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2009年4月

スラムドッグミリオンエア

スラムドッグミリオンエアを観てきた。
アカデミー賞にノミネートされるにふさわしい、ハリウッド映画のようなサクセスストーリー、勧善懲悪なヒーローストーリーだった。娯楽映画として観に行ったので、映画の質やテーマについてとやかく言うつもりはなかった。しかし、一年半前実際に現地を見てきた経済発展著しいムンバイの街と、その裏側にある、貧民生活者とが同時に存在するなんともアンバランスな様子が描き出されていて、つい娯楽映画としてではなく、実際のインド経済として見てしまう。おそらくはアメリカからかかってくるコールセンターの様子、「本当のアメリカの姿を見せてあげる」と言いながら、車の窃盗についての冤罪で警官に痛めつけられたこどもに100ドル札を手渡す(おそらくはアメリカからの)外国人観光客、貧民街のこどもを搾取する悪人どもの姿など、さもありそうな情景がインド映画の手法で描かれている。
そのアメリカは、希望の国であり、経済発展のお手本として無条件に幸福の象徴として描かれる。唯一皮肉にとらえるのは、兄の死に際だけ。バスタブに敷き詰められたドル紙幣の中での死。金じゃない永遠の愛をテーマにしつつも、「あしたからどうやって生活していくの?」という現実的な問いをラティカは発している。愛では食えない、とわかっている。それを主人公ジャマールは、知恵と叡智で乗り越えていく。それは見事だ。
きれいすぎるほど、きれいに作られたサクセスストーリーが、フィクションのはずなのに、リアルな「きれいでない現実」がきちんと背景化されていて、純粋に娯楽として楽しむことを理性が止めている。こんな幸運はあるものじゃないとわかっているのに、でも「僕はアンラッキーで、きみは幸運だった」と盲目にさせられた少年に言わせている。それが余計に、絶望から希望を見出させる「リアリティ」につながっている。
映画中に表現されている絶対的貧困は、スラムドッグミリオンエアが救うものではない。脈々と息づくカースト制度が、いまもインド経済に影を落としているのではないか。富めるものと貧しいもの、その落差が大きいければ社会は不安定化しやすい。それを維持可能にするための仕組みは、所得再配分に代表される社会保障制度であったり、機会均等のサクセスストーリーだったり。新興国インドでは、所得再配分の社会保障制度より、機会均等のサクセスストーリーのほうが「受ける」ということだろうか?
かの国、アメリカはサブプライムローンをめぐって自ら資本主義の迷宮に迷い込んだ。新興国インドは、そのあとを追うのだろうか。それとも独自の道を進むのだろうか?プライスのない国、インドではなにか別の力が、その資本主義に加わりそうな、そんな気がする。

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六本木の公園で酔っ払いが叫ぶ

テレビや新聞、ネットニュースが同じ話題を一斉に報じていると、いつも違和感を感じるが、今回もどうしてまた騒ぎ立てるのだろうと思う。一昨日の夜、六本木の公園で、酔っぱらいが素っ裸になって叫んだ話だ。それであちこちのマスコミが一面トップで扱ってくれるなら、まねする人が出てもおかしくないのではないか。実際には社会面にちょこっと載るか載らないか。テレビに至っては話題にもしないだろう。
しかも酔っぱらいの家を家宅捜索する?ほんとに?そんな捜査がまかり通るなら、深酔いしてすぐ記憶が飛ぶご仁たちは、よほど怖い事件だと感じていることだろう。酔っ払って意味不明なことばを発して暴れるなんて、褒められたことじゃないけど、よくある話。国家権力ってこんなに簡単に国民の生活に介入していいのかしらん?
そりゃ迷惑を被った人は、大勢いるでしょう。有名人は、それなりのモラルがなければ、スポンサーがつかなくなってしまう。今も昔も、芸能人にとってスポンサーが命だろうし、だからこそいろいろなことを「自重」しなさい、といわれるのだろうし、その昔「普通の女の子に戻ります」なんてセリフが生まれたのだろう。けれども今回の事件はパパラッチの報道に似て、本当に視聴者や読者の関心なのか、疑いたくなる。たかだか酔っぱらいが起こした事件でしょ?誰もけがしていないし、警官が取り押さえて保護して、酔いがさめたら説教して釈放すれば済む話でしょ?なんでそうしないのだろう?
もし家宅捜索で薬物が出てきたら、それは大問題。けれども今回は押収されていないという。別の事件で、家宅捜索して薬物が出てきたのとは様子が異なる。そりゃ警官だって、有名人が深夜、ありえないような騒ぎを起こしたら、正気じゃない→薬物使用の疑いありと推測するのは理解できるが、それと実際に捜査するのとは、ちょっと違うのではないか?
別の有名人が、「私は女性だから外で脱がないけれども、(飲みすぎには)気をつけなきゃいけませんね」という趣旨の発言をして、これもリリースされているが、もしそんなことが起こったら、そっちのほうが夕刊紙をはじめとして男性誌がこぞって大騒ぎだろう。逆にいえば、今回素っ裸になった現場に一般人がいなかった(らしい)ことは不幸中の幸いかもしれない。とりあえず名誉は守られている、ということなのだろうから。
世間には、いろいろな酒癖の人がいるが、記憶が飛ぶ人にはくれぐれも用心したい。巻き込まれるから。相手がきれいな、素敵な女性なら巻き込まれてみたい、と思うかもしれないけど。

