ひとりではいきられないのも芸のうち
「ひとりでは生きられないのもげいのうち」内田樹著文芸春秋刊を読んでいる。そのなかにこんな記載がある。「本来、「均質性のない社会集団」を統合するための装置として要請されたグローバリゼーション圧を日本のようなもともと均質性の高い社会にかけた場合、どのような結果がもたらされるだろうか。(中略)その結果、日本は世界に類をみないほど均質的な社会になってしまった。(中略)今、日本人たちは「権力、財貨、情報、文化資本の占有を求めることがすべてのひとにとっての生きる目標である」と信じている。それが日本的グローバリゼーションの帰結である。」そうなんです。グローバリゼーションの変化がこの日本に、もたらした本当の変化は、極度の均質化であり、その結果我も我もと、自己実現、自己責任の術中に自ら嵌って身動きできなくなっているんです。
併読してよんでいる、「日本の「安心」はなぜ消えたのか」山岸俊男著集英社インターナショナル刊には、「日本の社会では、積極的に自己アピールをするよりも、謙虚な態度でいたほうが、相手がどのような反応をするかわからない場合でも、それで失敗する可能性はずっと少ないのは間違いないでしょう」と指摘さている。この日本人が意図的に選択した戦略が、グローバリゼーションによって、さらに強化されてしまったと解するべきなのだろう。つまり「出る杭は打たれるから、空気を読んででしゃばらないようにしておいたほうが、この社会では得をする」と思っている。他方、グローバリゼーションの影響を受けて、じぶんに得にならない選択は積極的には行わない。。。
この結果、いま私が直面しているような状況において、自ら積極的に解散業務や清算業務にかかわろうとする入社年次の若い社員は皆無になる。そりゃなるわな。でしゃばるリスクのほうが大きいかもしれないのに、じぶんには得にならないんだから。
けど本当にそうなんだろうか?たとえば共同体の維持のために働くことは、自分自身のために働くことより、得るものが少ないと断言できるのだろうか?それはちょっと早計な気がする。前掲の著書で内田樹氏は、「労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない」と指摘する。「だから、労働集団をともにする人の笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない」という。そうなんです。かわいそうに、その労働観に気がつかずに、ただ自らの待遇改善だけを求めて「天職」を探そうとする若い社員を何人みたことか!
そりゃ不動産業に絶望して業界を去っていくのは、仕方のないことでしょう。しかし青い鳥症候群よろしく、いつまでも幻の天職を転職して追い求めるのは、阿呆としか思えない。ある一定のレベルまで、すなわちその成果がひとから報酬をいただけるレベルまで高めて初めて、ひととして食べていくことが社会的に認めれると私は考えている。それまでの間は、何の職業について何の仕事をしていても、所詮は見習いでしかない。残念ながらそれは経験年数のみに比例するものではなく、所属する企業の知名度とか肩書きとも関係ない。あるのは、裏打ちされたスキルだけ。しかもそのスキルは、ポータブルであるかもしれないが、どこかの企業に所属してはじめてその価値が発揮されるものであり、その企業ないし集団での協調的人間関係または協働体験によって、認知される性格のものである。決してそのスキルがあれば、協調性や人間性はなんでもいいというものではない。むしろ協調性、人間性の上にスキルが求められる、というべきであろう。それを多くの若者たちは、はき違えているようで気の毒になる。少なくとも、与えられた仕事は選ばずにやるべきであろうし、それによって得られるものがなにかあるはずだ。よほど自分の理性に照らしておかしい、という事柄があれば理解できるが、それも自らのわずかな知識と経験だけで判断するべきではなかろう。もっと大きな社会的コンセンサスのもとで、世の中は動いている。
残念ながら同僚にも何人か、実力主義の定義を履き違えたまま、いい年を迎えてしまったひとがいる。そのまま40代や50代になったとき、じぶんの間違いに気づくのだろうか?もし気づかなかったら、「社会が間違っている」と糾弾するのだろうか。組織はひとの集まりで成り立っており、ひとの集まりは、このひとといっしょに仕事したい、という単純な集団構成論理から成り立っているのじゃなかろうか?そうでなければ、スキルのある能力者は「転職」できるのだから。いまのように失業率が日に日に上がっている不景気な世の中ならば「汝、隣人を愛せよ」と行動するほうが、よほど理にかなっているような、そんな気がする。
それって長く生きてずるくなったことの証左なのだろうか?


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