店に入った。もう入ったときには購入することを決めていたのかもしれない。一万円から三万円台後半まで、なにが違うのかよくわからないけれでも何種類かの南部鉄器やかんが並んでいた。どれでもよかったのだと思う。ただ必要以上に重い鉄のやかんが、日々飲んでいるお茶や紅茶、コーヒーをおいしくしてくれるような、根拠のない感覚がアタマのなかを支配して、一瞬にして購入を決断した。

帰宅後さっそくお湯を沸かしてみる。当たり前なのだが、沸いてもピーとかポーとか、沸いた合図はない。沸かしているところをみていないと、沸いたかどうかわからない。そうだよねえ、やかんは沸いたら知らせてくれるものなんて、最近の話だよねえ。ポットに注ぐときもずっしりと重い。不便といえば不便。しかし、飲んだお茶はどこかまろやかだ。お茶がまろやか?表現しづらいのだが、甘いのでもなく堅いのでもなく、やんわりしている。カルキ臭が消えます、と買ったお店の札に説明があったが、そういうことなのだろうか。

いい買い物をしたと思いたい。たぶん、やかんをこれからはこちらに切り替えると思う。さて前のやかんをどうしよう。そこはあまり考えていない。普段は壊れるか、不便で仕方なくなったときに新品を買っていたから、こういうことは珍しい。しばらく狭いキッチンを二つのやかんが占拠するのだろう。

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積読

最近また、積読の数が急増している。

もともとは専門書は手に入るときに手に入れておかないと、発行数が少ないので手に入らなくなるために積読をあえてしていたはずが、最近は読みたい本を片端から買っては積読リストに加えてしまっている。今現在で少なくとも50冊ぐらいはあるんじゃなかろうか。雑誌も入れるとその数はさらに増えるはず。もともとそんなに本を読まないのに、とにかく買うようになったのは、ある種の買い物マニアかもしれない。

いつか自分の読みたい本だけ集めた本屋の亭主になってみたい。実物の本屋である必要はないから、例えばアマゾンのリンクが自分のHPにつながっているだけでいい。勝手にどうぞ、と。積読を減らすために、一冊一冊コメントをつけるようにすれば、備忘録にもなるし。人に貸した本、人から借りた本、いろいろあるけれども、大事なことは読みたいと思うこと。読む動機があること。同じ本を何度も読んでも構わない。2回読む、三回読む価値がある本とめぐり合えたら、それはそれで幸せ。積読している本たちには、ごめんねえ、と声をかける。それでも積読は日々増えていく。ひょっとして私は単なるコレクター?

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かみあわせ

歯科矯正が進んできたのか、前歯のかみ合わせが、極端にわるくなった。ラーメンを食べてもスパゲッティを食べても、麺を前歯で噛むことが出来ないから、箸で切るか飲み込むかしか、選択肢がない。それでもそばやそうめんは、まだ柔らかいからいい。ラーメンやスパゲッティは、食べているのが悲しくなる。ご飯も噛むのは都合いいが、矯正器具と歯茎の間にたまってしまい、外食したときは歯を磨くことが出来ずに、具合の悪い思いをすることになる。

社会人として就職してから歯科矯正を始める人は、食事をどうしているのだろう。決まったオフィスで決まった時間働く人はともかくとして、営業先で人に会う仕事をしている人や、出張して回る人にとって、歯科矯正はきわめて不便だと思う。そもそもそういう立場の人はやらないのだろうか。外出先のトイレは、歯を磨くには狭すぎるものも多い。ひとつしかないトイレで、せっせと歯をみがくこともある。実利を考えると、本当に思慮の浅い選択をしたものだと思う。