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めくそ、はなくそを笑う

めずらしく二日続けて友人と飲みに行った。不況の折、どうしても話はしんみりしがちであるが、それ以上に限られたビジネスチャンスにきわめて多くの同業者が群がっている様子が明らかになり、本当にそんなことに集中して飯が食えると思っているの?と感じてしまった。
猫も杓子も、といえば馬鹿の一つ覚えみたいになってしまうが、倒産した会社にハイエナのように群がって、金融機関が担保価値の切り下げをするのを待っている。当たり前のことだが、マーケット価値以上に貸し込みしてしまった金融機関は早く損切りして、次のビジネスチャンスに向けて再スタートを切ったほうが得策なのだろうが、必ずしもそうでないケースが目立っている。この業界には、「転売屋」と呼ばれる鞘抜きを専門に行う不動産業者がいる。所有者や担保権者が、真の不動産価値を知らないことをいいことに、たたき売りされた不動産を仕入れ、それをあっという間にエンドユーザーやエンド投資家へ転売する人たちだ。少し前まで、(上昇局面で)極めて羽振りが良かった人たちが、今度はハイエナよろしく、倒産会社に群がって、たたき売りされるエサを待っている。こんな業者にみすみす利益をくれてやるほど、金融機関も馬鹿ではあるまい。いや、そこまで馬鹿であってほしくない。
転売は、なにひとつあらたな価値を生まない。そこにあるのは情報格差だけ。同じ不動産にいくつもの値段がついて流通する状況は、当たり前といえば当たり前。欲しいと思う人にとっては、いくらだしてもほしいものになるだろうし、投資目的なら資金調達能力や期待利益率次第で、割引率に差が出てしまう。そんな当たり前のことが、一部の金融機関融資担当者にはわかっていないらしい。価値のあるものも、ないものも一緒の担保価値変動をすると思いたがっている。いや、そのほうが上司や審査担当部署に説明しやすいからかもしれない。失敗は失敗で認めたほうが、次のビジネスチャンスをえやすいだろうに、金融機関には、あまりこの発想はなさそうだ。
目を転じれば、このくには世界最速で高齢化が進んでいるといわれているのに、相変わらずあちこちで再開発の大合唱。地方自治体の首長が、高速道路いらない、新幹線駅いらない、借金を地方に押し付けるな、と言い始めているのに、その地方都市で駅前区画整理事業や再開発事業を、「計画経済のように」粛々と行っている。そして出来上がった再開発ビルには閑古鳥が鳴いているものすらある。この国でディベロッパーと呼ばれる仕事がたくさんあったのは、人口が増えていて、経済のパイがどんどん大きくなるという拡大成長マクロ経済があったからこそ成り立っているのであって、移民は受け入れません、少子化対策には及び腰です、景気対策のため箱ものをじゃんじゃん作りましょう、借金は次世代が払ってくれます、という状態で誰がその作られた箱ものを使うのだろう?マンションでもオフィスでもリテールでも、少子高齢化が進めばスクラップアンドビルドなどと「贅沢」なことを言っていられなくなるのではないか?あるものを使いまわして使う。そうなるのではないか。
税金は、国民が生み出す付加価値の総量に依存しているものだから、生み出す付加価値の総量が減ってしまえば、減収にならざるをえない。デベロッパーは、そういう危機感を持っていただろうか?第二次ベビーブーム世代がマイホームを取得してしまうと、その後の世代では売上がじり貧になる。それは人口統計をみればあきらか。にもかかわらず、営々とモノづくりを続けているディベロッパーは、時代おくれかもしれない。
ディベロッパーは決してメーカになってはいけないと強く思う。プロデューサーであり、アレンジャーとして、経済合理性を追求するプレーヤーとして景気がいい時に登場するパートタイムな業種でなければならない。しかもその登場場面は、経済が成熟すればするほど、社会が硬直的になればなるほど減っていくのではないか。なぜなら壊すことの経済合理性が日に日に合わなくなるはずだから。
不動産業に身をおいて、しかもディベロッパーに身をおいて学んだことが、「この業界には未来がないかもしれない」とは、どうにもシニカルだ。大手ディベロッパーに、まちづくりの担い手として意気揚々と就職していく新人さんたちには、ひょっとしたらどこ吹く風なのかもしれない。それでもかまわないが、では自分たちが作っているものが、社会全体にとって50年後100年後も有意義な存在価値を有していると自信を持って言えるかどうか、冷静に考えてみてほしい。未来において、かつての江戸や大坂のような、ひとのくらしが息づくまちの、一部を形作っているかどうか、考えてみてほしい。もしかしたら違う選択肢があるのにもかかわらず、「いま」のために違う選択をしていないだろうか。
ディベロッパーは、ようやく淘汰の時期を迎えたのではないかと、ひとり思う。

