カテゴリー「文化・芸術」の4件の記事

シルク・ドュ・ソレイユ

行ってきました、シルク・ドュ・ソレイユ ZED.。朝からマンションのカギは壊れるわ、前日に連れから熱っぽいとメールがきて無理かな、と考えたりとか、雨が降りそうとか、なんだか「行くな」と言わんばかりのマイナスオーラを感じていたのですが、でも行ってきました。とにかく、最高!
私はラスベガスに行ったことがありませんが、世界のエンターテーメント、ショービジネスはこんなに洗練されているのかと思いめぐらせずにはいられないぐらい、素晴らしい。ショーのテンポ、音楽、構成、ストーリー、テクニック、そして観客との一体感。どれをとってもブルーマンのように、日本のエンターテーメントにはない、なにかふしぎなものが宿っている。
ひとの肩の上にひとが立っている、それが四段というだけでもすごいのに、それがリズミカルに芸術性を伴って魅せられる。ジャグリングは、あまりに高度なせいか、二度落としていた。いいじゃないか。空中ブランコ。テレビの画面で見るのとはわけが違う。じぶんの目の前で、すごく近い位置でリアルにひとが舞っている。そう、ひとが舞っている。それも男性も女性も、まるで羽が生えているのか、妖精かのように華麗にきれいに舞っている。これをサーカスとは言わない。高度に芸術化されたショービジネスだ。
このショービジネスを常設ステージを作って来日させるために、多額の投資をオリエンタルランドは行ったという。確かに来場者の客層は私を含めてTDRの主要客層と異なる。しかしながら私自身、10数年ぶりにTDRへ足を踏み入れるという、オリエンタルランドにとっては想定通りの顧客になった。TDRでは得られない、(相乗効果を生みうる)エンターテーメントにオリエンタルランドは投資した。いまの日本で、財布のくちを開かせるには、このような仕組みがいるということなのか?
ウィキッドや、シルク・ドュ・ソレイユのようなエンターテーメントなら、私は今後もお金を払うだろう。映画や演劇を観るのと同じ感覚でチケットを買うだろう。安い、高いではなく、満足するエンターテーメントを見たいから。
そういえば席にはドリンクホルダーがあり、またかなりのゆとりがあった。東京の感覚ではちょっとめずらしい。日本が成熟した証なのだろうか。

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ピカソ展~巨匠ピカソ 愛と想像の軌跡

いま六本木の国立新美術館で開かれているピカソ展をみた。一般によく知られている、よくわからない絵を描く前は、普通のデッサンや肖像画を描いていたことが展示からうかがえる。そして当たり前のことだが、それらはうまい。特に人物のとらえ方、女性のからだの曲線のとらえ方は、素晴らしい。生を生み出す性としての讃歌にあふれているといってもいいのではないか。生涯、何人もの恋人がいたようだが、ピカソはそれぞれの女性を心の底から愛していたような、そういう愛情が絵の中からにじみ出ている。私はそのなかでも「マリー・テレーズの肖像」に魅かれた。なにがほかの絵とちがうのか、うまく説明できない。ただ少なくとも絵筆を握って描いている時、その人に対する愛が絵筆という道具を通じてカンヴァスにあふれ出ている、というなにかが伝わってきた。そう観たとき、ピカソの絵は、わかるものではなく感じるものなのではないか、当時フロイトやユングといった、人間の性に関する研究が進んでいたころであるし、「女を凌辱するミノタウルス」を描いたのは、明らかにされる自分自身の情欲に対する不安と、その素直な表現なのではないか。そんな風にみると、不安定な構図が、たちまち安定したひとつの造形にみえてくる。不安定を、不安を表現したいから、あんな形になっているのはないか、と。

情欲の表現は、この年齢になってもまだ戸惑うことが多い。素直に、好きとか、愛してるとか、そういう表現ができない。なにか音楽を奏でたり、文章を書いたり、絵を描いたりすることができるひとがうらやましい。わたしにあるのは、どこまでもうまくいかないコミュニケーション不全のもどかしさ。言葉は完全ではないからこそ、言葉以外のコミュニケーション手段を駆使できるようになりたい。レオナルドダビンチやピカソは、そんなことができたのだろう。だからもてたんだろうなあ。

