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2009年3月

ひとりではいきられないのも芸のうち

「ひとりでは生きられないのもげいのうち」内田樹著文芸春秋刊を読んでいる。そのなかにこんな記載がある。「本来、「均質性のない社会集団」を統合するための装置として要請されたグローバリゼーション圧を日本のようなもともと均質性の高い社会にかけた場合、どのような結果がもたらされるだろうか。(中略)その結果、日本は世界に類をみないほど均質的な社会になってしまった。(中略)今、日本人たちは「権力、財貨、情報、文化資本の占有を求めることがすべてのひとにとっての生きる目標である」と信じている。それが日本的グローバリゼーションの帰結である。」そうなんです。グローバリゼーションの変化がこの日本に、もたらした本当の変化は、極度の均質化であり、その結果我も我もと、自己実現、自己責任の術中に自ら嵌って身動きできなくなっているんです。
併読してよんでいる、「日本の「安心」はなぜ消えたのか」山岸俊男著集英社インターナショナル刊には、「日本の社会では、積極的に自己アピールをするよりも、謙虚な態度でいたほうが、相手がどのような反応をするかわからない場合でも、それで失敗する可能性はずっと少ないのは間違いないでしょう」と指摘さている。この日本人が意図的に選択した戦略が、グローバリゼーションによって、さらに強化されてしまったと解するべきなのだろう。つまり「出る杭は打たれるから、空気を読んででしゃばらないようにしておいたほうが、この社会では得をする」と思っている。他方、グローバリゼーションの影響を受けて、じぶんに得にならない選択は積極的には行わない。。。
この結果、いま私が直面しているような状況において、自ら積極的に解散業務や清算業務にかかわろうとする入社年次の若い社員は皆無になる。そりゃなるわな。でしゃばるリスクのほうが大きいかもしれないのに、じぶんには得にならないんだから。
けど本当にそうなんだろうか?たとえば共同体の維持のために働くことは、自分自身のために働くことより、得るものが少ないと断言できるのだろうか?それはちょっと早計な気がする。前掲の著書で内田樹氏は、「労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない」と指摘する。「だから、労働集団をともにする人の笑顔を見て「わがことのように喜ぶ」というマインドセットができない人間には労働ができない」という。そうなんです。かわいそうに、その労働観に気がつかずに、ただ自らの待遇改善だけを求めて「天職」を探そうとする若い社員を何人みたことか!
そりゃ不動産業に絶望して業界を去っていくのは、仕方のないことでしょう。しかし青い鳥症候群よろしく、いつまでも幻の天職を転職して追い求めるのは、阿呆としか思えない。ある一定のレベルまで、すなわちその成果がひとから報酬をいただけるレベルまで高めて初めて、ひととして食べていくことが社会的に認めれると私は考えている。それまでの間は、何の職業について何の仕事をしていても、所詮は見習いでしかない。残念ながらそれは経験年数のみに比例するものではなく、所属する企業の知名度とか肩書きとも関係ない。あるのは、裏打ちされたスキルだけ。しかもそのスキルは、ポータブルであるかもしれないが、どこかの企業に所属してはじめてその価値が発揮されるものであり、その企業ないし集団での協調的人間関係または協働体験によって、認知される性格のものである。決してそのスキルがあれば、協調性や人間性はなんでもいいというものではない。むしろ協調性、人間性の上にスキルが求められる、というべきであろう。それを多くの若者たちは、はき違えているようで気の毒になる。少なくとも、与えられた仕事は選ばずにやるべきであろうし、それによって得られるものがなにかあるはずだ。よほど自分の理性に照らしておかしい、という事柄があれば理解できるが、それも自らのわずかな知識と経験だけで判断するべきではなかろう。もっと大きな社会的コンセンサスのもとで、世の中は動いている。
残念ながら同僚にも何人か、実力主義の定義を履き違えたまま、いい年を迎えてしまったひとがいる。そのまま40代や50代になったとき、じぶんの間違いに気づくのだろうか?もし気づかなかったら、「社会が間違っている」と糾弾するのだろうか。組織はひとの集まりで成り立っており、ひとの集まりは、このひとといっしょに仕事したい、という単純な集団構成論理から成り立っているのじゃなかろうか?そうでなければ、スキルのある能力者は「転職」できるのだから。いまのように失業率が日に日に上がっている不景気な世の中ならば「汝、隣人を愛せよ」と行動するほうが、よほど理にかなっているような、そんな気がする。

それって長く生きてずるくなったことの証左なのだろうか?