普通にみて、あと一年かかるらしい。一ヶ月前から「指導」された輪ゴムを夜寝る前に装着しないと、遅くなることもあるらしい。矯正器具に輪ゴムを引っ掛ける爪をつけて、なるべく一日中、上の歯と下の歯を引っ張るように専用の輪ゴムをつけておいてください、なんて矯正をはじめるときに説明あったろうか。たとえあったとしても、「聞いてないよ」といいたくなる。不便、というか不快。

本当に歯並びはよくなるのだろうか。去年の夏の選択は正しかったのだろうか。歯並びをよくしてお姉さまに気に入られようなんて、くだらない見通しをするべきではなかったのではなかろうか。あごが、ほっぺたの内側が、なんだか痛むなあ、と思いながらだましだまし、食べている。そのうち食べることが嫌になりそう。そしたらますます痩せてしまうのかな。

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きのう、きょう、あした

最近、勧められて本田健著の「ユダヤ人大富豪の教え」を読んだ。しっくり腹の中におさまるような、当たり前で、でも当たり前にすることがなかなかできない、そんなことがいくつも書いてあった。そのなかに書いてあったことが、前の上さんが言っていたことと、すごく似ていた。

「ひとは、なりたいと願うものにしかなることができない」

誰が言った言葉かすら、覚えていない。けれどもすごく真理を得た表現だと思う。理屈ではなく、こうなりたいと強く願うことで、達成不能と思われていたことが達成できたことを自分でも経験してきた。またココロからそう願わないと、達成できないこと、言い方をかえると、自分の思いを周囲に伝えてムーブメントを起こすことなんかできるはずがないことを、これまでの短い人生経験で学んできた。だから冷静に自分を見つめて、やりたいこと、楽しいことを自分のライフワークに出来るように進んできたのだろうと思う。

仕事環境において、一からモノをつくる、というもっとも創造性あふれる仕事をしているという意味では、これ以上ないぐらい幸せな環境に身をおいている。他方、そのいまある自分は、銀行員時代や鑑定事務所勤務時代という「きのう」がなければ、たどり着いていないことも、最近なんとなくわかってきた。「きのう」が「きょう」をつくっている。そして「あした」は、「きょう」なにを決めるか、なにをはじめるかで変わってくる。変えることが出来る。

あしたのためにきょうがある。きのうがなければ、きょうはない。あしたは、きょうからかえられる。小学生でもわかりそうなことが、大人になると恐ろしいぐらいのスピードで忘れられていく。ただ歳をとるごとに、変えるのが億劫になっていく。もういいや、と思いたくなる。如何せん、時代は常に変わることを求めている。変わらない普遍真理のもとで。

あるひとの報酬は、サービスの質×サービスの量で決まる、と上述の本に書いてあった。私の感覚は、そのサービスを受ける人の感動の質×感動の大きさで決まると認識している。それは日本の社会が成熟化しているからだろうと思う。代替のきかないサービスを生み出せるかどうか、がその人、その企業のバリューを決めている。そしてそれは、スマートであり一定のルールに基づいていなくてはならない。それが普遍真理。

きのう、きょう、あした、という簡単な言葉の並び方が、じつはすごく大きな価値観を含んでいることにようやく気づくことが出来た。翻って自分自身は、あした、なにになりたいのか、いまだにきちんと定めることが出来ずにいる。まずいなあ。

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履歴の削除

今年に入って自分の意識が大きく変わった点がひとつ。携帯電話やデジタルカメラの履歴(データ)をこまめに消すようになった。以前は、意味もなく昔のメールを保存していたり何年も前の写真をそのまま保存していたりしていたが、このごろはバサッと削除してしまう。いうと、ほんのり甘い思い出を、すべて消し去って、なかったことにしてしまう感覚に近い。過去を消すのではなく、過去にこだわらなくなってしまった。過去に反省しなくなった、ともいえるかもしれない。過ぎたことについて、なにも感じなくなってしまった。毎日が淡々と、ただ過ぎていく感覚をそのまま携帯電話の記録やデジタルカメラの記録が表しているような、そんな気がする。

