スラムドッグミリオンエア
スラムドッグミリオンエアを観てきた。
アカデミー賞にノミネートされるにふさわしい、ハリウッド映画のようなサクセスストーリー、勧善懲悪なヒーローストーリーだった。娯楽映画として観に行ったので、映画の質やテーマについてとやかく言うつもりはなかった。しかし、一年半前実際に現地を見てきた経済発展著しいムンバイの街と、その裏側にある、貧民生活者とが同時に存在するなんともアンバランスな様子が描き出されていて、つい娯楽映画としてではなく、実際のインド経済として見てしまう。おそらくはアメリカからかかってくるコールセンターの様子、「本当のアメリカの姿を見せてあげる」と言いながら、車の窃盗についての冤罪で警官に痛めつけられたこどもに100ドル札を手渡す(おそらくはアメリカからの)外国人観光客、貧民街のこどもを搾取する悪人どもの姿など、さもありそうな情景がインド映画の手法で描かれている。
そのアメリカは、希望の国であり、経済発展のお手本として無条件に幸福の象徴として描かれる。唯一皮肉にとらえるのは、兄の死に際だけ。バスタブに敷き詰められたドル紙幣の中での死。金じゃない永遠の愛をテーマにしつつも、「あしたからどうやって生活していくの?」という現実的な問いをラティカは発している。愛では食えない、とわかっている。それを主人公ジャマールは、知恵と叡智で乗り越えていく。それは見事だ。
きれいすぎるほど、きれいに作られたサクセスストーリーが、フィクションのはずなのに、リアルな「きれいでない現実」がきちんと背景化されていて、純粋に娯楽として楽しむことを理性が止めている。こんな幸運はあるものじゃないとわかっているのに、でも「僕はアンラッキーで、きみは幸運だった」と盲目にさせられた少年に言わせている。それが余計に、絶望から希望を見出させる「リアリティ」につながっている。
映画中に表現されている絶対的貧困は、スラムドッグミリオンエアが救うものではない。脈々と息づくカースト制度が、いまもインド経済に影を落としているのではないか。富めるものと貧しいもの、その落差が大きいければ社会は不安定化しやすい。それを維持可能にするための仕組みは、所得再配分に代表される社会保障制度であったり、機会均等のサクセスストーリーだったり。新興国インドでは、所得再配分の社会保障制度より、機会均等のサクセスストーリーのほうが「受ける」ということだろうか?
かの国、アメリカはサブプライムローンをめぐって自ら資本主義の迷宮に迷い込んだ。新興国インドは、そのあとを追うのだろうか。それとも独自の道を進むのだろうか?プライスのない国、インドではなにか別の力が、その資本主義に加わりそうな、そんな気がする。


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