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2012年2月

「反原発」の不都合な真実

書店でタイトルを初めてみたときから気になっていた、「反原発」の問題点を指摘する数少ない新刊、「反原発」の不都合な真実を読んだ。読む前に、あらかじめ気になっていたことを付箋に書いておいて、そのことに触れているかどうか、具体的な解決策を明示しているかどうか、気にしながら読んでいったが、残念ながら筆者は、意図的か意図せずにか、わたしの疑問に直接答ええる記載はしていなかった。
しかしながら、いくつか同意できる記述もあり、なかなかユニークな著作であることには、好感がもてる。例えば福島第一原子力発電所の事故は、人為的ミスによる人災であり、原子力の平和利用そのものが危険であるものではないこと。また日本の原子力技術を評価する世界の国々は多数存在し、地球温暖化を防止し、世界各国の成長する電力需要をまかなうために、日本の経験を世界に技術移転・技術輸出するべきであること、最終的な核廃棄物の処理に「日本のように、自由に利用できる土地が少なく、政治的なリスクも大きいなら、(中略)人間が住んでいない膨大な土地が余っている国と国際共同プロジェクトを組めば、ビジネスとしてwinーwinの関係を築くことも可能」p168と指摘していること。これらは、いまから四十数年前に原子力の火を灯してしまった日から、ずっと検討されてきてしかるべきことなのに、安全神話と妙なタブーにより触れられることすらなかった。
東京電力や国が、福島第一原子力発電所事故をめぐって責められるのは、それが天災による避けようのない事故だったと主張していることにあり、そうではなくて起こるかもしれないリスクに対して有効な手立てを講じてこなかった不作為が、責められるべき責任の所在ではないのだろうか?原子力発電所が立地する自治体も、多額の補償金とともに、十分な安全措置を講じますという説明を信じたからこそ、受け入れたのであって、それは国の責任です、いえ電気事業者である東京電力の責任ですと、当事者同志が責任のなすりつけ合いをする姿はなにより腹が立つことだろう。そして人為的ミスを防げなかったからこそ、二度とこのようなミスを犯さないためにどうしたらいいか、ということが問題となるべきであって、既存の原子力発電所すべてが人為的ミスを起こしているまたは起こす可能性があるから運転再開を認めるべきではない、という主張とは全く区別されるべきものだろう。原子力発電所立地自治体の首長が、これで安全だと明示して欲しいと主張しているのは、技術の安全性を担保して欲しいという視点はもちろんあるだろうが、それ以上に福島第一原子力発電所で起こってしまった事故のような不作為はないと、責任の所在を明確にして言い切って欲しいという意味ではなかろうか。残念ながら国も電力事業者も、この悪魔の証明ともいうべき、「ないことを証明する」術をもっているハズもない。だからこそ、政治から独立した安全審査機関の創設や、情報公開の徹底が必要なのではないか。それができないなら、たとえ日本中の原子力発電所が停止して、電力供給に大きな懸念がでたり、電力コストが大幅に上昇したとしても、そんなリスクは取れない、という選択を原子力発電所所在自治体や国民がする可能性は十分にあるのではないか。これは合理的な議論で、十分な情報を得るための手段であり選択であるとわたしは考えるが、著者はそこは意見を異にするようである。
また人為的ミスだからこそ、技術を欲しがっている地域・国に、人道上国際法上の問題があるなどの事情がある場合を別として、技術移転・技術供与することは、理にかなっている。忘れてはならないのは、いかにして技術的安全性を保つかのみならず、人為的ミスを防ぐか、制度や仕組みの部分まで輸出していかないと、真の意味での輸出にはならないということである。加えて言えば、ある国ある地域が脱原発を進めることと、ある地域ある国が原子力利用を推進することとは、共存するべきものであり、だからこそ人為的ミスを犯して事故を起こした我が国こそが、しっかりとどこに問題があったかを世界に示し、それを改善する方法とあわせて提供することではじめて、極めてオペレーションリスクの低い原子力発電所が世界に立地されることになるのだろう。
国際共同プロジェクトこそ、なぜいままで誰も具体的な動きをしてこなかったのか、その方が不思議である。言い換えれば巨額の補償金をあてにした、きな臭い政治的取引に終始してきたからこそ、いつまでも抜本的な解決策が見出されることなく、右往左往してきたのではないか。自ら「闇」を作り出して、利権に与ろうなどとするから、話がおかしくなるのであって、オープンにフラットに考えれば、国際協力という選択肢は十年前二十年前に実現していてもおかしくないではないか。これが政治の不作為でなくて、なんだというのだろう。
筆者の主張に同意できない部分も数多くあるが、他方原子力発電推進をスケープゴートにしてしまう風潮にも歯止めがかかるべきだろう。おたがいの主張は、かみ合っていないし、いえば不毛ですらある。マスコミも政治家も、かみ合った議論を避けているようにすら見える。いったいなにが都合悪いのか。いったいどうしてこんなに同質的に、世論や社会が動いていく(動かされている)のか。とても気味が悪い。是非、本書の波紋が広がって欲しいものだとわたしは思う。