まだ消していないのは、パソコンのメール記録かな。これも5年分以上メールソフトに残っている。残っているからどう、ということもないし、めったに振り返ることもない。ただ電子メールはあっというまに、なかったことにしてしまえるから、そのままにしているだけ。手紙は、破るとかゴミ箱に捨てるとか、により目の前から消える。動作が必要。メールは、同じ動作でも指の動きでおしまい。味気ないほど簡単。

ときどき他愛もないメールを打って喜んでみたりするが、それもすべて消してしまう。すべては蜃気楼と同じ、なかったこと。相手の記録には残っているかもしれないけれども、私の記憶にはない、なかったこと。ああ、きもちわるい。

本当に会社を辞めたら、携帯電話のない暮らしをしばらくしてみたい。誰にもせかされず、誰にも責められず、誰にも必要とされず。それでも生きていくことは出来るような気がする。もっというと携帯電話がなくても、私を必要としてくれる人はいるはず。私がコンビニエントである必要は、ない。私は、携帯から自由になる。決めた。

そうか履歴を消すのは、携帯電話を持たなくなるための前段だったのか。早く携帯なんか捨てたいなあ。こんなものを意識しなくてもいい生活を、早くつかみたい。

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銀座でおさかな

ひとに勧められて、ある銀座のお店でメシを食べてきました。夜八時過ぎから「誰か一緒に行かない?」とにわか社内営業したが、だれも引っかからなかったので、ひとりでやってきた。あとにして思えば、それがよかったのかどうか。

お店は夜八時過ぎにもかかわらず、そこそこ混んでいた。メニューはあるが、値段が書いていない。さすがは銀座である。ちょっとびびるものの、ここで店を出ては男が廃る。ロックの梅酒とともに、カウンターのトマトをおもむろに頂いてから、キンキとうなぎの蒲焼を頼んだ。すると一匹のキンキを丸丸焼き始めるではありませんか。え、それ全部私が食べるの?と聞くまでもなく、炭火をいれた器械の上でキンキがじっくり焼きあがっていく。そうこうするうちにうなぎが出来てきた。うなぎ屋で特上はあると思われる、ビッグサイズ。うひょーと驚きつつ、舌鼓をうつ。確かにうまい。白焼きにすればよかった、とちょっと後悔。キンキは、本当に一匹焼いたものが出てきた。とにかくたべよう。うまい。鯛のよう。カボスがよく似合う。これはいい。ちょっと幸せ。腹いっぱいになるかなと思いきや、少し余裕があったので焼きおにぎりをもらい、フィニした。

そしてびっくり。お一人様1万8千円程度は払ったことがある。料亭で。けどここは、銀座。少し飲んで少し食べただけで、なんと22,800円の請求が来た。びっくり。うひょー。銀座だあ。けど、まあいいか。だれかおんなのこ連れてくれば、もっと納得感あったけど、それはこの次のお楽しみ。銀座でおさかなは、一匹一万円ぐらいするものだと、はじめて知ったのでした。

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あじさい寺

あじさいが見たくなって、鎌倉の明月院に行った。起床が遅かったので、現地に着いたのはお昼前頃。うわさのとおり、北鎌倉の駅から、明月院や建長寺に向けて、ひとの列が出来ていた。老夫婦や親子連れに混じって、若いカップルが手をつないで歩いている。「けっ、いいなあ」と心の中でぼやきながら、すたすたと追い抜く。

あじさいは、少しシーズンを過ぎていたようだ。いずれも満開で咲いているのだが、房のひとつ二つが、萎れている。直射日光が厳しくて、萎れてしまったのか、時期が過ぎたのか、定かではないが、二週間ほど前、自宅近くの軒先で見た満開のあじさいのほうがきれいだった。まあ仕方あるまい。とはいいつつも、デジカメを構えて、できるだけ見栄えのする写真を撮ろうとあちこち移動する。実は会社のデスクトップ画面を満開の桜にしており、さすがにシーズンオフなので、あじさいに変えようか、という意図もあってきたのだった。まあ70点ぐらいの満足度の写真が撮れたのでよしとしよう。