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歯科矯正 第二フェーズへ

二年半かかって、ようやく歯科矯正のブリッジが外された。「いよいよですね」と受付でも言われ、また担当矯正医にも「外れると、かなり新鮮な驚きがありますよ」と言われて診察台につく。口を開けて五分ほどだろうか、処置をしたかと思うと、矯正医から「もうすべてはずれました」と声がかかった。なんだか口の中がゴワゴワする。なによりうどんやラーメンを食べたときの麺のかたまりが前歯と上唇の間に残っているような、変な感触がする。なんだろう、どういうことだ?もっとすっきり感を期待していたのに、この違和感は何だ?「これからクリーニングしていきますので、しばらくお待ちくださいね」そういって矯正医は、歯科医が通常の治療で使うような器具で、丁寧にブリッジを歯につけていた、接着剤のかすを取り除いていった。器具をとるのは一瞬だったが、この接着剤のかすを取り始めてからが長かった。およそ一時間、診察台の上で口を開いたり閉じたりを繰り返し、しだいに苦しくなる。関心をそらすために(?)、スレンダーな女性の矯正医の、おそらくは小ぶりなバストがあたまに密着するほうに、意識をわざと集中させていた。こういう仕事をしていると、顧客の頭が胸の谷間部分に密着してしまうのは仕方のないことなのだろうが、エッチなおじさんはちょっとうれしくなる。そんなことで一時間以上我慢していられるのだから、本能のなせる技もまんざらではない(たんたる言い訳)。
およそ一時間半かかって、クリーニングが終了した後、歯並びの写真撮影やその後の治療で使用するリテーナーの使用方法を教わった。リテーナーは、ブリッジを取り外した後で、まだ動こうとする歯をきちんと歯茎の中に安定させるために使用する、入れ歯のような器具。そして入れ歯のように、手入れをするものらしい。いろいろ説明を受けたが、その際クリーニングキットを矯正歯科医で購入して帰るはずが、すっかり忘れて帰宅してしまった。よってクリーニングキットが手に入るまでは、しばらく歯磨きのみ。最初のうちは食事時以外は原則としてすべての時間、つけておいてほしいといわれる。一年半ぐらいすると、夜だけの使用でよいようになるらしい。下の歯には、歯の裏側から前歯の部分だけ固定の小さなブリッジがついている。これも安定するまでつけておくらしい。
ともあれこれで、歯科矯正は、第二フェーズにめでたく移行した。なによりこれでキスが楽しめるようになる。ブリッジがとれたあとの初キスは、連れとしたいが、そうなるかどうか。いま関係が微妙だけに、ちょっと期待が薄い。ひとりでできる楽しみとして、和菓子屋でお団子を食べた。ブリッジがついているときは、おもちの飲食を止められていたが、なにも気にせずに食べられる、この喜び。やはりここまで我慢した甲斐があった。
歯並びが良くなったことで、具体的になにかが良くなった、という実感は残念ながらない。変わったのは、消化がよくなったせいか、年末から今年にかけて、同じ量しか食べていないはずなのに、ぶくぶくと太り始めたことぐらい。もてるようになったわけでもなく、かっこよくなったと自他共に認められるような、そんな変化はない。
費用対効果でいえば、まだ費用のほうが上回っているような気がする。まだカウントされていない効果は、これからの虫歯治療がすくなることに対する期待だろうか。ああ、連れとキスできなくても、もしおねえさまとキスできたら、それで元が取れるかな。そのおねえさまも、もうすぐご退職らしいけどね。すぐ損得勘定で考えてしまうあたり、せこい人間になったもんだ。

