誰も守れない&誰も守ってくれない
映画「誰も守ってくれない」を観て、先ほど特別テレビドラマ「誰も守れない」を観た。犯罪被害者家族の保護と犯罪加害者家族の保護、異なる二つの視点が、非常に重い問題提起を与えている。
映画も、特別テレビドラマも、まもなくスタートしようとしている裁判員制度を考える上で、重要な問題点となるかもしれない。世の中にミステリー小説やドラマがあふれ、実際に被害者自身が何らかの別の犯罪を犯しているケースや、犯罪加害者の親族が犯罪に加担しているケースもあるのだろうが、全くの無実の市民を「被疑者」として、すなわち冤罪としてつるしあげてしまう、そういうリスクを市民社会は常に抱えている。裁判員制度が始まることが、このような不幸な事態を助長しないことをこころから願いたい。
ネット社会の怖さは、「踊る大捜査線~レインボーブリッジを封鎖せよ」でも君塚氏は描いている。それが携帯サイトという、こどもまで巻き込む危ない手段となり、秋葉原で多数の被害にあった方々に対して携帯カメラを向けたひとたちのように、こころない対応をするインスタントパパラッチたちが、二次的な被害者を増やしていく。これだけ情報技術が進んでいるのであれば、そういった興味本位の、覗き趣味的な「加害者」こそを取り締まれないものなのだろうか。難しいのは、報道の自由、表現の自由と、どのように両立させるのか、必ずしも明確ではない。ものごとをあちらの面、こちらの面と見比べて、はじめて真実が浮かび上がる。ぼくらは、「思いこみ」を捨てない限り、中世の魔女狩りと同じ不幸な歴史を繰り返してしまいかねない。「安易に裁いてはいけない」と歴史は教えている。
民主主義を否定するつもりはない。しかし多数意見が正しいとは限らない。また社会の維持のために法の裁きが必要だとしても、法の裁き、すなわち正義の世界しかなければ、愛の世界、許し認め合う社会は成立できない。両方の基準を持つからこそ、ひとの社会が成立している。両方の基準が必要だと分かっているから、どちらかに偏らないように作用と反作用の動きが起こる。正義は万能ではない。それを残念ながら、知らない人、わかっていない人、忘れてしまった人が増えてはいないだろうか。じぶんの正義の基準が絶対に正しいと無条件に信じていないだろうか?冷静に考えてみれば、じぶんの考えが間違っているかもしれない、と気づくかもしれないのに、デジタルの世界で、じぶんの意見を相対的に見る視点を失い、絶対的な、そこにいつまでも変わらずにあるものとみなすことで、ひととしてのしなやかさを失い、ひととしての自由を自ら捨ててはいないだろうか。
「被害者の家族は、加害者の家族にも死んで償えと思っている。」心情としては、理解できても、ひとの社会である以上、それを口に出してはならない。また第三者がそれを煽ってもならない。それはモラルの低下した衆愚政治でしかなくなってしまう。民度の低い、あまりにも思いやりに欠ける、ムラ社会の論理や集団心理に飲み込まれてしまっている。そうではない。叡智を持って、二度とこのような不幸な事件を起こさないように予防していくことが、ひとなのではなかろうか。
「踊る大捜査線」シリーズをパクッたような、背景、シナリオ、製作意図が透けて見えるのは、ビジネスである以上、やむをえない、か。
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