「書かされた」不動産鑑定評価書?

最近、仕事で見ることになった、不動産鑑定評価書に驚いた。それは併合鑑定評価の限定価格を求める不動産鑑定評価書であったが、対象地の正常価格ならびに隣接地の正常価格、併合後の一体地の正常価格を求めるのに際して、規準価格を求めた形跡がなく、また評価書の本文に一切その記載がなかったからだ。
地価公示法第8条には、不動産鑑定士等が正常価格を求める場合は、公示価格と規準しなければならないと定められているが、限定価格は正常価格ではないので、その点だけをとらえると公示価格との規準は必ずしも必要ないとも解することもできる。しかし、評価書本文に、「対象地の正常価格」と明記して、その価格を比準価格と土地残余法による収益価格とを求めることによって導いているのは、どうにも違和感がある。更地の鑑定評価において規準するべき規準価格はどこにいったのだろうか?
試しに近隣類似と思われる地価公示ポイントを二地点採用して、地域要因のみを比較する参考指標としての相続税路線価をあわせて表記すると以下のようになる。
          価格      (参考)相続税路線価    面積
 対象地       X円/㎡       3,600千円/㎡    Y㎡
 標準地A  1,150千円/㎡       1,090千円/㎡    81㎡
 標準地B  2,400千円/㎡       2,160千円/㎡   148㎡

この評価から、対象地の価格を1,500千円/㎡前後と導きだすのは、かなり影響力の強い個別的要因が作用していると考えるか、地域要因の参考指標として相続税路線価を採用したこと自体が、なんらかの理由で誤っているかのどちらか、またはその両方か、と普通は考えるのではないか。対象地の面積は、標準地Aの面積に満たない大きさであり、必ずしも許容容積率を最大限活用することが最有効使用とならないものではあるが、その地域における標準的画地と想定してもなんら違和感のない大きさであり、そのほか有力な個別的要因があるとは考えにくい。そうすると地域要因の参考指標として相続税路線価が採用可能であるという限りにおいて、どうにもつじつまがあわない。不動産鑑定評価基準に定める通常の手順に従って規準価格を求めると、対象地の試算価格は、規準価格が突出して高いという結果になることも想定される。これは規準価格がおかしいのか、比準価格や収益価格がおかしいのか、不動産鑑定士であれば再考に再考を重ねるべきところだろうと私は考える。
この鑑定評価書は、日本の鑑定事務所のうち、おそらくは十指にははいるであろう、ある準大手事務所が発行したもので、ふたりの不動産鑑定士が署名捺印している。そして、これまた日本を代表するある大手メーカー宛に発行されている。こんなことは想定でしかないが、隣地所有者である大手メーカーが、準大手鑑定事務所に依頼して、弊社保有の資産を安く譲り受けるために、限定価格の鑑定評価書を安く書かせようと圧力をかけ、準大手鑑定事務所は、地価公示法第8条に定める公示価格との規準が正常価格を求める場合に限定されていることを意図的に拡大解釈し、対象地や隣接地、併合後の一体地それぞれの正常価格を求める場合まで規準価格の算定が不要として、つじつまをあわせたのではなかろうか。不動産鑑定評価書の信頼が揺らいでいるといわれて久しいが、不動産鑑定士の先生方は、仮に日本を代表するビッククライアントからの依頼であっても、不動産鑑定評価基準の解釈を歪めるような鑑定評価に手を染めないように切に願う。