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痴漢冤罪事件最高裁判決

先日、最高裁で痴漢冤罪事件に対する無罪判決が出された。被害者の証言だけに依存する、安易な立件に歯止めをかけたという意味で、冤罪事件に憤りを感じる身としては、非常に評価したい。他方、性犯罪の被害に苦しむ被害者の保護も重要な課題であり、その意味で目撃者の協力こそが最も望まれる。
またそもそもの話、満員電車をなくす、という発想も継続検討課題ではないか。時差出勤の奨励は、ワークシェアリングが労使とも検討されるこんにち、推進されてもいいのではないか。そもそも、毎日決まった時間に出勤を求める制度が前時代的かもしれない。いまは必ずしもそんな必要はないはずだから。
私たち日本人は、協調性、和の精神を重んじるあまり、犯人の疑いをかけられただけで「火のないところに煙はたたない」などと、スケープゴートを作り出しやすい。それでは昔の村社会と同じ過ちが繰り返されてしまう。合理的なルールがなければ、弁が立つひとが得をする社会になってしまう。それでは冤罪事件は一向に減るまい。
近く始まる裁判員制度で、冤罪事件に慎重な配慮がされることを強く望む。

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不動産はどこまで値下がりするの?

会社で、週刊誌の見出しを指さしながら、「いったいどこまで不動産は値下がりするんでしょうかね」と後輩に聞かれ、「そりゃ買える人が現れるまで続くでしょ。たとえばマンションなら、一戸3,500万円とか4,200万円で買えるようになったら、首都圏でかつ通勤圏なら買わないかい?収益ビルでも利回り10%とれるなら、買わないかい?いまはローンがつかないから、レバレッジが効かなくて不動産価格が暴落しているけど、普通にローンがつくようになりさえすれば、5~7%、8%で不動産が売れるようになると僕は思うよ。」と答えた。
実際、そうなんだろうと思っている。首都圏で利回り10%で立地が良くて・・・などという現状認識をもった首都圏以外の不動産投資家をたまに耳にする。ちょっと常識があれば、そういう物件もあるけれども、たいていは競争力に乏しい問題物件の場合が多い。もしくはシングルテナントで用途が特殊なものとか。転用が利かない不動産は、その分のリスクウェイトが加算されて利回りが高くなる。にしても、高額投資商品としての不動産が、しかも債券や株に比べて流動性の劣る不動産が流通するためには、不動産の証券化や流動化が必要であり、かつリスクに見合ったリターンがなければならない。それをすべてインカムリターンで賄うのは至難の業としても、少なくとも縮小経済下でさえも安定した賃料収入が見込まれるような競争力のある不動産は、他の投資商品との代替性において、値段がつくはずだ。あとはローンがつかないがゆえに、価格が下がっているだけ。不動産投資家特有の資金調達構造がわかっていれば、値下がりしたからと言って不動産融資を絞るほど単純な融資戦略を取らないはずだが、そこは金融機関特有の「基準」があって、その基準のもとに不良債権が査定される仕組みになっているから、仕方ないのだろう。そもそもアモチ(期限内分割弁済条件)を組んで融資するべきものまで、バルーン方式で期限一括弁済融資をしてきたから、傷口が深くなっている。また不動産価格が他の金融商品と連動して、上がったり下がったりする現実を、誰が冷静に分析していただろう。中庸であることを、ほとんどのプレーヤーが美徳だとは認識していなかった。そこにそもそもの誤りがある。
不動産が金融商品になったことで、価格の変動率、ボラティリティは高まったのかもしれない。それは現実の金利変動に加えて、不動産特有の「期待」が作用して、より大きな振幅を生んでいるようにも見える。ただそうはいっても、いつの時代にも実需は必ず存在して、その価格水準は合理的に算定可能なはずだと私は考える。変動の幅が大きくなればなるほど、その中庸値の存在価値はぞんざいになりがちだが、それはそれで必要なのではないか?少なくとも中長期の不動産投資分析では、中庸値の把握が不況期における事業の傷を浅くするはずである。