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産みたいのに産めない〜卵子老化の衝撃

ネットのニュースで、NHKが卵子の老化を取り上げて反響を呼んでいると知り、久しぶりにNHKオンデマンドを思い出し、2月14日付クローズアップ現代を観た。

<http://news.nifty.com/cs/headline/detail/jcast-122311/1.htm>

以前も同じようなことをブログに書いたが、女性も男性と同じように働かないと、キャリア形成ができないと思い込んでいたり、企業のキャリア形成ステップが女性の妊娠可能年齢を考慮していなかったり、はたまた四十代すぎても医療の進歩でこどもは産めると勘違いしていたり、と様々な事情や背景はあるにせよ、男性も女性も、年齢と共に妊娠可能性が低くなっていく、不妊の可能性が高くなっていくことにあまりに無自覚ではないか。
ひととひととの出会いなんて、偶然でしかないし、そのひとと相性が合うか合わないかすら、つきあいを重ねていかないとわからないのに、35までは結婚しないとハナから決めていたり、結婚してパートナーができれば、こどもはできると思い込んで、後回しにしていたり、誤解を承知で言わせてもらえば、どこかで誤ったメッセージを若い男女が受け取ってしまった結果としか思えない。医療も科学も、決して万能ではない。困難をどうやって克服するかを常に挑戦はしているけれども、それと高い妊娠可能性とは全くリンクしない。生きているということ、地球にいきる生命のひとつとして、限られた寿命をいきているということを、ぼくらはもっと謙虚に受け止めるべきだろう。偶然の賜物として、いまこの世に生きているということ、そして新たな生命を授かることは、また偶然であり、それは多少は介入することはできるかもしれないけれども、あくまでも自然の摂理が一番大事ということ。
一方で、男女雇用均等法が施行されて、しばらくのあいだの女性正社員ならびに正社員になりたくてもなることができなかった女性社員の一部は、じぶんのからだの変化を振り返ることすらできずに、これまでの社会人人生を突っ走ってきて、いきなり厳しい現実を突きつけられたとも感じるのかもしれない。誰も教えてくれない。自己責任の名のもとに、仕事か家庭かの二者択一を迫られて、企業の論理に負けまいと奮起してきて、この仕打ち。誰を恨むでもなく、ただただ切ないのかもしれない。
願わくば、男性も女性も、雇用側も被雇用者も、事実を知ることだろう。事実を知った上で、どう解決するのが最もお互いにメリットのある解決方法なのか、真剣に検討するべきだろう。なんども同じことをいうが、こどもは天からの授かりもの。ひとが自由に授かる授からないを選択できるものではない。いのちをコントロールできるなんて傲慢な考え方はもうやめようではないか。

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はやぶさ 遥かなる帰還

自宅近くの映画館で、「はやぶさ 遥かなる帰還」を観た。

もうすっかり涙脆くなってしまったのか、途中二度も目尻に塩辛い液体が滲み出てきた。
二十年間、ずっと一途にサンプルリターンを追い続けてきたって?しかもNASAの十分の一の予算で?それだけでも感動物語じゃないか。しかも何度となく苦難を乗り越えている。
当初設計では想定外の使い方をせざるをえず、またビジネスと夢とのバランスに悩まされる、その葛藤もまた、共感を誘う。
わたしは技術者ではないが、この十年、建築と施工という現実の世界と向き合ってきて、しかも様々な問題があって、いっしょに夢をみたとともに、残念ながら技術者の夢を叶えることができなかった、その場面をいくつも見てきた。また夢をみたエンジニアの友人が、外的な要因で夢を叶えられずに、別の職場へ移っていったのも知っている。一途に、真面目にやってきたことが、必ずしも評価されるとは限らず、世の中の変化に伴って、部署が他社に売却されたり、分野ごと研究開発から撤退したり、というのが民間の世界だ。飽きっぽいわたしには、到底向いていない職業だろうが、ひとつのことに夢中になれるエンジニアの世界は羨ましくもある。ましてその成果が世界で認められるなんて、夢のようではないか。彼らは間違いなく、ラッキーなメンバーだろう。

この国は、こうやって技術や競争力を養ってきたのかもしれない。絶えず改良を繰り返して、諦めずに、なにか打つ手がないかと考え、リスクを承知の上でチャレンジしてきた。最近はどうも、行政だけでなく、政治家も一部の民間企業も、保守化が進んで、チャレンジすること、変わることを恐るようになってきたように見える。リスクを避けてばかりでは、成長はできない。短期的な費用対効果ばかりを求める、財務至上主義では、未来はなにも変わらない。一途に寝食忘れて仕事に取り組む仕事人間が、あるいは十年後の日本を、あるいは世界をあっと言わせる新たな世界を切り開くかもしれないのだ。