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ああ、三段腹

昨年末から、ずっと体重が増え続け、先週末ついに57KGを超えた。スポーツクラブで計る体脂肪率も23前後をいったりきたり。つい二年前18前後だったのがうそのよう。食生活が変わったわけでもなく、思い当たるのは今年三月に歯科矯正がほぼ完了したことぐらい。かみ合わせが良くなり、消化がよくなったことに伴って栄養の吸収が進んでしまったか。
ふとおなか周りをみると、立派な三段腹になってしまった。なんてことだ!カロリーを極力抑えるように、和食中心の食事を心がけても、しょせんはおとこ一人暮らし。無理があるということだろうか。テレビコマーシャルではないが、プールサイドで無理やりおなかを引っ込めている姿をリアルに想像してしまう。いまだかつて、こんなことは一度もなかったのに。とてもじゃないが、連れにこんなにみっともない「おなか」をみせられない。なんとかしなくては。
悲しいかな、週二回しっかり運動できるほど、仕事は少なくない。あまり夜遅く食べるよりは、早めに自宅に帰って自炊したほうが健康によいのでは、と思ってしまう。連れとのデートでも間食を抑えないといけないのだろうか?そうなのだろうな、きっと。糖尿病も怖いし、ここはしっかりカロリーコントロールが必要なのだろう。しかしどうしたものだろう。しっかり空腹感を感じる健康になった胃腸と、歳をとってカロリーを消費しなくなった(老朽化した)からだとをどうバランスすればいいのだろうか?
歯科矯正して太ったなんて、だれも言わないのだろう。けれども、他にも大勢いるような気がする。たまたま私は、中年太りする時期に重なっただけかもしれない。それにしても・・・せっかく歯科矯正で「見た目」が改善しても、おデブになってしまってはプラスマイナスゼロか、マイナスではないか。
自分の悲しい三段腹を眺めつつ、しっかり憂鬱になる。

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喫煙権?

ある野党の国会議員が、タバコ税の引き上げに関連して、嫌煙権と同時に喫煙権もあるのだから、増税には反対すると主張したそうだ。
確かに、喫煙権はあるのだろう。あえて乱暴な言い方をすれば、飲酒もギャンブルも程度の問題で、飲む権利打つ権利は、あるのかもしれない。他方、なぜそれらに課税するか、という社会通念上の理由は考えられているのだろうか。それは、「程度」をコントロールしようという社会全体の要請であって、税収のアップは創設したときのみ確実に増えるが、税率を上げても税の性格上、税収が増えるとは限らない。とすると、タバコ税の増税は、喫煙権をなんら否定するものではなく、本来の意図通り節煙や禁煙を誘発するだけではないか。憲法で保証する、健康で文化的な最低限の生活に喫煙権は、当然にはないように思うがどうだろうか。
おかしなことをいう政治家がいるものだ。政府または政治が、愛煙家やタバコ農家の意見を代弁するならわかるが、もう少しまともな議論をしてほしい。