ゴールドマンサックスの四半期決算が好調だったそうで、増資を実施して公的資金を返済すると報じている。不動産金融市場にお金が回ってきたら、たとえ邦銀の融資姿勢が変わらなくても、不動産市況は好転するはずだ。そうなったとき、馬の尻に乗るような融資の回収姿勢を見せる銀行がもしあったならば、そこはすでに儲けのチャンスを自ら放棄しているに等しい。買い手にローンが出せるかどうか、冷静に判断するほうが、不動産ビジネスに対する融資ではもうかるはず。不動産は値下がりする。他方、不動産は値上がりもする。その前提で、他のプレーヤーをいかに出し抜いて、自らの優位なポジションを築くか、ここは金融機関の腕の見せどころかもしれない。

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かんぽの宿と不動産鑑定評価:その後

緩みきった毎日を過ごしていたら、その一方で総務相からは日本郵政に対して痛烈なお手紙が出されていたらしい。
http://www.soumu.go.jp/main_content/000015456.pdf
http://www.soumu.go.jp/main_content/000015457.pdf

ここで考えなきゃいけないのは、どうも日本郵政の意図と総務相の意図とが、すれ違っていることだろう。どのマスコミ報道を見ても、日本郵政が取得した鑑定評価の条件(現状有姿)と総務省発注の条件(経営努力による収益性向上)とが異なっていることを指摘している。これはとりもなおさず、日本郵政がかんぽの宿職員の雇用を優先したのに対して、総務省の鑑定評価は、国民の税金の使途としての処分を優先させている。厳密には、日本郵政が指定した鑑定評価の条件と、実際に入札で行ったこととは、整合していないかもしれない。実際の契約書を確認したわけではないから断定できないが、いわゆるバルクセールの条件として一定期間の雇用確保を条件としつつも、「合理的な条件」が整えば雇用条件を解約できるとしているケースは私もみたことがある。この合理的条件は、「この地域での運営は投資採算性が極度に悪い」なのか、「一般的な旅館経営における合理化の実施」なのか、はっきり明示していないが、大事なことは、ある日突然雇用契約を解約しないことだろう。生活がかかっているのだから、労働者への配慮はあってしかるべき話であろう。他方、通常の経営努力を前提とすると、当然ながら「リストラ」や「コスト削減努力」を現場に求めることになる。これまでファミリービジネスをしてきたと思われる、かんぽの宿で、それは実現可能なのだろうか?常識的にそれは可能だと判断できるのだろうか?
鑑定評価に条件を付す場合には、それの条件が蓋然性を有するかどうか、という判断基準がある。蓋然性とは、「たぶんこうなるだろうという、ものごとが起こる度合い。確からしさ。」と辞書には書いてある。あまり議論しても仕方のないことではあるが、日本郵政が発注した「現在の雇用条件をすべて維持する前提での」鑑定評価の条件が、あながち蓋然性を満たしていないとは言い難い。だからといって総務省発注の条件を、蓋然性がないと言い切ることもできない。つまり、雇用の維持か、租税の有効活用か、ダブルスタンダードが存在するわけで、それはどちらかに決めないことには、話が前に進まない。どちらにもそれなりの説得力がある。
でもどちらが望ましいか、という国政選挙を、いまの与党はしないんだなあ。与党が正しいと思ったことが、政治的に正しいとされていくだけ。それでいいのかなあ?
なあんとなく、すっきりしないふたつの鑑定評価が、多くの国民にあらぬ誤解を生んでいないかどうか、それが気がかりだったりする。おそらく両方とも鑑定評価上は、正常価格。ただし鑑定評価の条件が異なるから、単純な比較できないけどね。あーすっきりしないだろうなあ。そうでなくても一物四価とか五価とか言われてナーバスなのに。「ざっくり」とか「簡潔に」とかじゃなくて、ちゃんとしっかり説明させてほしいだろうな。この当事者の鑑定評価を実際に作成したせんせいは。