宇宙開発に限った話ではないが、こういう未来への投資が、例えばこの国にあると言われている1400兆円の個人資産を活用して行われれば、どんなに未来が変わるだろうか。くだらない相続騒動を生むぐらいなら、と全国の資産家が遺言で寄付していってくれたら、まだまだこの国は成長していけることができるだろう。お金の使い方を知らない二世世代や不透明な政治による再配分に任せるより、ずっと効率的で公平である。

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大学受験の想い出

通勤途中に、私立のマンモス大学があり、ここ数日予備校の講師やら大学生協のメンバーやらが、受験生に応援メッセージを声かけている。

そういえば遥か昔、大学受験なぞというものをしたことがあった。両親がともに国公立出身のため、基本的には国公立以外の受験はさせてもらえず、末期の共通一次世代としてA日程B日程といわれる、二校受験のみがわたしの大学受験だった。

本命の大学受験本番で、球の方程式の公式を思い出すことができず、貴重な数学の大問を落としたところで動揺し、その後の小論文試験は全くズタズタだった。

もう一校受けたところは、crowという単語を全く知らないにもかかわらず、文脈からみてどうみてもこれは、からすだろうと推論し、和訳で点数稼ぎができた。

結果、本命には当然落ちたものの、もう一校に合格し、仮面浪人するつもりで入学したところ、そのまま卒業することになった。

このころからすでに、なるようになる、と割り切っていたのかもしれない。
その後はさらにいろいろと紆余曲折を経て現在に至っているのだから、大学受験にこけたことなど、いまさら大した問題だとは思っていない。第一、「鶏口となるも、牛後となるなかれ」ということわざが、いまに至るまで相にあっているのだから、下手にトップを目指さなくて正解だったのでは、と思っている。そのツケは後日払うことになるのだが。

変なたとえかもしれないが、受験も結婚も似たところがあって、入口で大騒ぎしたところで、その後の人生が決定的に変わるわけではなく、むしろ入口を通り越したあとの「時間の過ごし方」が大きなウェイトを占めるということを、いままさにその目前に立っているひとは気がついていない場合がある。

受験生のみなさん、精一杯これまでの成果を発揮してきてください。またその発揮が、必ずしも満足のいくものでなかったとしても、マイナス評定を基本とする一部の例外的な社会を別として、挽回するチャンスは何回かやってきます。自分が生きるフィールドをみつけるひとつの機会ぐらいに考えて、気を楽に考えることをおすすめします。

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情報の価値

年下の友だちが、被災地にボランティアに行った様子をFacebookで発信している。
リアルタイムに、彼女が見たまま感じたままの、生の情報がそこにある。
目の前の、話し手が情報の発信者で、その率直な言葉に、声が詰まる。
それはニュースでもレポートでもなく、ダイレクトなことば。胸にしみる。

「情報の呼吸法」津田大介著 朝日出版社刊を読んだ。そこには、情報の発信の仕方が書いてある。「情報は発信しなければ、得るものはない」と津田氏はいう。
そのとおりだと思う。
そこにはリアルな人間関係がベースにあって、それをネットの力で広げていく戦略がある。

友だちの発信もまた、強い想いが情報の濃さとなって、シミ出してくる。

高橋優というアーティストを教えてもらった。
残念ながら、名前すら聞いたことがない。
けれども、教えてくれた人の感性を信じて、アルバムを買ってみた。
なるほど、上っ面だけの歌詞が横行する中で、ことばの力を感じさせるというか、
強いメッセージがひとつひとつの詩に込められていて、聴きごたえがある。
よりパンチの強い、GReeeeNのようだ。
教えてくれて、ありがとう。

情報とは、「いいね!」ボタンのためだけにあるわけではあるまい。
もっと深い、なにか伝えたいもの、伝えるべきもののためにも存在する。
それをショーシャルネットワークツールは、誰もがコンビニエントに使えるモバイルのツールとして、フラット化してしまった。
残念ながら、情報はフラット化したからといって、流通がよくなるわけではない。
むしろ「誰が」「どんなふうに」「どんな想いで」発信したか、というフェイスツーフェイスの情報のほうが、価値がある場合がある。価値があるものは、流通する。
デジタルで、リアルは代替できない。できないからリアルコミュニケーションに価値がある。
リアルコミュニケーションに価値があるからこそ、どういう情報発信をするかが、
大事になる。ことばでも、詩でも、音楽でも、絵画でも、アートでも、写真でも、アクションでも。たとえデジタルツールが使えなくても、たとえ言葉でうまく表現できなくても、
いい質の高い情報は、必ず流通する。それが情報というものだろう。

もしもマスメディアの機能が停止して、マス情報が全く入ってこなくなったとしても、
ちゃんと身近な情報ルートが確保されていれば、おそらく災害時でも生き延びる可能性が高いのだろう。

人の役に立つこと、そして人の役に立ってあげたいと願うこと、そういう行動と心が、
情報の価値を決め、その発信者の価値を決めるようになってきたのではないか。
東日本大震災をきっかけとしたパラダイムの変化が、こんなところにも現れているような、そんな気がした。

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