「反原発」の不都合な真実
書店でタイトルを初めてみたときから気になっていた、「反原発」の問題点を指摘する数少ない新刊、「反原発」の不都合な真実を読んだ。読む前に、あらかじめ気になっていたことを付箋に書いておいて、そのことに触れているかどうか、具体的な解決策を明示しているかどうか、気にしながら読んでいったが、残念ながら筆者は、意図的か意図せずにか、わたしの疑問に直接答ええる記載はしていなかった。
しかしながら、いくつか同意できる記述もあり、なかなかユニークな著作であることには、好感がもてる。例えば福島第一原子力発電所の事故は、人為的ミスによる人災であり、原子力の平和利用そのものが危険であるものではないこと。また日本の原子力技術を評価する世界の国々は多数存在し、地球温暖化を防止し、世界各国の成長する電力需要をまかなうために、日本の経験を世界に技術移転・技術輸出するべきであること、最終的な核廃棄物の処理に「日本のように、自由に利用できる土地が少なく、政治的なリスクも大きいなら、(中略)人間が住んでいない膨大な土地が余っている国と国際共同プロジェクトを組めば、ビジネスとしてwinーwinの関係を築くことも可能」p168と指摘していること。これらは、いまから四十数年前に原子力の火を灯してしまった日から、ずっと検討されてきてしかるべきことなのに、安全神話と妙なタブーにより触れられることすらなかった。
東京電力や国が、福島第一原子力発電所事故をめぐって責められるのは、それが天災による避けようのない事故だったと主張していることにあり、そうではなくて起こるかもしれないリスクに対して有効な手立てを講じてこなかった不作為が、責められるべき責任の所在ではないのだろうか?原子力発電所が立地する自治体も、多額の補償金とともに、十分な安全措置を講じますという説明を信じたからこそ、受け入れたのであって、それは国の責任です、いえ電気事業者である東京電力の責任ですと、当事者同志が責任のなすりつけ合いをする姿はなにより腹が立つことだろう。そして人為的ミスを防げなかったからこそ、二度とこのようなミスを犯さないためにどうしたらいいか、ということが問題となるべきであって、既存の原子力発電所すべてが人為的ミスを起こしているまたは起こす可能性があるから運転再開を認めるべきではない、という主張とは全く区別されるべきものだろう。原子力発電所立地自治体の首長が、これで安全だと明示して欲しいと主張しているのは、技術の安全性を担保して欲しいという視点はもちろんあるだろうが、それ以上に福島第一原子力発電所で起こってしまった事故のような不作為はないと、責任の所在を明確にして言い切って欲しいという意味ではなかろうか。残念ながら国も電力事業者も、この悪魔の証明ともいうべき、「ないことを証明する」術をもっているハズもない。だからこそ、政治から独立した安全審査機関の創設や、情報公開の徹底が必要なのではないか。それができないなら、たとえ日本中の原子力発電所が停止して、電力供給に大きな懸念がでたり、電力コストが大幅に上昇したとしても、そんなリスクは取れない、という選択を原子力発電所所在自治体や国民がする可能性は十分にあるのではないか。これは合理的な議論で、十分な情報を得るための手段であり選択であるとわたしは考えるが、著者はそこは意見を異にするようである。
また人為的ミスだからこそ、技術を欲しがっている地域・国に、人道上国際法上の問題があるなどの事情がある場合を別として、技術移転・技術供与することは、理にかなっている。忘れてはならないのは、いかにして技術的安全性を保つかのみならず、人為的ミスを防ぐか、制度や仕組みの部分まで輸出していかないと、真の意味での輸出にはならないということである。加えて言えば、ある国ある地域が脱原発を進めることと、ある地域ある国が原子力利用を推進することとは、共存するべきものであり、だからこそ人為的ミスを犯して事故を起こした我が国こそが、しっかりとどこに問題があったかを世界に示し、それを改善する方法とあわせて提供することではじめて、極めてオペレーションリスクの低い原子力発電所が世界に立地されることになるのだろう。
国際共同プロジェクトこそ、なぜいままで誰も具体的な動きをしてこなかったのか、その方が不思議である。言い換えれば巨額の補償金をあてにした、きな臭い政治的取引に終始してきたからこそ、いつまでも抜本的な解決策が見出されることなく、右往左往してきたのではないか。自ら「闇」を作り出して、利権に与ろうなどとするから、話がおかしくなるのであって、オープンにフラットに考えれば、国際協力という選択肢は十年前二十年前に実現していてもおかしくないではないか。これが政治の不作為でなくて、なんだというのだろう。
筆者の主張に同意できない部分も数多くあるが、他方原子力発電推進をスケープゴートにしてしまう風潮にも歯止めがかかるべきだろう。おたがいの主張は、かみ合っていないし、いえば不毛ですらある。マスコミも政治家も、かみ合った議論を避けているようにすら見える。いったいなにが都合悪いのか。いったいどうしてこんなに同質的に、世論や社会が動いていく(動かされている)のか。とても気味が悪い。是非、本書の波紋が広がって欲しいものだとわたしは思う。


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