そのまま帰ってもよかったが、せっかくだから建長寺まで足を伸ばすことにした。途中、花仙という喫茶店であんみつを食べた。高齢の女性客が多い中、パンクのカップルがいて、驚く。目線の先に絶えず携帯電話をいじっている、理知的な女性客がひとりいた。顔立ちというよりは、凛とした背筋や、ちょっとした所作に品がある女性は、とても魅力的だ。つい目線で追ってしまう。ああ、いいなあ、すてきだなあ。けど声をかけることはない。ショーケースに入れて飾っておくほうが、夢から覚めなくてちょうどいいと思ってしまう。無理に手を伸ばして、たくさん失敗してきたから、失敗を恐れているのか、それともそもそもアプローチ方法を知らないのか、どちらかというと後者のような気がする。それはそれでいい。

建長寺はひとりで何回かきている。禅宗のお寺であり、たたずまいがとても落ち着く。半僧坊まで登って、一服したらおりてくる。といっても私はタバコは吸わない。なにをするでもなく、ただ鎌倉の街や相模湾を眺めて、無心になったら下りてくる。階段を下りている途中ですぐに雑念に悩まされるが、それでも一瞬はすべての悩みがどうってことないぐらい、ちっぽけなものになっている。山寺はいい。もし世俗が嫌になって、誰も身寄りがなくなったら、山里にこもって生活するのも悪くないだろう。

今日は7月1日。もう夏がやってくる。去年も夏はやってきたが、去年と今年は、どこがどういうふうに変わったろう。こと、私の身に関しては、なにも変わらなかったような気がする。そう、なにも変わらなかった。よくも悪しくも。半僧坊で開運祈願してくるべきだったろうか。自分の運は自分で開いてみせると、本当にピンチになると助けてくれる自分の守護神を信じている。

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たいへんだあ

まいにちまいにち、人事異動にふて腐れてアルコールを飲んでいたら、「欲」がなくなってきちゃった。食欲は前からないけれども、睡眠欲も性欲も金銭欲も全部いっぺんにどこかへ消えて行っちゃった。なんかどうでもいい感じ。あれれ?

会社の株価がどんどん上昇して、気持ち悪いぐらいあがっている。同業他社のあがり方と比べてもなんだか不自然にあがっている。別になにも変わっているわけもなく、株主総会前に変だなあ、と思っている。なんだか怖い。とても怖い。ギャンブルが性にあっていないので、理屈のつかない株価変動が嫌い。一般少数株主は情報をなにも知らないならそれでも構わない。けど、ビビリの私は、人事に頼んで持ち株を売却する手続きを依頼した。儲からなくたっていい。自社株の変動を信じられないくらい、臆病になっている。

お金はそこそこあるみたい。この間勘定したら、年収分ぐらいの貯蓄があった。いつのまにたまったんだろう。いっぱいいっぱい、離婚してから無駄遣いしたはずなのに、いつのまにか、たまっていた。独身ってそんなものなんだろうか。その分、人生の楽しみがちっさくちっさくなっている気もするんだけど。

また転職熱が高まってきた。もういいじゃん、お前は一生懸命やったよ、とひとりの自分が言う。いやいやここで逃げたら男がすたるだろ、もっと頑張ろうよ、ともう一人の自分が言う。なんて、気力が限界を迎えているんじゃないの?と別の自分が言う。一同、無言。そうだよね、5年間走り続けてきたけど、だれもほめてくれるでもなく、評価してくれるわけでもなかったよね。たった一度だけ昇給したけどね。もういいよ、本当に。