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長続きしない訳

いまごろになって、女性との関係が長続きしない理由が自分にもあることが、腹におちるようになった。簡単に言えば、生物学的欲求の段階から、社会的生活の段階への移行がうまくいかないからなんだろう。
生物学的欲求とは、文字通り番いとして、相手を求める欲求のこと。いまもそうだが、惚れてからだいたい一年半で電池切れになる。嫌いになるんじゃなくて、(言葉を選ばずに言えば)飽きてしまう。
社会的生活の段階とは、家族関係を大事にしようとか、思いやりの段階。牡というより、ひととして相手を尊重し積極的に共同生活を営む段階。だから価値観が一致しないとなかなか継続できない。共通の趣味を持つとか、同じことやものに感動するとか、そういうことがどれだけ多いかがポイントになるのだろう。そしてそこを軽視すると、まもなく破綻が訪れる。いっしょにいても新たな発見がなく、相手への関心が薄れるのだからしょうがない。
そういえば、まえのかみさんと共通の趣味を持とうとして、あまり努力しなかったのは私のほうかもしれない。そりゃわたしが悪い。夫婦に会話がなくなる理由になる。
いまの状況も似ている。連れは、しょっちゅうこちらが予想もしないような質問をしてくるが、関心のない事柄にはまるで興味を示さない。かといってわたしのことばが少ないと、「(自分が話題をつくらないとならないから)疲れる」という。それはお互い様じゃないかな、と思いつつ、四六時中話していなくてもいいじゃないとも思う。
そんなに簡単に、趣味興味があうはずもなく、こりゃ本当に一生独り者かな。ただ街中を風景みながら歩くのが好きとか、テレビより本を読むほうが最近は多いとか、本はジャンルをとわず面白そうなものを読みますとか、そういうことがロイヤルストレートフラッシュのように揃うことなんてあるんだろうか?
ああ、これがマッチングの失敗なのか、自業自得なのか、せっかくデートの帰り道なのに悲しくなった。

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ムハマド・ユヌス氏来日記念講演

六本木ヒルズで開かれた、ムハマド・ユヌス博士来日記念セミナーに参加してきた。開演10分前に到着したが、大勢の聴衆であふれていた。それだけソーシャルビジネスへの関心が高いということだろうか。

ユヌス博士は、これまでの資本主義の概念が一義的であり、資本主義とは利益の極大化だけを追求するとい言われてきたが、人間とは利益の極大化だけを求めるものではなく、無私の心、すなわち利己とともに利他の精神を持っている、だからこそソーシャルビジネスが必要だと説く。ビジネスである以上、赤字では事業が継続できないから、当然黒字でなければならないが、それは利益配当を目的とするのではなく、より多くのひとが幸せになることが目標であり、そう願っている人も実際に多く存在する。
自然災害などにより一時的にチャリティーが必要な場合もあるが、チャリティーに頼らずに生活を自立できる状態に持っていくことが必要であり、それがソーシャルビジネスが必要な理由だという。
個人の有り余る能力を信じており、自らの職を求めるのではなく、自らの職を作り出す、さらに言えば、たくさんの人がより多くの人の雇用を生む出すような、そういう仕組みを世界中で作り上げることが、これまでの資本主義をさらに発展させ、(世界)経済をたくさんのエンジンが引っ張るような、多元的な仕組みができあがるはずである。自己責任のルールを徹底するためには、政府の役割は限定的でかまわず、民間の融資として自立を促す仕組みのほうが適している。なにより個人は、いますぐ行動することができる、というアドバンテージを持っている。進むこともやめることも、政府よりもはるかに自由度高く実施することができる。だからこそ民間の仕組みが重要なんだ、という。
動物はつねに飢餓状態にあるが、人間はもっと豊かであり、改善する能力がある。正しい世の中にするために、世界に貢献する人が増えれば、たとえば「2015年までに貧困層を半減させる」という国際目標をさらに進めて、貧困という言葉を博物館でしか実感できない世の中にすることだってできるだろう、と締めくくった。