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ジニアス東京

さっきまで友人に誘われて、ジニアス東京にいた。およそわたしに似つかわしくない異空間。ミラーボールと回転するスポット照明が勝手に気分を高揚させる。入店が夜八時前、それから賑やかになるまでおよそ二時間、ひたすら待ちぼうけ。値段が違うとはいえ、時は金なりと思わないひとが多いのだろう。キャバクラを経験すると、タイムチャージで満足を換算するくせがつく。だから効率が悪いナンパに余計に興味がなくなる。勝率の悪い勝負はしない。かつあえて勝率の悪い勝負を挑む価値があるひとも少ない。連れに出会えたのは偶然。ときどき神様はこういういたずらをする。
友人がナンパに忙しいころ、わたしは光に参っていた。ポケモンで一時期話題になった、フラッシュする光線に目が回って来た。ふと横をみると、前のカミさんのような、清楚で凛としたおとなしげの女性が休んでいる。とっさに身構え、後退りした。そのひとが恐いんじゃない、フラッシュバックがくるのを恐れただけ。
職場で同僚相手に意地の悪い、恐喝まがいのおどし文句をつきつけて、仕事をやらせようとした、居心地の悪さが、前のカミさんに似た女性を目にして混乱を巻き起こした。僕はいったいなにをやっているんだろう?
たぶんフラッシュバックは、辛い経験をしたことがあるひとしか共感も理解もできまい。もう忘れたつもりがひとあたまをもたげて、暴れ出す。僕は、もう壊れたままなのかもしれない。
連れがいない週末、あれやこれや予定たてても、ぽっかりなにかが空白なのは、不器用だからだろうか。渡辺淳一氏の「欲情の作法」には二股どころか三股、四股の薦めを書いているが、とても実践できない。どうしても連れの顔がちらつく。よくいえば一途、悪くいえばストーカー予備軍。
ともあれ次にここへくるのは、当分さきになるだろう。

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歯科矯正 リテーナーの悩み

第二フェーズに突入した歯科矯正で使用するリテーナーは、入歯のようにつけたり外したりすることのできる器具である。今朝、ふとリテーナーを取り付けようとして、あまりの臭さにリテーナーを遠ざけてしまった。
矯正歯科医の指導通り、毎日一回リテーナーの専用洗剤による洗浄を怠ったことはない。それどころか歯磨きのたびに、リテーナーを水洗いし、決して清潔ではない口の中にある器具をなんとか清潔に保とうと努力している。にもかかわらず、なんともいえないいやなにおいが鼻をついた。これが、入れ歯をしている人が感じるにおいなのだろうか。
ワイヤーのついたブリッジを外したのち、最初の一年間はなるべく長い時間、リテーナーを使ってくださいと矯正歯科医に言われている。ところが昨今は花見のシーズン。花見で飲み食いすれば、当然長時間にわたってリテーナーを外していることになる。また飲み食いした後に歯磨きをするような場所はおよそ存在しない。私のように、夕食はほぼ外食の生活をしていると、また今シーズンのように花見シーズンが長く、あちこち参加していると、いつのまにかリテーナーをしている時間が短くなる。こんなことで、ワイヤーで強制した歯並びが元に戻ってしまったら、と考えると気が気ではない。にもかかわらず、リテーナーが臭うとは!
次回、矯正歯科医の予定日に、どうすればよいか相談しよう。それまではともかく、リテーナーをまめに洗うこと。あとは口臭予防のうがいだろうか。