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あったらいいな、こんな住宅ローン

あったらいいな、住宅ローン編。
失業しても六ヶ月間は所得補償保険で自動的にローンの返済がされる住宅ローン。
それでもだめなら、いま住んでいる家に賃貸で住み続けるオプションがある住宅ローン。
当然家は、取られちゃうけど放り出されるよりまし。
また住宅ローンを貸すときに、貸家前提のローン評価をしておけば、できそうな気がする。
また収入ができたら、ローンに戻してもらえればいい。ああ、それならいまでもできるかも。
基本的には家賃を払う借家なんだけど、十年住んだら買取オプションがある住宅へのローン。分譲賃貸で貸し出されている場合なんかは、「あり」なんじゃないか?原状回復費用を大家さんともめながら払うより、自己責任にもなるし、大家は大家で、わざわざ仲介にださなくても買い手が決まるから、手間いらず。どうでしょ?
親に所有権がある一戸建てまたはマンションに、こども夫婦が住む場合の、住宅ローンサービス。基本的にはこどもが払う家賃が、大家である親の年金になるんだけど、そのままやると所有権が移らない。そうではなくて、大家である親がローンの貸し手になって、こども夫婦がローンの借り手になる。実際の大きなお金はいらない。貸し手も借り手もいるのだけれども、ローンがきちんと返済されるかどうかを管理する人がいない。どこかの信託サービスでも乗り出してこないだろうか。けっこう需要あると思うけど。
「三年分ください!」みたいな、「こども部屋が必要な期間だけ、ください!」という権利がついた住宅と、それに伴う住宅ローン。住宅は貸し手の譲渡担保が設定されていて、たとえば15年たつと貸し手に所有権が移転する。そのとき改めて買い取りたければ、買い取ればいいし、引っ越ししたければすればいい。甘えのしみついた、働く意欲のない居候を追い出すにはいい策かも。これからはあなたの住み所はないから、勝手にやりなさい、とね。
ノンリコースの住宅ローン。いや失礼ながら、海の向こうでサブプライム問題が深刻化して家を追われる人が大勢いるというけれども、かれらは家を手放せば、あとの住宅ローンはチャラになる。この国ではそうはいかない。どうして?民事再生法も、個人の再起を図ることを目的に規定されているのに、どうも住宅ローンだけは、既存の金融機関の既得権益になっているみたい。失業するのは、ほんの少しは本人に責任があるかもしれないけれでも(人によるかも知れないけれども)、大部分は景気の低迷だったり経営者の経営の失敗だったり、必ずしも住宅ローンの借り手の責任じゃない。どうもノンリコースローンの住宅ローンをやらないのは、この国の金融機関はまだ「ヴェニスの商人」だからなんじゃなかろうか。辛辣に言えば、借り手の幸せなんかこれっぽちも考えていなくて、きちんと返済してくれるひとがよいお客さんで、すこしでも返済が滞るお客さんは、悪いお客さん、そういうお客さんのローンは、さっさとサービサーに引き取ってもらいましょう、とも聞こえる。個人に大きなリスクを背負わせたままの、住宅ローン政策は、もうやめたほうがいいんじゃないか?
そういえば住宅ローンは、地震で倒壊したとき全額ちゃらになるのだったろうか?昔は、地震保険の保険料があまりに高くて、一部しか補填されなかったはず。でもこれまでの災害では、国の一時金とか支給されて、それで終わりだったはず。罹災したひとは、倒壊して価値のなくなった家に対するローンだけでなく、新しく建てた家までローンを払わなきゃいけない。これこそ金融機関の横暴ではないか!それならいっそ、耐震性に優れた住宅に限っては地震で万が一損害を受けた時には、ローンがただになります、でも再建築するときはうちで借りてね、とするローンのほうがまだまし。抵当権外さなければ、ふつうはそうなるだろうけど、そういうローンがあるという話は聞いたことがない。ほんとにけつの穴がちいさい連中ばかりだな、金融機関の商品開発担当者は。
宝くじつき住宅ローンは、まえにもあったっけ?毎年何人かだけ、住宅ローンが免除される人がいたり、当選金額に応じて、住宅ローン期間が短縮されるとか。宝くじを独占販売しているM銀行なんて、そんなことやったら喜ばれるだろうに。(法律で制限されているかどうかは、知らない。)
テレビコマーシャルで、住宅ローンの宣伝はよくみるけれども、あまりぱっとしない。東京スター銀行の住宅ローンがちょっと秀逸なぐらいだろうか。まだまだ工夫の余地あり。あまり貪欲に他の金融機関の市場を争うと思っていないのかな?いいなあ、金融機関は。
ぼくら不動産屋は、少ない仲介手数料をめぐって、仁義なき戦いを今日も闘っているというのに。