さすがノーベル平和賞を受賞するだけの、行動力、説得力のある方の言葉だけある。オバマ氏の演説集とともに、こちらもCDやDVDで広く多くのひとに知ってもらいたい。
とともに、十年後のわたしがなにをしているだろうか、という問いへの重要なヒントをもらったような気がする。人が働く目的は、だれかほかの人を助ける、喜んでもらうことであり、その対価として金銭という報酬をもらっているにすぎない。同趣旨の発言を、内田樹氏も著書でされている。おそらく賛成する人は多いはずだ。にも関わらず、年収1000万円だ、いや2000万円だと騒ぐのは、その労働が誰のどんな役に立っているのか、誰がその労働によって喜んでくれているのか、わかりにくくなっているためではなかろうか?それは株主のためかもしれないし、取引先のためかもしれない。会社のためかもしれないし、国のためかもしれない。しかし顔の見える誰か、ではないのかもしれない。少なくともわたしは、数億十数億の利益をディールのDONEで成功させても、顔の見える誰かの喜びは実感できなかった。いったい誰のために、利益を積み上げているのか、自己増殖する資本主義の「暴力」が怖いと何度も感じた。だからこそ、人のために働く、人の喜びのために働く、という大義名分が心に響く。そうか、ビジネスはじぶんで考えないと、世の中が変わっていかないんだ!

とはいっても起業の成功率がこの日本ではあまりにも低いことが知られている。よく失敗例を研究して、「なにか」を達成できる、この世に生を受けたことを誇れるような、そんな生き方をしてみたいと改めて思う。

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それってどうよ?

連れがデート中に、「こんど、プライベートでおとこともだちと海外旅行に行くんだ」と、のたまわった。はい~?「部屋別々だし~おとことおんなの関係なんかめんどくさいし~海外旅行したいなあ、と思っている時だったから~あなた、平日やすみとれないでしょお?」
どこまでも腹が立つことをシャアシャアとぬかす姿に、席立ってそのまま帰ろうかと思ったが、思い直し、さも面白くない旨だけを伝えた。すると「だってえ、男と女の関係って振られたり振ったりめんどくさいし、わたし嫌だ!。けど遊びなれた人は、おとことおんなの関係とかじゃなくて、ひとりでいくより二人で行くほうが楽しいからって、連れて行ってくれるの。部屋も別々だし。そうじゃなきゃ私、いかないから。」どんだけ、タカビなんだ、このアマは。そしてどんだけ、ひとの神経を逆なでするんだろう?
こっちは明日の仕事もままならない、倒産した企業の一社員でしかないのに、大金持ちの資産家や高額所得者と比較されても、それは無理ってものでしょう。「行きたいなら、勝手に行けば?そのかわり今後一切僕にかかわらないでね」とっさにその一言が出てこなかったことを悔やむ。それは許容限度を超えている。
仕事で泊りになるのは、仕方があるまい。海外だろうが沖縄だろうが、一週間を超えようが一カ月になろうが、そういうこともあるだろう。ただ堂々とプライベートでいわゆるオジサンと遊びに行ってきまーす、というのはいくらバカOLでもそうそういるまい。親が泣くぞ!

止めてほしくてわざといっているなら、それこそこっちが面倒くさい。なんだってそんなことをこっちがしなきゃいけないんだろうか。こういうのをジョーシキというのは、オジサンなんだろうか?この娘の父親に言ってやりたい。あなた、育て方間違えてますよ。

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北京ヴァイオリン

友人に勧められて、「北京ヴァイオリン」をDVDで観た。「なにもコメントしません。泣けるよ」という紹介の通り、この映画は、透き通っていてきれいで、そして泣ける。昔見た「菊次郎の夏」ぐらい、胸をうつ。

成功とは、親子の絆とは、音楽とは、ひとの歓びとは、ひととして無くしてはならないものとは、・・・2002年の中国といえば経済発展にわく、活気あふれる成功の街だったに違いないだろう。そしてそこに、忘れられた「田舎」を重ね合わせる。チェン・カンコー監督がいろいろなことを考えながら、この作品を仕上げたことがよく伝わる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が、またいい。五番だったろうか、いちばん最初の彼女の十八番だった。チャイコフスキーは「白鳥の湖」をはじめ、バレエ音楽もたくさん残していて、そのせいか時々聴くのが辛くなる。思い出が多すぎるのだろう。封印。映画では、そんな個人の感傷などおかまいなし。感情的な旋律のチャイコフスキーが、頬を伝う涙を誘う。ああ、いい映画だよね。もう一度観ようかな。