平穏な生活がしたい。もし上さんが出来たら、こどもとゆっくり向き合うことの出来る職場で働きたい。上さんの話をとことん聴きたい。かぞくを大事にしたい。けど、その前に全然欲が沸かなくなってしまったんだよなあ。どうしたんだろう。たいへんだあ。

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石垣島合宿(3)ドライブ

合宿3日目、いよいよ暇になった。予定がない。昨日いっしょに行動した連中は今度は石垣島めぐりをするようだが、そいつらに付きまとっても迷惑だろう。ここは自分でなんとかしないと。かといって本当に予定がない。タクシーの運転手は川平湾を見に行けといっていた。どうしたものか、運転はしたくない。だれか運転手を探そうか、けど運転手に負担をかけるんだよなあ。弱った弱った。そうか、バスを使ってみるか。それにはまず街中にでないとね。まちにでよう。

ターミナルに出て、川平へ行くバスを探す。ほどなくでるらしい。乗り込むと一日乗車券が安いからそっちを買えと、バスの運転手が言う。ご親切にどうもありがとう。乗り込んでほどなく、睡魔に襲われ爆睡。起きたのは川平に着く直前だった。

川平に着くころ、空は快晴になった。海に泳ぎに行った連中は正解だな。いい具合だろう。自分も泳げばよかったなあ。ここで泳げるのだろうか。そんなことを考えながら、海岸線をぶらぶら歩き、腰をおろし、ぼんやりと海を眺めていた。外海は低気圧の影響からか白波が昨日と同様に立っていた。こりゃ飛行機も揺れるわな。グラスボートに観光客が何組も訪れては乗り込んでいる。そりゃ海の中はきれいだろう。けど自分のやりたいことと、なにか違う。泳ぎたいなあ。まあ、しょうがないか。帰りのバスの時間を確認し、土産屋で時間をつぶした。ハブが飼われていた。南国の生活の様子が紹介されていた。しかし私には何の関心も呼び起こさなかった。この生活がここでは何年続いているのだろう。そして何年続くのだろう。時計が止まっているような錯覚を感じさせるひとときが過ぎていく。

ターミナルへのバスでも爆睡してしまった。座席の幅が狭い路線バス。おそらく20年以上走り続けているのだろう。年季がはいっている。ボンネットバスが走ってきてもおかしくない。古きよき時代と、東京での暮らしを考えながら、これが地域格差なのだろうか、と考える。けどなあ、何でもかんでも新しいものがいいってわけでもないだけどなあ。

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昼寝の効用

エスカイヤという雑誌がある。なにげなく見ていたら、昼寝の効用について書いてあった。プレゼンテーションの前などに、意図的に昼寝をとらせる企業があるとかいてある。ちょっと驚いた。夜の睡眠不足を補うために、昼寝はしたほうがよいという。(そのまえに夜は寝るのが筋なのだろうが)また短時間寝ることにより、集中力が高まり、午後の仕事に集中力が増すのだそうな。そういえば昼寝ができたころは、午後も集中して仕事できていたなあ。最近は、どうも集中力がなくて。と、それは夜中まで仕事しているか、帰宅後にいろいろ手がけてしまうためか。とにかく眠たい。そんな毎日を解消しながら、将来のあるべきオフィスの姿をまじめに検討しているって、それも「昼寝」をまじめに取り上げようとしている私ってなんだろう。酸素濃度を高くして、集中力を高めるとか、意識がぶっ飛びそうになる前に光を強く当てるとか、考える前に「さっさと帰れ!」と建物から人を追い出すようなオフィスってつくれないものだろうか。どうして自宅に持ち帰ってまで仕事しようとするのか、家族に迷惑かけてまで働きすぎてしまうのか、自分も含めて反省することしきり。

あしたもまた昼寝かな?