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思い出の場所

友人のブログを読んでいたら、前妻やこどもといった場所、遊んだ場所の記憶が忘れられないと書いている。そうだろうな、と思いつつ、つと私自身が前妻と過ごした日々が過去の温かい記憶になっていくことに、悲しみと喜びが混じったような不思議な感覚になる。
ひとは忘れることができるからこそ、辛い人生を生きていくことができるといった人がいる。またありがたいことに、時間は決して逆戻りしない。したがってつらい過去を再び繰り返さないように学習し、自らを変えていくことができる可能性をすべての人が持っている。あくまで可能性だから、同じ過ちを繰り返す人も少なからずいるだろう。だがチャンスはある。
連れと横浜をデートしていたら、赤レンガ倉庫で、ここで前のカレシとけんかして、帰りの車の中はずっと黙っていたの、と話していた。連れも私も、そういう意味ではあちこちに思い出をしまいこんでは、ときどき思い出している。長く生きるとはこういうことか。ほぼ永遠ともいえる年月を、その記憶をたどって生きることもできるのだろう。ただそれは、いろいろなシチュエーションによって異なるのではないか?過日話題になった「つみきのいえ」や、ディズニーがこの冬公開を予定している「カールじいさんの空飛ぶ家」など、長年連れ添った夫婦との死別は、思い出に生きるしかないのだろう。けれでも不思議なことに、女性は夫が亡くなってもピンピンしている。後追いして自ら命を絶つなんて、男が作り出した幻想なんじゃないか、というぐらい残された人生をしっかり生きている。その様子は、先日倒れて入院した母親が退院したのを誰よりも喜んだ、父親をみてもわかるような気がする。男性のほうが、くよくよしがち、言葉を選ばずに言えば女々しいのではなかろうか?程度はあるだろうが、女性はちっとも女々しくない。男子よ、涙を振り払え、涙は女子のためにこそあるぞ、と自戒の意味で「女々しい」という言葉があるように思える。
記憶は、困ったことに、つらいことは忘れても、楽しかったこと、愉快だったこと、幸福だった日々は、ずっと心に残ることになる。しかもそのとき嫌だったことはすっかり美化されて、なにもかもバラ色の過去だけが、彩り鮮やかに残される。男子よ、だめならさっさと次に行け、とそれが子孫を代々残すためには必要な教えのはずなのに、そうはならないのは、なぜだろう。淡い思い出は、時に生きることを辛くする。思い出の場所。なんだかちょっとせつない。

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なんとなく不安

ここ一週間ぐらい、特に理由のない不安に襲われている。一年後、何をしているんだろうと。

周りには、退職後再就職に相当の苦労を強いられている元同僚や知人友人があふれている。不動産屋なら、企業への再就職をあきらめて独立自営に踏み切った人も少なくない。では自分が、いまできるかと問われると、正直そんな自信はない。客観的に根拠が薄い、のではないか、と冷静に考えてみる。他方、それならどうするか、と迷う。悩む。悩む。悩む。
最近、清算中の本体から事業譲渡を受けて離れていった会社の経営が思わしくない、という情報が入ってくる。それも一社二社の話ではなく、あちこちだ。同じ不動産業を営んでいる以上、業界全体の景気が思わしくないのだから仕方ないのだろうが、せっかく事業計画を立てて、スポンサーに認められ、従業員を伴って事業譲渡を受けたのに、いまではスポンサーからは借金の返済やリストラを迫られるとは。なんとも暗い話である。
いずれも企業規模からいったら、中小零細企業でしかない。かつての上場企業の面影は、そこにはない。けれども従業員のなかには、かつて在職した安定企業の意識しかないのではないかと思うことがある。そして自分自身を振り返って、経営環境が極めて厳しい事業環境において自らリスクをとって事業を成功させていく気概が本当にあるのか、と自問自答する。そして憂鬱になる。
公共事業が縮小され、不動産デベロッパーの事業分野も将来的には縮小せざるをえないのかもしれない。他方、ありあまるといわれている住宅ストックが、耐震性の弱いものであったり、健康で文化的な生活を営む上で十分に寄与するとはいえないような立地や設備環境の住宅も残念ながら少なくない。洪水の危険や、火災の危険など、災害対策の面でも再開発を進める必要性はまだ高い地域がある。加えて高齢化社会を迎えるにあたっての、公共サービスをどのように充実させ、また効率化、低コスト化を図っていくのか、まちづくりにも応用するべき視点があるはずだ。そういう意味で、まだ出番があるはずの不動産開発業者が資金難や雇用不安を抱えているのは、どう考えるべきだろうか?
民主党政権はモラトリアムを実行に移すつもりらしい。おそらく弊害があるのを承知の上で、対症療法を行おうとしているのだろう。一有権者として、理性ではなく感情でとらえるなら、「ありがたい」という心境になる。貨幣という、あやふやな価値のものを再配分の成果として受領できるのであれば、それが将来に悔恨を残すことになる借金になるかもしれないとしても、いま生活を立て直すために必要だとわかっていて、その再建方法が妥当だと客観的に認められるなら目をつぶってもいいのではないか、という気分になる。
こういうことを主張がぶれるというのだろう。わかっていて、それでも弱い気分から脱却できないでいる。まさに政府の思うつぼ、といったところか。しばし無言。景気が悪いということの実感を、失業や家を失う恐怖としてとらえると、とても他人事には考えなれない。テレビのチャンネルをひねるとでてくる、一般サラリーマンの姿すらうらやましくなる。