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監督委員の同意

普通、民事再生の申し立てをして、裁判所に受理され民事再生手続きを開始した企業は、すべての財産処分について裁判所が選任する監督委員の同意を取得しない限り、財産の処分を行うことができない。債権者集会の合意形成前に監督委員の同意で、財産の処分が認められるのは、民事再生の申し立てをしたからと言って企業として清算手続きに入るとは限らず、従業員給与はじめ、現金支出を伴う企業活動は継続しているので、その実務上の便宜を図り、かつ債権者の保護を図るため、監督委員の同意を得て財産処分ができるとしているものと理解している。
それはいいのだが、民事再生手続きのアドバイザーが、清算を予定している会社の現金支出について、監督委員の同意をえないでなんとか払い出しの契約ができないか検討しているときいて、あきれてしまった。民事再生申請代理人を務めるアドバイザーは、民事再生法の法理は十分に知っているはずなのに、あえて同意を取得せずに「勝手に」財産処分をしようとするなんて、いったいどういうことなんだろう?法の下にすべての手続きを行うべき過程において、その法理をゆがめてまで、クライアントに阿る弁護士の姿は不自然に思える。同じ弁護士でも小さな弁護士事務所の弁護士ではなくて、大きな事務所のパートナーまで勤めるような弁護士になると発言力が違うということなのだろうか?こういう仕事は、弁護士の懲戒請求事項にならないのだろうか?
法の定めるところがすべて正しいとは思わない、ある意味伸び縮みする「基準」で物事を柔軟にとらえる傾向が私にはあるが、それにしても明らかに継続的契約関係を、清算を予定している企業が新たに締結しようとしているのに、監督委員の同意なしに契約締結するなんて、そのロジックや法的な鈍感さという意味での神経が理解できない。いったい、なんのための監督委員なのだろう?法的に知識がないせいなのかもしれないが、私には集団脱法行為にしか思えない。そしてそれを誰にどのように訴えていいのかもわからない。誰も得をしないのに、どうしてわざわざ、そんな道を選ぶのだろう?
弁護士という職業そのものに不信感を感じてしまう。法の、文言だけをみて、法理を無視して表面的ににしか取扱いしなければ、およそすべての法的事象は、明文化するか判例を下すか、どちらか示されない限り「なんでもあり」になってしまう。それでいいのだろうか。それで経済活動の公平性、安定性は担保されるのだろうか?法の趣旨は満たされるのだろうか?
私は弁護士でも裁判官でもないが、法が目の前で「捻じ曲げられている」、それも法の専門家によって捻じ曲げられている現実に頭を抱えている。

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だれにも会いたくない

デートの予定がなくなってよかったのかもしれない。ほとんど働いていないはずなのに、心底くたびれきっている。いまはだれにも会いたくない。ひとりになりたい。
情報が共有されないことから発生するストレスと、情報が知らされないことからくる二度手間三度手間の疲れと。さらにいえば穏やかでない職場環境と。サイドブレーキが目一杯引かれているのに、アクセルふかして進もうとしている状況に似ている。決まっていることがオープンにされない。決まっていないはずのことが、いつのまにか「前提条件」になって物事が進んでいる。それぞれが我田引水を企んでいて、大儀も理念もモラルもない。この状況がもし続くなら、自分を守るために監督委員直訴しか方法がなくなってしまうだろう。いまは「良識」のもとに物事が動くよう、願い信じることしかできない。ひとつの例外なく、公平かつ公正に、従って情にほだされることなく、ときに冷徹になりつつ仕事を進めなければならないだろう。それがわかっているから、周りはあの手この手でマインドコントロールをかけようとする。冗談じゃない!僕は僕の良心に従う。経営者や上司に異義を唱えずに日々を安穏と過ごして来てしまったがために倒産のウキメにあっているのに、おかしいと思うことをおかしいと指摘してなにが悪いというのだろう。みんながしあわせになるなら、考える余地もあるかもしれない。しかし誰かひとりないしごく小数のステークホルダーだけがハッピーになる選択はまっぴらごめん。いいことも悪いことも、全部正直にオープンにしなければいけないでしょ。
こうやってこころが壊れていくのかな、と思うとちょっと悲しい。が、自虐的になるために選んだ道ではないので、乗り切ることを考えよう。そうだ、こういうときはあしたのデートのことでも考えよう。