同じアーティストでも小室哲也は、逮捕されてしまった。アーティストとお金は相性が悪いのでしょうか?アーティストはアーティストの苦しみがまたあるのかもしれません。

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ウィキッド

劇団四季のウィキッドを観ました。久しぶりに感動する舞台でした。こういうもの、二回観たいとあまり思わないのだけれど、これはもう一度観たい。もうひとつのオズの魔法使いと、副題にあるとおり、おとなのための物語という気がする。期待役割と理想との不一致、政治、同性間の友情など観客を舞台に引き込むストーリー展開がすごい。主人公のすばらしい歌声もダンスも素晴らしい。役者の演技がすごいのか、演出がすごいのか、よくわからない。主役のグリンダが、ソロの台詞を二回も噛んだのは、素人ぽかったけど、グリンダはそれでいいのかもしれない、主役はウィキッドだから。ウィキッド、カッコイイ。最高。だからまた観てみたい。
中世の魔女狩り伝説を思い出す。ペストなどの疫病が流行ると、魔女の仕業として若い女性をいけにえにして、宗教的儀式で、村人を救おうとした。争いの絶えないオズの国に気球に乗ってやってきた当主は、共通の敵を自ら創りだし、施政をしいた。いずれも集団心理を利用した、愚かな選択。いじめの論理も、これに似ている。じぶんたちと異なるものを排除しようとする、集団心理。ナチスドイツが、民主主義に基づく「選挙」で選ばれた、という集団心理の怖さ。一部分の真実を、「報道官」が事実を捻じ曲げて報道すれば、それが「真実」としてひとり歩きする。これが「政治」と呼ばずして、何と呼ぶのだろうか?テレビや新聞や、週刊誌やネットの報道を信じて、自ら真実を知ろうとしなければ、なにも真実はわからなくなってしまうかもしれない。闇のこどもたちで、貧しさに付け込み、人身売買や臓器移植を行うブローカーは、そんな現代で経済の一部を占めている。真実を知る恐怖。(余談だが最近、上映する映画館が増えたと聞いて、ちょっとうれしい。)
ウィキッドはオズの魔法使いではない。生身の人間を観察し、ひとの弱さと強さを表現した、ヒューマンストーリー。是非また観に来たい。

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天璋院篤姫展

江戸東京博物館へ天璋院篤姫展を見に行った。前から見たいと思っていたが、なかなか行けずにいたもの。そもそも大奥に関する知識は皆無に近いのだが、「最後の大奥 天璋院篤姫と和宮」鈴木由紀子著 幻冬社新書を読んでいるうちに、興味がわいた。加えて展示物の案内ナレーションを松坂慶子さんがしていると聞いて、大河ドラマとダブらせて聞いてみたいと思っていた。

会場は、多くの来場者でにぎわっていた。中高年の女性が多かったろうか。家族連れやカップルや、高齢の方々など、来場者の客層は幅広かったように思う。以前、レオナルドダヴィンチのレスター手稿展や葛飾北斎展に行ったときのように、多くの人がそれぞれの展示に見入っていた。両者に匹敵するぐらい、多くの来場者を集めた展示なのではなかろうか?

それだけこの天璋院篤姫という方の人生が、波乱に満ちた、しかし凛としたその時代の女性の生き方を貫いていて、いまに伝えるものを多く含んでいるということなのだろう。島津家から徳川宗家第13代将軍の正室として嫁いだ天璋院篤姫は、わずか2年足らずで夫を亡くし、未亡人となる。その後明治維新とともに郷里である薩摩藩に江戸城を攻められる身となり、徳川宗家の存続に一身をささげる人生をおくる。歴史の定めとはいえ、この方の生き方は、その困難を想像するに余りあるばかりか、なぜこれまで注目されなかったのか、不思議に思うぐらい示唆に富んでいる。聡明な女性が、実家と夫の家との間のみならず、嫁姑の確執を抱え、しかも嫁は皇族の出であり、その周囲にそれぞれ大勢の取り巻きをもつという、これでもかと言わんばかりの局面にいながら、江戸城の無血開城という大きな役割の一翼を担い、強い意志の下、大奥を束ねる姿は、さながら大勢の従業員を抱える上場企業の女性社長のようではないか。

私は、「家系」とか「家督」とか、天璋院篤姫が守った対象にはあまり興味がない。それは時代とともに変わるものであり、臨機応変に変わってこそ、時代とともに生きることと認識している。現代は個々人のビジネスマン、ビジネスウーマンとしてのスキルが要求されてくる時代であり、言い換えるとそれぞれがそれぞれの局面において、気丈でかつナーバスに愛情のあふれる英断を要求されている。それはこの天璋院篤姫の生き方にも重なるところが多々あると思う。是非多くの若い女性に、この人の生き様を知ってもらいたいと願う。知って何かを感じ取ってもらいたい。そんなことを考えさせる展示であった。

余談だが、松坂慶子さんのナレーション付で、今回の展示物を紹介するDVDを製作したら結構な枚数売れるのではなかろうか?そういうことは主催者のNHKが考えるのだろうが、会場に置いていないのは商機を逃しているな、とふと思った次第である。

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