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好きになれないもの

一般病棟に移ったおふくろに、文庫本五冊の差し入れをしたら、内田樹氏の文庫本が一番喜ばれた。どうも普段手にする「楽ちんな」本が、おふくろと趣味が同じらしい。そのほかはどうも合わないのだろうけど。
ネットをかたかた見ていたら、これとは正反対に、なんとなく苦手なひとの記事がでていた。
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/asahi-20090916-01/1.htm
どうしてだか、この方がテレビにでているとチャネルを変えてしまうぐらい、好きになれない。年齢が近いから?いやそんなことは後から知ったことで、大きな問題じゃない。離婚歴が二回もあるから?それも違うような気がする。記事が伝えているように、前向きさの押し売りがどうも好きになれない、というところだろうか。
しょせん人間なんて、怠け者だし、好き嫌いが激しいし、落ち込むこともねたむことも、あるわいな、だから人間なんじゃない?という考え方に対して、いつもいつもがんばって、さらに上を目指すのは、いいんだけれども、余裕ないよね。のんびり何もしない一日を過ごしたり、いい方悪いけど、まったく何の役にも立たないかもしれないけど、ただおしゃべりをしていたり、散歩していたり、そういう時間がときには必要だったり、そういう時間が一日のうちにも必ず必要な人もいるかもしれないし、そういう意味で、上昇志向の強すぎる人って疲れるんだよね。いっしょにいるのも、テレビで見ているのも。信念をもって取り組んでいるのと、ちょっと違う。小泉元首相のように、X-JAPANのファンです、と言ってくれるほうが、なんだかひととして安心する。リラックスするためにどうするか、とかじゃなくて、意図的にリラックスできなきゃ、そもそも緊張感のある仕事なんかできないでしょ。(ひとによるだろうけど)どうにも一面しかみせない、かっこいいひと、きれいなひと、かわいいひとは苦手。
同じ意味で松田聖子さんがいまでも苦手。本人に会ったことがあるわけでもなく、話したこともあるわけじゃない。けれども、あまりにも「作られたイメージ」が強すぎて、本人の姿がいったいどこにあるのか、まったくわからないから、苦手。アイドルってそういうものなのかもしれないけれども、そのなかでも、イメージを強力に売り込んできたからか、どうも拒絶反応をしめしてしまう。苦手なんだなあ。
瀬戸内寂聴さん。苦手だなあ。なんだか苦手。好き勝手してきました、苦労してきました、だから今の自分があるんです、それで?もしかしたら深ーい教えがそこにはあるのかもしれない。まして仏門に入る皆様がきらいなわけじゃない。けれども、どうにも素直に話を聞けない自分がいて、それは上記二人に通じるなにかを感じてしまう。(ごめんなさい)
好き嫌いは、その時々で変るものだが、どうもこのなんというか、うさんくささを感じてしまうなにかは、ずっとかわらず好きになれない。そうね、うそくささ、ぶりっ子がきらいなんだろうね。若くても年取っていても、賢くてもかわいくても。
人間ってもっと下品で、きたないものじゃなかったっけ?浮気もするし、さぼるし。無駄遣いもするし、掃除もなまけるし。億ションのモデルルームをみているような、そんな暮らしを「見せるひと」は、やっぱり好きになれないし、なにより信用できないよね。野田恵のような落差が、僕は好きだなあ。