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しゃべらないということ

昨晩、おねしょをした。
一瞬、なにが起こったか理解できなかったが、過去の記憶と起きたそのときの状況から判断すると、そうとしか考えられない状態になっている。どうして?疑問が山のように沸いて来るが答えはでない。唯一の手懸かりは、ひとがなかなか引き受けない仕事をしようとしているということ。
しばらく会社に残って清算業務をするということは同業他社に転職したOBOGからの圧力に負けないことであり、また時として元上司や取締役とも利益相反することがあるかもしれないということに等しい。不動産業でこれだけの不況で、それぞれ生きることに必死なのだから、当然あらんかぎりの「圧力」が発生する。それはときに人事であったり嫌がらせであったりするのだろう。すでにいくつかの場面で(脅迫に近い)外堀を埋められた状態になっている。おそらく監督委員はその内情を知らないのだろう。誰がどこまでなにをどんなスケジュールで調整しているのか、誰も手付かずなら自分はなにをいつまでにどんな状態にしておかなければならないのか、そんなことでさえ情報が共有されず、コントロールが不能になっている。現場に情報が降りてこない。降りてこないから、指示待ちでいいやなどと、のんびり構えていられる状況ではないはずで、試行錯誤しながら自己責任で歩伏前進することになる。なんだかバカバカしくもなるが、そうもいっていられない。このまま指示待ちが続けば、必ずあとで困る日がくる。どうしてこんなに日和見主義者が多いのだろう。会社がおかしくなった大きな原因のひとつは、この当事者意識の欠如かもしれない。わたしは勤め人で経営者ではありません、雇用契約に従って給料分は働きますが、経営には一切関心をもたず、いわれたことを忠実に実行します。こんな社員ばかりでは経営感覚の共有ができるはずがない。そしてイエスマンばかりが重宝される。。。
これからやろうとしていることは、うまくいこうとうまくいかまいと、誰から評価されるものではない。むしろ深くドロドロした「汚いもの」といやがおうでも向き合うことになる。不安も多い。けれども成し遂げたら、一回り人間が大きくなっているんじゃないかと思う。誰が味方になってくれるのかすらわからないなかで、しゃべらない訓練が当面は必要みたいだ。

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倒産会社の年度末

本日三月三十一日付けで、たくさんの仲間が会社を退職して新たな道へと進むべくいなくなった。なんでこんなことになったんだろうという思いは尽きない。
辞める段になると、いろいろと「あのころは」ネタがでるが、今回は聞きたくない話もいくつか聞いてしまった。「王様の耳はロバの耳!」と叫びたくなる。そんなこと、いいじゃないか、と聞き流すだけなのに「おとな」になれない自分に気付き、かわいくもあり、頼りなくも感じる。
幸か不幸か、私自身は送り出すほうに回った。たまたま期待役割が、清算業務だったということなのだろう。清算とひとことでいうが、ダインサイドの不動産マーケットで清算を行うということが、いかに困難か、バブル崩壊後数年してようやく銀行の不良債権処理が本格化した事実だけ見てもあきらかだ。しょせん、銀行のトップは先送り主義で、じぶんがトップ(支店長かもしれないし、審査部長かもしれないし、頭取かもしれないが)のときに、業績を著しく悪化させるような不良債権処理をやりたがらない。汚点を残したくない、と願い、またマーケットよりも社内都合が優先される。競売するより任意売却するほうが、買い手のロジックで高値がつくとわかっていても、自行内で説得や稟議が通りやすいからと、競売を選ぶ。どうせ競売するぐらいなら、クローズビットしたほうがいいのにね。オープンビットしたって、落札者に資金調達力がなければ、高値の入札に意味がないわけだし、仮に資金調達力があっても企業与信やレピュテーションリスクを誰もが共有できるような仕組みは、残念ながらまだない。したがってオープンビットをしても、高値落札者に最優先交渉権を無条件に出せるほど、世の中は簡単にできていない。にもかかわらず、「公正明大」を錦の御旗に、理想論をふりかざすひとがいる。なんだかね。
閑話休題。明日から、ますます社内が、がらんとした雰囲気になるのだろう。空きの机と椅子がならぶ、異様な空間が出現する。ふつうは感傷に浸るのだろうが、「どうしてリースのコピー機や複合機を早く返さないの?」とか「リース会社が換金しろ、というなら早く換金したほうがいいのにな」とか、考えてしまう。会社をたたむのだから、身の丈を合わせたほうがいい。もう、元通りになることはないのだから。
女性社員が辞めていくと、会社に来る楽しみが減ってしまう。つまらないなあ、と思いつつ、そんなことですねるより、じぶんで社員を雇えるような力を身につけるほうが大切だと思うことにした。

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