「おくりびと」を観た。死をみとるひと、そういう職業は冠婚葬祭の中でも、あまり評価されているとは残念ながら言えないかも知れない。ひとはいずれ死ぬのに、である。死は忌み嫌うものであり、日々の生活から遠い、特殊な世界にあるものと思いたがっている、ということだろうか。しかしながら死は確実に身近に存在する。それは両親かもしれないし、恩師かもしれないし、上司かもしれない。長く生きれば、生物学的には残存生存確率が低くなるのだろう。だからこそ、弔いをきちんと行うことが、ひとという文明を手にした人間の行いなのだろう。
ひとの死にざまはさまざまである。ピンピンコロリを実践する人もいれば、病と闘い壮絶な死を迎える人もいる。残念ながら自殺を選ぶ人もいれば、不幸な事故で亡くなる人もいる。人の死は、そのひとを愛していたすべての人にとって、深い悲しみを与える。だからこそ、尊厳が必要であり、納棺師という職業があるのだろう。ひとがひととして生まれて、ひととして亡くなる、ということは、ひととして扱われる、ひととして文化文明の中で一生をとげることに等しい。ひととして。
残念なことは、そこに蔑みが存在しがちなこと。山崎勉演じる納棺業の社長は、長年どんなふうに世間の目と折り合いをつけてきたのだろう。広末涼子演じる妻は、夫の職業を心から受け入れることはできたのだろうか?納棺師という職業を、社会に必要な立派な職業だと、こどもに言える覚悟はできたのだろうか。それぞれの胸の内に、、なぜ主人公がこの職業を選んだのか、その社会的意義を実感、会得していく過程を残していく、そういう映画だった。日本人もやるなあ。こういう映画を撮れるんだから。
蛇足だが、映画の製作を製作委員会方式で行うことを批判する報道を見かけた。コンテンツ制作者に多くの分配を、という意図だろうが、それは本質をみていないような気がする。映画は、いまや個人が個人で製作できる時代になっている。ネットという公開手段ができたからである。だからこそ、映画配給会社もテレビ局も芸能プロダクションも、新聞・雑誌はもとより駅前の大型看板、テレビのバラエティ番組などあらゆる手段を使って、売れている俳優をつかって、とにかく新しいコンテンツを作ろうとする。いわば「こっちを向いて」と消費者やファンに「押し売り」する。マルチスクリーンの映画館が都心部や郊外に乱立し、ひとを集める装置と化した映画館は、客を呼ぶことを第一に、とにかく新しい映画を提供し続けることにのみ、その存在価値が求められている。つまりビジネスニーズが、たくさんの映画を世に送り出している(乱暴な推察かもしれないが)。このサブ効果として、たくさんのテーマが取り上げられ、「闇のこどもたち」のような社会問題提起的内容が映画化されたり、本編のようなすぐれた作品が世に送り出されることになる。「しゃべれどもしゃべれども」も、世が世なら映画化されるような作品ではなかったかもしれない。それが映画化されてよりたくさんのひとの目に触れるようになることが、製作委員会方式の最大のメリットではなかろうか。
つくづく思う。日本は十分に豊かになった。ただバランスはあまりよろしくないかもしれない。こころに余裕をもって、他人の痛みをじぶんの痛みのように感じることができるような、そういう日本人のこころを大事にしたいと思う。そしてそれは国際社会でも通じるはずの、ひととしての尊厳であるはずだから。
最近のコメント