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おふくろ緊急入院

おふくろが緊急入院した。親父から携帯に連絡があり、動揺しているだろうに、懸命に落ち着いて対応しようとしている。親父らしい。
もしかすると、もしものことがあるかもしれない。ふと頭を最悪の事態がよぎる。が、同時に、ああいい人生だったろうな、と客観的に思える。おふくろは、ひと一倍苦労したろうけど、それなりに満足した毎日を送っていただろうし、人生を楽しんでいる。心残りがもしあるとすると、わたしの育児記録を世の中に出版物として送り出せなかった、有名人の母として苦労話ができなかったことぐらいではないか。
そりゃあ、母が緊急入院したと言われて、心配していない訳ではない。会社をでて、そのまま病院に向かおうとしたが、集中治療室にいるので面会謝絶だと聞いて、ただ待つしかないのだから。
万が一のことがあったら、さぞ悲しいんだろうな。母とは、無条件の愛を無制限に与えてくれる、唯一無比の存在だから。またもっといろいろお礼、お返しできたのに、できなくなるのだから。でもその日はいつかくるはずで、両親の年齢を考えると、いつきてもおかしくない。そういうものだと思わなきゃいけないんだろうな。
今日も明日も、一生懸命生きよう。

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それ、役に立つの?

「下流志向」内田樹著を読んで、驚いた。いまどきの小学生が、ひらがなや算数の九九、アルファベットを習うのに、「それって役に立つの?」と教師に質問するという。もし私が教壇に立っていて、そんな質問をこどもからされたら、唖然としてしばらく声が出ないだろう。質問に答えようとするだろうか?いや、黙って教壇を降りてしまうかも。誰だ、こんなわけのわからないこどもを学校に寄越したのは!と怒りながら。
役に立つかどうか、わからないけれども、知りたいから学ぶ、未知のものを既知のものにしたいから学ぶ、より広い視野ものの考えかた、先人の知恵を学びたいから学ぶなどなど、理由はいくらでもある。そもそもNGOや国連の広報などでは、学びたいのに学べないこどもたちが大勢いるというのに、学ぶ喜びをいまようやく感じることができる子どもたちがいるというのに、その権利をもっているにすぎないこどもたちが、「ねえ、それって学ぶといいことがあるの?役に立つの?」などと口に出していいはずがない。ましてひらがなや九九がわかならくて、いったい何が役に立つというのだろう?学ぶことを放棄することは、自らの判断で「選択することができる能力」を身につけてからするべきことであって、少なくとも義務教育の間は、戦争もなく内戦もなく、飢えに苦しむことも住まいに困ることもなく、十分に豊かな国に生まれ育ったことに感謝することはあっても、それを勘違いして、教育という苦痛を我慢するための対価などと考えることが許されるはずがない。
そりゃ教育の質に対して、こどもを預ける側の親の立場から注文をつけることも、クレームを発することもあるだろう。それはあって当然。他方、そのことと子ども自身が学ぶ内容を選択できるという話は全く別。まして教育を、他の経済行為と同様に対価性のあるなにがしかのサービスと捉えることによる弊害は少なくない。ややこしいのは、予備校や専門学校が行う教育と、大学や高校が行う教育の質が異なるので、そこを取り出して対価性の有無を議論すると、並行線になる。すべての知識や知恵を、金銭的に計測可能な(唯一の)尺度で統一しようとすることに無理がある、というほうが、より正確かもしれない。
企業活動においても、たとえばコンプライアンスやガバナンス、メンタルヘルス、組織論、リーダーシップ、イノベーション、リストラクチャリング、リエンジニアリングなど、間接的に利益や売上の向上を目指していても、それが直接的には評価のしづらいものにも関わらず、企業活動において無視できないほど大きな役割を果たすものはいくらでもある。トップセールスマンや、アイディアマンだけでは企業は成り立たない。企業とはひとの集団であり、ひとの集団である以上、様々な問題が起こり、様々な企業人を雇うからこそ、苦難への対処が可能になる場合がある。それは単に優秀な人ばかりを雇用すればいいというものではない。組織として活動するのに最適な人員配置、採用計画をすることこそが、企業の命題のはずである。どうもそれがわかっていないようだ。
内田氏のいう、社会人になってからの昇進放棄は、少し説明不足のような気がする。もし昇進放棄の結果について、正確な情報、正確な将来予測ができるほど判断能力があるならば、昇進放棄の選択をしてもかまわないだろう。ただしそんなことができるには、社会人経験を十年二十年積まなければわからないのではないか?もしかしたら定年まで勤め上げても、わからないかもしれない。少なくとも、私自身は「わからない。」年齢を重ねるごとに、企業の、または社会が年長者に求める社会的役割は変化していく。その変化する期待役割を何らかの形で(自営にしろ、企業勤務にしろ)担うことで、ひとは社会生活をおくる権利を得、社会から認知されるのではないか?だから結果として、「昇進の機会を放棄して退職するなんてありえない!」になるのだろう。ただ生き方の選択として、必要以上のものを求めない、という考え方をするひとが増えている。若い世代にくるまが売れなくなったというのもその一端だろう。その反作用で、必要以上の稼ぎを求めない、したがってそれに伴うリスクも責任も引き受けたくない、というひともいるに違いない。ただ惜しむらくは、その考え方をする人に、他者との共存を念頭に置いた配慮はないように思える。昇進して、よりたくさんもらえるようになった収入を、たとえば失職して仕事がない他者と分かち合うという発想はないだろう。より広い家に移り住んだ時に、その家の一部を貸そうなんて発想もないのではないか。(借家なら、そもそもできない場合もあるだろうけど)いつのまにか、助け合いの精神が失われて、「自分の世界」だけにひきこもっているのは残念でならない。
いざというときに助けてくれる友人を大事にすることが、なによりも大事。必ずしも大勢である必要はないが、何人かいるほうが心強い。その何人かを得るために、みずからも他者のなにがしかの役に立つことが求められ、だからこそ留保条件のない学びや働きが必要なのだろうと、わたしは思う。もしもじぶんのこどもが、「それって役に立つの?」と聞いてきたら、その瞬間にこどもに一切のプレゼントをやめるだろう。「学ぶ気のない、将来に期待が持てないこどものために、どうしてわたしが期待しなきゃいけないのか、余計な金銭的負担をしなきゃいけないのか、と疑問を付して。」