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矯正歯科

一ヶ月ぶりに表参道の矯正歯科まで出かけた。ワイヤーの「締め直し」である。診療台に座り、いつもの歯間掃除が終わると、矯正歯科の先生がおもむろに歯を何かで縛りはじめた。こんなこと、いつもしていないぞ、と警戒心しきり。施術が一通り終わったところで質問すると、歯と歯の間が開いてしまわないように、細いビニール紐のようなもので歯をつなげているという。いよいよ、受け口になっている下の歯を上の歯の内側にいれるらしい。ということは、またかみ合わせが最悪の時期を迎えるのですね?歯科医の先生は穏やかに、一、二週間、前歯の噛みあわせが悪い時期があるでしょうが、それをすぎればきちんとかめるようになりますよ、といわれました。ああ、憂鬱。またりんごとバナナとヨーグルトの生活なのね。おかゆのバリエーション増やさなきゃ。

はじめるときにもう少し冷静になるべきだったのか。ことのきっかけは、おねえさまが歯並びのきれいな人が好きと言ったことだった。歯科矯正すれば?と。いまだかつて、自分の歯を人工的に抜いてしまう、また歯並びを変えてしまうなんて考えたことがなかった。しかしおねえさまに気に入られたい一心で、一週間おきにスコンスコンと四本の歯を抜いたのが昨年の夏。以来ワイヤとブラケットがついた生活を続けている。

おねえさまは、自分が勧めたとは言わず、「もてたい一心で矯正始めたんだよね?」といっている。ええ、そうですよ、おねえさまのような素敵な女性に気に入ってもらえるようにね、と心のなかで思いつつ、「まあ虫歯予防と、医療費控除ねらいですかね」と答えている。こんな程度の展開なら、こんなに苦しむことを背負い込むこともなかったかもしれない。まあ選択したのは自分だから、我慢して続けるか。

そろそろ堅いものが食べたいけど、そのまえに食事のたびに、激痛が走る時期を何回か潜り抜けなきゃいけないんだよね。もしこどもができても、歯の矯正はおとなになってからやらせよう。小さいうちにやらせると栄養障害になるか、かんしゃくおこすぞ、こりゃきっと。

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てっぺん 男道場

渋谷のてっぺん 男道場にいった。行ったのは人事異動に伴う壮行会のため。部下が課長に昇進し、しかも自分と同じ資格給をもらうことになった、というちょっと複雑な気持ちになる昇格昇進人事。他方、小職は部下を持たないひとり課長となった。仕入れ専門の「特命課長」となって、がんばりなさいという人事。なんだかなあ、という話はまた別途。

てっぺん男道場は、雨模様の天気にもかかわらず、女性客でにぎわっていた。それも、うなづける。予約客にグリーティングカードを用意し、来店客には威勢のいい挨拶でお出迎え。トイレでは朝礼の様子をビデオで流している。この朝礼が威勢いい。参加することも見学することも出来るらしい。そしてなぜか訪問帳がトイレにある。書いている人がいる。なんだ、このみせは?と不思議に思いつつ、ちょっと共感。アツイんだよなあ。最近アツイおとこが少なくなったから、こういうみせに女性客が集まるのかしら、と考えてみる。

かっこいいオトコの従業員が多いときいていたが、それはそうでもないんじゃないか、とふと思う。ただ気風のよさというか、威勢のよさは、他の店ではあまり見られなくなってしまったかもしれない。見ていて気持ちがいい。

ちなみに道路の反対側に女道場がある。こちらも行ってみたが、とても満足できるものではない。男道場とは反対に男性客が多かったが、フロア担当が少なすぎて、てんやわんやになっている。オペレーションの失敗。まあがんばってね、と心のなかで思う。一週間後にまた行くとしたら、男道場に行くだろう。がんばれ、女道場。

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ああ、勘違い

誰だろう、あの遠くにいる美人さん?だれか新人さんでも入社したのだろうか?きれいだな。みたことないな。誰だろう・・・・いや、みたことある。そうか、お姉さま、またドレスアップしてきたのですね。誰かと思いましたよ、まったく。