特に芸術家は、昔からスポンサーがいるからこそ、その生計が成り立っていた。自分の持つ技術や技能で、生計を立てるといっても、そこには人間の感情を読む、豊かな感性があって、そのセンスが開花される。それゆえに誰にでもなれる商売では決してない。努力と才能がそろって、初めて認められる。
いわゆる専門職業家が、どこまで似通っているのかわからないが、お客さんのこころをつかんでなんぼ、であることは同じかもしれない。
「なによ、偉そうに!」となんども登場人物が立場を変え、相手を変え、捨て台詞を発するが、この言葉こそが資本主義という競争社会で生きていくために、誰もが直面する「嫉妬」であり「やきもち」であり「僻み」の現れなのかもしれない。もし競争などない平等な社会があるのなら、偉そうにする必要がないし、第一「権威」が存在しないのだろうから。
成功することは、認められること、認められることは、たくさんお金を稼ぐことができること、お金をたくさん稼ぐことに最も近いのは、才能でも努力でもなく、そのレールにきちんと乗ること。主人公の父親がしたことは、昨日テレビでたまたま観た、松下幸之助の成功物語とは全く様相を異にしている。
すでに日本も中国も、いや世界のあちこちで、「あきらめ」が蔓延している。機会の不均等に対する不満がくすぶっている。オバマ大統領の言う機会均等の国アメリカでさえ、職のある人と職を失う人の格差が広がっている。そろそろ「価値観見直し」の時期なんじゃありませんか?

バブル世代の私が言うことじゃありませんが、そんな感想を抱きました。

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定額給付金と消費税増税の関係

「資本主義はなぜ自壊したのか」中谷巌著 集英社インターナショナル刊を読んでいたら、著者は消費税増税に伴う(低額所得者への)逆進性の解消方法として、還付金付き消費税を提唱されている。ベーシックインカムの考え方に基づいて、「自分では何の労働もしないフリーライダーが現れてモラルハザードが起こる」かもしれないなど問題点を指摘しつつ、「日本が希望なき貧困大国から脱することが何より優先されるべき政策課題」であると論じている。

ここで想起されたのは、さきごろなかば無理やり国会を通過した「定額給付金」の話。
総理がもらうとかもらわないとか、地方自治体の給付事務に大きな負担を強いるとか、いろいろ問題が山積みであったが、早くも支給が決まった自治体がでてきた。さすが行政大国日本!優秀なスタッフを抱える日本の行政システムにできない制度なんかないんじゃなかろうか、というぐらいみごとに対応している。(省庁によって違うのかもしれませんが・・・)

国民一人ひとりに消費税の還付をするなんてこっとう無形な芸当が、案外簡単にできちゃうのかな、と定額給付金の「給付」をめぐる事務をみていると思えてしまう。ひょっとして還付金付き消費税の導入が既定路線で、今回定額給付金を行ったのは、予行演習だったりして。それもすごい話だなあ。

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泣きたい日

そとは雪が降っている。明日の朝は、もう雨に変わるらしい。今年の冬は暖かかった。その冬もひなまつりを過ぎると、春に向かっていく。春、春なんだなあ。

原則として、年度末で社員は解雇のため、、多くの社員が退職通知をそのひと月前である先月末に受け取ったと聞いた。そのせいか出社してきている社員が半減した。社員の外出先を記すホワイトボードは記載されないまま、その役目を終えようとしている。管理職も平社員も関係なく、転職サイトの閲覧を会社で行っている。「いやあ、このあいだ××受けたけれども、落ちちゃいました!」それがあいさつ代わりになるぐらい、あっけからんと職場を去ろうとしている人たちもいる。みな、思いはそれぞれあって、解雇という現実をなんとか受け入れようとしている。

他方、会社を清算するためには、会社の保有するさまざまな不動産を売却する準備をしておかなくてはならない。こんな状態の時にだれもやりたくないだろう。もしかしたら清算会社に残るかもな、と自主的に準備を始める。「そんなこと、清算会社に行くと決まってからやればいいじゃん」という人もいあるが、なにもしない時間が苦痛であり、先を見越して仕事することに抵抗がないので、気にせずにコツコツ進める。

これまでいっしょにがんばってきた仲間の気持ちがすでにバラバラになっている。つなぎとめることもできない。こんな夜はただ一人、やさしい涙を浮かべながら、過ぎゆく思い出を見送りたい。

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