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裁判員制度に思う

今日、街角で裁判員制度に反対するキャンペーンを行っているのを見かけた。彼らが言うには、「裁判員制度は悪法です。裁判官がきちんと正しい判断をすればすむことなのに、その責任を放棄して一般国民に責任を転嫁しています。」という。はて、そもそも裁判員制度が導入された背景には、1)裁判官の下す判断が、一般国民が感じる一般的な倫理基準、価値基準からあまりにも懸け離れたものになっている例が散見される。2)一般国民もまたその当事者にならない限り、裁判そのものに無関心である。3)海外には米国の陪審員制度など一般国民の民意を裁判結果に反映させる制度が存在する。4)我が国においても、戦後50年を経て民主主義教育が浸透しており、一般国民を裁判に参加させる土壌は整っているのではないか5)裁判官は専門職であり、国民の一般感情を反映させるにはコストがかかりすぎる。などの議論がたぶんあったのだろう。これに対して、「裁判官がきちんと正しい判断をすればよい」というのは、どうにも理解に苦しむ。
職業専門家としての裁判官は、(おそらく)司法試験に合格するために法律を懸命に勉強したのみならず、日々判決を出すために裁判資料を読み、過去の判例を見比べ、今日の実情に照らして、どのような判決を下すのが適切か悩み精進してきただろうし、いまもすれは変わらないことだろう。他方、世情、というか民意というものは、時代背景や社会情勢によって異なる倫理体系間の優先順位や、具体的な公平の考え方など変化しているはずであり、それは過去の判例や和解には現れてこない。したがって、いくら勉強しても得られるものではなく、むしろ様々な職業活動、社会環境においてこそ、培われるものだろう。
いまの裁判員制度を必ずしも肯定するものではないが、さはさりなん、制度疲労を起こしている裁判制度をどのように作り替えるかは、もう少し建設的な議論を展開してもいいのではないか?たかが街角のキャンペーンであるが、どうにも思慮が浅いというか、浅はかさを感じてしまった。

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