そんなことを考えていたら、「顔がにんまりしていますよ。どうしたんですか?」と後輩に声をかけられた。「いや、誰か新しいひとが入ってきたと思ったら、勘違いだった。」そう、こたえたものの、ちょっとドキドキしていたのは見破られたかもしれない。まあ、いいか。

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悩ましき谷間

オフィスの席替えで、かつての部下の前に座ることになった。仮にさっちゃんとしておこう。さっちゃんは秘書にするならもってこいの、気配り上手である。ぶつぶつひとりごとをつぶやいていることは多いが、大抵は陽気にこなしてしまう。また、言われた仕事を言われた以上に仕上げてしまう、がんばり屋でもある。それが、どういうわけかボーイフレンドがいるように見えない。不思議である。

その彼女の前に座るのは、なつかしく楽しくもあるのだが、悩みがひとつ。どういうわけか彼女、胸元の開いた服を着てくることがある。しかもご立派なのである。悲しいかな、オトコとしてチラチラみてしまわざるをえない。これは逆ハラだといっても仕方がない。ジョディーフォスター演じた「告発の行方」でも、女性に責任がないことはあきらかである。オトコがわるい。特に品性がない、オトコがわるい。けど目が行ってしまう。そういう自分が情けない。これから毎日、悩むことになるかと思うと、ちょっと悲しい。

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携帯電話

ときどき無性に携帯電話を壊したくなる。

こいつのおかげで、四六時中仕事させられて、土曜日も日曜日も上司からの叱責に耐える羽目になり、出なきゃ出ないで逆切れされて、受け付けるほうは「携帯にメールしといて」と返信ないまま、一方通行のコミュニケーションを強制される。

はたまたこちらがラブコール送ったところで、返信はなく、いつまでたっても返信はなく、返信があるときは決まって、「ごめんなさい」。はいはい、わるいのは私です。わかっていても、イライラする。

もし今の仕事を辞めたら、まっさきに携帯電話を解約したい。メールからも電話からも、解放されたい。土日、もたずに歩くと、どんなに開放感を味わえることか。なんで部下を持ったら、四六時中「携帯」のお世話をしなきゃいけないのか。冗談じゃない。

けどいまはまだ、そんな携帯を捨てられない。いつか捨てる日がくることを願って、今日電話帳以外のすべてのメモリをクリアした。ちょっとすっきり。思いでも記録もすべて「削除」。それでいい。ひとの記憶は機械に宿るわけじゃないんだから。

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とうとう開設

よせばいいのに、とうとう書き始めてしまった。

どうして私の人生は「ネタ」になるんだろう、とふと考えることがある。こっちは一生懸命考えて考えて、良かれと思って行動して。けどどうも思う方向と違う方向に流れていったり、予測も出来ない悲劇が待っていたり。たまに喜ばしい予定外の出来事があったりするけど、本当にごくたまの話で、普段はいったって平穏。何事もない日々。特に最近は、浮かれた話もなく、仕事は追い詰められ、ライフカード握り締めて『どうする!』と毎日叫んでいる。

どういうわけか、この会社ではじめて中間管理職にさせていただいて、その結果、部下からも上司からも責められる立場になり、どうして独立しなかったのだろうと悩んだり。『お前、独立できるほど準備してないだろ』といわれれば、それもまた事実で、なんだか『北の国から』の純くんのような、もどかしい話ばかりです。

ちゃんと世の中の役に立つ仕事がしたい、と願っているのに、自分の仕事が役に立っているのかどうか、実感がない。これっていかんジャン、と最近よく思う。だれか私の仕事で喜んでくれているのだろうか、私の仕事の成果に満足してくれているのだろうか、誰かに新たな不満を生んではいないだろうか、とかとか。

たくさんの不安を抱えながら、とにかく自分のあしあとを残しておこうと書き始めました。どうぞよろしくお願いします。

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